1843〜1844年
鉄道の計画が次々に出され、議会への申請が増えた
63 → 199件
議会への鉄道法案の申請(1843年 → 1844年)

3分でわかる 鉄道狂時代
横に送って見られます
1843〜1844年
鉄道の計画が次々に出され、議会への申請が増えた
63 → 199件
議会への鉄道法案の申請(1843年 → 1844年)
1837〜1845年
株は、額面の1割に満たない額で仮の株券がもらえた
残りは、建設が進むたびに会社から請求されて払う
1844〜1845年
新しい鉄道の株に、払った額の2倍以上の値が付いた
33.7%
申し込みから最初の払込請求までの平均の収益(分割払込の株)
1845年
買っていたのは、主に紳士や商人だった
34.3% と30.7%
資本を出した割合(紳士・軍人・貴族 と 商人)
1845年8月8日
鉄道株の指数が、いちばん高いところに来た
1,984
1844年1月を1,000とした指数
1845年10月16日
イングランド銀行が金利を上げると、株の市場が恐慌に転じた
2.5% → 3.0%
公定歩合。2週間足らずで株は2〜3か月前の値を割った
1847年
毎月の払込請求と穀物の輸入で、お金が出ていった
615万ポンド
1847年1月の払込請求。10月25日、銀行は8% で貸し出した
1850年4月19日
株の指数は、頂点から66.1% 下がった
1,984 → 673
建設費は見積もりより約50% 高く、収入は30〜40% 低かった
1850年
それでも線路は残った
6,621マイル
営業中の鉄道(1843年は2,044マイル)
673
1850年4月19日の鉄道株の指数(1844年1月=1,000)
6,621マイル
1850年に営業中の鉄道。株が下がっても線路は延びた
1845年の夏。新しい鉄道の株を申し込めます。額面の1割に満たない額で仮の株券が手に入り、値は払った額の2倍以上です。どうしますか?
選んでみてください
多くの人がそうしました。値が額面の1割分上がれば、元手は倍になります。けれども1割分下がれば払った額はすべて消え、残り9割を払う約束は残ります。1847年には払込請求が毎月来ました。
鉄道株の指数は8月8日の1,984が頂点で、10月の利上げのあと崩れ、1850年4月には673まで下がりました。建設費は見積もりより約50% 高く、収入は30〜40% 低かったのです。
株は下がりましたが、線路は残りました。認められた鉄道の約60% が1852年までに建設されています。鉄道という技術の値打ちと、鉄道株の値段は、別のものでした。
1845年10月16日(木) ロンドン
10月16日の木曜、イングランド銀行は公定歩合を3.0% に上げました。金曜には取引が細り、土曜に警報が始まります。株式市場の恐慌は、ロンドンからリヴァプール、エディンバラへ広がりました。2週間足らずで、新しい鉄道の株も古い鉄道の株も、2〜3か月前の値を割っています。
その2か月前、1845年8月8日に、鉄道株の指数は1,984で頂点を付けていました。1844年1月を1,000とした指数です。11月末には1,623まで下がります。
金利が上がったわけは、議会へ出す鉄道計画のために政府の代理人へ預けるお金、約1,460万ポンドの手当てと、前の会期に認められた鉄道の払込請求にあった、とされます。公定歩合が2.5% から3.0% に上がっただけで、なぜ市場は崩れたのか。鉄道の株の買い方から見ていきます。
1837年〜1845年
新しい鉄道会社の株は、全額を最初に払う必要がありませんでした。申し込んで割り当てを受けた人は、預け金を払って、持参人払いの仮の株券を受け取ります。最初に払うのは、額面の10% に満たない額です。残りは、建設が進むにつれて会社から払込請求を受けて払います。認められた後の最初の請求の後でも、払い込まれていたのは平均24.4% でした。
1844〜45年の好況の間、新しい鉄道の株の値段は、払い込んだ額の平均2倍以上でした。申し込みから最初の払込請求までの平均の収益は、分割払込の株で33.7%、同じものを全額払込に直すと9.1% です。
主な流れを簡略化した図です。会社が法人になる前と後で、責任の範囲が変わりました。
この図で分かること申し込んだときは額面の1割に満たない額で株が手に入り、残りは後から払込請求で払う仕組みと、値動きが払った額に比べて大きく響くことが分かります。
計画は増えました。議会への鉄道法案の申請は、1843年に63件、1844年に199件、1845年の末までにさらに562件。1845年11月17日にタイムズが載せた表では、計画中の会社は1,263社、資本の合計は5億6,320万3,000ポンドでした。
1845年〜1846年
議会は、申込人の名簿を印刷していました。1845年の名簿には24,844人、1846年の名簿には2,000ポンドを超える申込人12,533人が載っています。職業で見ると、資本の34.3% を紳士・軍人・貴族が、30.7% を商人が出し、聖職者と女性は合わせて1.2%、労働者は約0.1% でした。
「未亡人や聖職者、貧しい素人が財産を失った」という話は、サッカレーの風刺詩や当時の風刺紙、1851年の描写が広めたものです。名簿で数えると、資本の大部分を出したのは商人・紳士・法律家でした。研究者のキャンベルとターナーは、経験のある投資家が資本の大部分を出したと見て、素朴な投資家が熱狂を動かしたとは言えない、としています。
1845年10月〜1846年2月
新しい計画を議会に出すには、現金で預け金を払う決まりでした。預け金は1844年2月に10% から5% へ下げられ、1845年に10% へ戻されています。
預け金の払い込みは、1846年の1〜2月に集中しました。ラッセル卿は今年の払い込みを900万ポンドと見込み、別の議員は600万〜700万ポンドが固定され、出回るお金の5分の1ないし6分の1が引き揚げられたと述べています。大蔵大臣とピールは、現金以外での預け金を認めませんでした。
1846年1月26日、ピールは、すでに認められた鉄道だけで3年に約7,000万ポンドが要ると述べ、特別委員会を求めました。7月3日の法は、まだ法を得ていない会社が、仮の株券を持つ人々の集会で解散できると定めます。
1847年
1847年、建設が進むにつれて、払込請求が毎月来ました。1月615万ポンド、7月530万ポンド、9月416万ポンド。同じ年、穀物の輸入にもお金が出ていきます。イングランド銀行の金は、1月末の1,290万ポンドから4月24日には920万ポンドに減りました。
エヴァンズが月ごとに記す英国線と外国線の払込請求。4・5月は記述に無い。1月の615万ポンドのうち英国線は450万。
この図で分かること建設が進んだ1847年に、払込請求が毎月数百万ポンドの規模で続いたことが分かります。
出所: D. Morier Evans 1848 pp.54–56, 64–65, 71, 74, 98
10月1日、銀行が国債を担保にした貸し付けを止めると、全面的な恐慌になりました。10月25日の政府の書簡で、銀行は最低8% の割引率で貸し出すことになります。書簡の後、しまい込まれていた紙幣が戻ってきました。
この恐慌と鉄道の払込請求の関係は、見方が分かれます。大蔵大臣ウッドは穀物と鉄道への資本の吸収を主な原因とし、ラッセル卿は払込請求を重く見ませんでした。研究者のオドリズコは恐慌が鉄道の投資にほとんど影響しなかったとし、キャンベルは払込請求が株価を下げた効果は有意だが小さいとします。食い違っているのは、鉄道がこの恐慌をどこまで起こしたかです。
1848年〜1850年
1848年10月、新しい線の収入の低さが隠せなくなり、1849年に配当が減って、ハドソンの会計が明るみに出ます。鉄道株の指数は1850年4月19日に673まで下がりました。
損の根は、見込みの違いでした。建設費は見積もりより約50% 高く、営業費は収入の40% のはずが約50%、収入は見積もりより30〜40% 低かったのです。
「鉄道王ハドソンが一人で作り、一人で壊した」とも言われます。ハドソンは1849年に、受け取った土地代を自分の口座に入れたなどと告発されました。けれどもオドリズコは、損の根は建設費と収入の見込み違いにあるとし、会計の露見は株価が底に達した時期と重なったと見ます。
一方で、線路は残りました。営業中の鉄道は1843年の2,044マイルから、1850年には6,621マイルになります。認められた鉄道の約60% が、1852年までに建設されました。1847年の鉄道への投資は約4,400万ポンドで、国の予算約5,000万ポンドに並ぶ大きさでした。
オドリズコの年表による。1846年は Return of Railway Acts 1844–47では4,593マイル(株式資本9,546万ポンド)。認可の約6割が1852年までに建設された。
この図で分かること認められた鉄道の延長が1846年に頂点を付け、その後急に減ったことが分かります。
出所: Andrew Odlyzko 2010 pp.77–78, 注215
1845年10月16日に戻る
冒頭の問いに戻ります。株は額面の1割に満たない額で手に入り、値上がりの分が払った額に比べて大きく膨らみました。金利は安く、議会は1845年の秋に計画を絞りませんでした。建設費と収入の見込みは外れていました。そこに2.5% から3.0% への利上げと、預け金の手当てが重なったのです。
なぜ多くの人が、後から見れば割の悪い鉄道株を買ったのかは、開いた問いです。キャンベルとターナーは、国債が増えずに貯蓄の行き場が乏しかったこと、上がっている間に売り抜けようとする行動、新しい技術の見通しの割り引き方、議会が計画を絞らなかったことを候補に挙げ、どれとも決めていません。オドリズコは、需要が期待に足りないことを示す数があったのに無視された、と見ます。
この図で分かること安い金利と1割で買える株から、頂点、利上げ、預け金と払込請求、そして残った線路までを一続きでたどれます。
ここから先は、もとの教材の本文・年表・図・研究者の見方を、省かずに読めます。見出しを押すと開きます。
1844年から1845年にかけて、イギリスで千を超える鉄道会社が計画され、鉄道株の指数は1845年8月8日に1,984(1844年1月=1,000)で頂点を付けた。株は分割払込で、申込人は額面の10% 未満を払って仮株券を受け取り、建設が進むにつれて払込請求に応じた。1845年10月16日にイングランド銀行が公定歩合を3% へ上げると株式市場は恐慌に転じ、1847年には払込請求と穀物の輸入が重なって商業恐慌となり、10月25日の政府書簡で銀行は8% で貸し出した。指数は1850年4月に673まで下がったが、認可の約6割は建設され、営業中の鉄道は1850年に6,621マイルになった。
もとの問い世界を変えた鉄道は、なぜバブルになったのか。
1830年、リヴァプールとマンチェスターを結ぶ鉄道が開業しました。1830年代の半ばに議会は59社、約3,640万ポンドの鉄道を認可しましたが、1836年のイングランドの鉄道法23本のうち4本は放棄され、完成したのは15本でした。その後の推進は途絶え、1843年の鉄道法は24本にとどまります。同じ年、創刊したばかりのエコノミストは、英国の大きな幹線はもう出来上がっている、と書きました。
1844年に潮目が変わります。前年と当年の豊作で景気が戻り、9月7日、新しい銀行特許条例の施行と同時にイングランド銀行は公定歩合を2.5% へ下げました。銀行の金塊は1842年1月の562万9,000ポンドから1845年1月の1,486万7,000ポンドへ増えています。この年37件の鉄道が認可され、議会への申請は前年の63件から199件に増えました。2月には、議会が鉄道の請願に求める預託が10% から5% へ下げられています。
会社を作る手順は決まっていました。仮委員会が目論見書を出し、申込人は割当を受けると預託を払って持参人払いの仮株券を受け取ります。会社は11月末までに図面を役所へ出し、翌年の会期に議会へ法案を出しますが、そのとき、10% を払い込んで資本の4分の3を引き受けた株主の氏名・住所・職業を載せた申込契約を添えなければなりません。法が成立すれば仮株券は株になり、建設が進むにつれて会社は残りの払込を請求します。1845年1月に16社、4月には月に52社が登録され、議会はこの春、前年の申込契約209件の申込人すべてを539ページの名簿に印刷しました。
鉄道株の指数は1845年8月8日に1,984(1844年1月を1,000として)で頂点を付け、2か月そのあたりに留まります。この年、下院は預託を10% へ戻し、会計総監へ現金で払い込むことを求めました。それでも登録は止まらず、9月には457社、10月には363社が加わります。タイムズは7月30日に将来の払込請求を警告し、10月のブラックウッズ誌にはエイトンの風刺「グレンマッチキン鉄道」が載りました。
転換点は10月16日の木曜日でした。イングランド銀行が公定歩合を3% へ上げると、金曜に取引が細り、土曜に警報が始まり、株式市場の恐慌はロンドンからリヴァプール、エディンバラへ広がります。2週間足らずで新旧の株価は2、3か月前の水準を割りました。トゥックはこの時期の金利上昇を、議会へ出す計画のために預ける約1,460万ポンドの手当と、前会期に認可された線の払込請求に帰しています。11月6日、公定歩合は3.5% になりました。
11月17日、タイムズはスパックマンの表を掲げました。完成した47社が集めた資本は7,068万877ポンド、建設中の118線には6,735万9,325ポンドが要り、計画中の1,263社の資本は5億6,320万3,000ポンド、その預託だけで5,913万6,300ポンドに上る、という内容です。11月30日の期限までに商務省へ出された図面は、翌1月にピールが数えたところ、イングランド606、スコットランド121、アイルランド83の815件、延長にして20,687マイルでした。1,263の計画のうち規定に適う提出に至ったのは半分に満たなかった、とエヴァンズは記します。
1846年1月、預託金の払込が集中します。ラッセル卿は前年の払込が300万ポンド、今年は900万ポンドと見込み、ヘイスティは800万から1,000万ポンドを開会から2週間で払うと述べ、スチュアートは600万から700万ポンドが固定されて流通高の5分の1から6分の1が引き揚げられたと述べました。大蔵大臣とピールは現金以外の預託を認めず、規則を緩めませんでした。1月26日、ピールは1844年の48本と1845年の118本の鉄道法が認めた鉄道の完成だけで3年に約7,000万ポンドが要ると述べ、特別委員会を提案します。7月3日の解散法は、法を得ていない会社が仮株券の所持人の集会で解散できると定め、8月28日の法は商務省の鉄道の権限を鉄道委員へ移しました。
1847年、払込請求と穀物の輸入代金が重なります。請求は1月に615万ポンド、7月に530万ポンド、9月に416万ポンド。銀行の金塊は1月末の1,290万ポンドから4月24日の920万ポンドへ減り、公定歩合は1月に3.5% と4%、4月8日に5%、8月5日に5.5%、9月30日に6% と上がりました。10月1日、銀行が公債を担保とする貸付を止めると全面的な恐慌になり、23日にロンドンの銀行家が首相官邸へ条例の停止を求めに行き、25日の政府書簡で銀行は最低割引率8% で貸し出すことになります。退蔵されていた紙幣が戻り、恐慌は収まりました。
建設は続きました。議会が認可した延長は1845年に2,700マイル、1846年に4,538マイル。営業中の鉄道は1843年の2,044マイルから1850年の6,621マイルへ増え、累積の投資資本は6,750万ポンドから2億4,580万ポンドになりました。投資の年額は1847年に約4,400万ポンドで頂点を付け、国の予算に並びます。1848年10月に新線の収入の低さが隠せなくなり、1849年に配当が減って、指数は1850年4月19日に673の底を付けました。
動いたのは、払い込まれた金より、払い込む約束でした。新会社の株は分割払込で、申込人が最初に払う預託は額面の10% 未満です。それでも株の値動きは額面全体に掛かります。1844年から1845年の好況の間、新鉄道株の市場価格は払い込まれた額の平均2倍以上で、1845年に認可された会社の price/par 比率は頂点で4.36に達しました。全額を払い込んだ株に換算すると1.24です。同じ会社の全額払込株と分割払込株は、未払込の額を割り引くと先物の関係で値付けされていました。値段そのものより梃子が収益を膨らませていた、というのがキャンベルの読みです。
申込から法成立後の最初の払込請求までの収益は、分割払込で平均33.7%、全額払込なら9.1% でした。1844年に認可された会社では57.5% と16.6%、1847年に認可された会社では −19.6% と −2.7% です。既存の会社も同じ市場にいました。グレート・ウェスタン鉄道の総収益指数は1843年2月の1,000から1845年2月の1,817へ上がり、1848年3月に979まで戻っています。1845年の配当は8% でした。
誰が払い込んだのか。議会の名簿を数えたキャンベルとターナーによれば、1845年の名簿は24,844人で8,320万ポンド、1846年の名簿(2,000ポンド超)は12,533人で1億2,140万ポンドです。資本の30.7% を商人が、34.3% を紳士・軍人・貴族が、7.8% を法律家が、7.8% を金融業者が出しました。聖職者と女性は1.2%、労働者階級は0.1% です。上位4パーセンタイルが資本の半分を、上位1% の342人が31.3% を出し、上昇期と頂点の両方に投資した3,248人が46.6% を出しています。スコットランドの申込人の30.6% は銀行の株主でもありました。
預託金は現金で、大法官府の会計総監の名義でイングランド銀行に置かれました。引出しには約10日の予告が要ります。1846年1月、この払込がシティの割引を止め、ハドソンは大蔵省証券や公債で預けさせればよいと提案しました。春の預託法の改正がそれを認めています。
払込請求は建設中に続きます。1847年の請求は月に140万から615万ポンドで、同じ年に輸入穀物の代金は15か月で3,356万3,476ポンドに達しました。大蔵大臣は11月30日に、鉄道の支出が1846年上半期の981万5,000ポンドから下半期の2,667万ポンド、1847年上半期の2,577万ポンドへ増え、同じ勢いなら下半期は3,800万ポンドに達したと述べ、穀物と鉄道で15か月に8,000万から9,000万ポンドが吸われた、と説明しました。損失の根は、オドリズコによれば、建設費が見積より約50% 高く、営業費が収入の4割でなく約5割、収入が見積より30から40% 低かったことにあります。公式の見込利益は1830年代の10から15% に対し、資本の約7% に過ぎませんでした。
鉄道狂の逸話は、崩落の直後から作られました。サッカレーの風刺詩「投機家たち」と風刺紙、1848年のエヴァンズ、1851年のフランシスがその出どころで、マッケイは1852年の第2版で南海計画の章の末尾に注を足し、「南海計画は1845年まで商業的賭博への熱中の英国史上で最大の例であった。初版はその年と翌年の大鉄道狂の発生のしばらく前に刊行された」と書きました。
「未亡人と聖職者、貧しい素人が財産を失った」。フランシスは、息子が寡婦の母の金で賭け、商人が幼い娘の名で申し込み、召使いが貯蓄銀行から金を引き出した、と描きます。クランリカード侯が上院で挙げた、年54ポンドの半給将校が4万1,500ポンドを、ケントの助任司祭が2万5,000ポンドを申し込んだ例も、その像を裏書きしました。議会の名簿で数えると、聖職者と女性が出した資本は1.2%、労働者階級は0.1% です。ただしグレート・ウェスタン鉄道の名簿では、女性と未経験者は1845年から1848年の間に敗者になりやすく、商人と実業家は勝者になりやすい、という違いも数えられています。
「中産階級が総崩れになった」。出どころはフランシスの「他のどの恐慌もこれほど中産階級に致命的ではなかった、というのが事情に通じた人々の確信だ」と、エヴァンズの「貴族から農民まで、無傷で逃れた者はほとんどいない」です。数えられるのは、専門職と事務職が投資家の約10%、資本の約6% だったことまでで、損失の総額と破産の件数を数えた統計は見つかっていません。
「ブロンテ姉妹とダーウィンも損をした」。出どころはシャーロット・ブロンテの書簡で、1849年の末に、額面50ポンドのヨーク・アンド・ノース・ミッドランド株が一時120に上がり数年10% の配当を払ったが、いまは20だ、と書いています。ダーウィンの主な持株はロンドン・アンド・ノース・ウェスタンで、同じ時期に頂点から約55% 下がっていました。書簡は原文ではなく、オドリズコが引く範囲で読んでいます。
「鉄道王ハドソンが一人で作り、一人で壊した」。ハドソンは1832年にヨーク市の保健委員、1837年に市長となり、1845年には記念金に約2万ポンドが申し込まれました。1849年の告発は、1845年12月に受け取った土地代3万1,000ポンドを自分の口座に入れたことなどを問い、フランシスは「彼と同僚がした行いのために、一人の名だけが晒された」と書きます。オドリズコは、1849年の会計の露見で株価が底に達したとしつつ、損失の根は建設費と収入の見込違いにあり、一人を責めることは問題を隠す、と論じます。
「歴史上で最も大きなバブル」。マッケイの注、1856年版の記述、エコノミストの2008年の記事がその系譜です。分母付きで言えるのは、1847年の鉄道投資が約4,400万ポンドで国の予算に並び、GDP の6.7% に当たったことまでです。
「内部者が素人を収奪した」「鉄道は泡だった」。前者について、キャンベルとターナーは内部者の投資が実業家や中産階級より良い成績ではなかったことを示し、収奪の証拠を見つけていません。後者について、認可の約6割は1852年までに建設され、営業中の鉄道は1850年に6,621マイルになっています。値段は崩れ、線路は残りました。
「未亡人と聖職者、貧しい素人が財産を失った」
誇張出どころ: サッカレー「投機家たち」・風刺紙・Francis 1851(寡婦の母の金・幼い娘・クランリカード侯の例)
「中産階級が総崩れになった」
誇張出どころ: Francis 1851 p.195「他のどの恐慌もこれほど中産階級に致命的ではなかった」・Evans 1848 p.52・Bryer 1991
Gareth Campbell, John D. Turner 2012 John Francis 1851 D. Morier Evans 1848
「鉄道王ハドソンが一人で作り、一人で壊した」
誇張出どころ: 1849年の告発と新聞、Yorkshireman 紙の小冊子(Odlyzko 注)、Francis 1851第7〜8章
「歴史上で最も大きなバブル」
争いあり出どころ: Mackay 1852(注)・1856年版、Economist 2008
Charles Mackay 1852 Gareth Campbell, John D. Turner 2012 Gareth Campbell 2013 Andrew Odlyzko 2010
この事件から今に残るのは、値段より構造です。額面の1割に満たない預託で額面全体の値動きに曝される分割払込の梃子、期限までに現金を集めさせる預託の規則、そして建設中に続く払込請求。値が上がる間は梃子が収益を膨らませ、金利が上がると同じ梃子が逆に回りました。これは繰り返す構造のページの「信用には、何を差し出すのか」と「時間に値段をつける」で扱います。
新しい技術に投じられた資金が、どの時点で、誰に、どの手順で請求されるかは、制度ごとに違います。鉄道をドットコムや AI と一枚の絵に重ねると、この違いが先に消えます。
チューリップ狂とは、後世が語った「素人の熱狂」の像を一次記録が退けた点で並べられます。ゴールドガーが公証人の記録で参加者を数えたように、キャンベルとターナーは議会の申込人名簿で数えました。違うのは制度の場所です。鉄道株は議会の認可、預託、上場という制度の中にあり、球根の先渡し契約は酒場と公証人の外にありました。価格の資料も違い、球根には連続した相場表がありません。
1907年の恐慌とは、信用が止まった場所に最後の貸し手の手が届かず、法の外側で手当てされた点で結べます。1847年は政府の書簡で条例からの逸脱が認められ、1907年は清算所の外にいた信託会社が委員会と財務省の預託で支えられました。仕組みも数も違うので、比較はこの構造に限ります。
1980年代の日本の資産バブルとは並べません。土地と鉄道株は供給の伸び方が違います。マドフとも並べません。鉄道会社は実在の路線を建設しました。
図と本文の数が、どの資料のどこから来ているか。数値台帳・図の出どころ・資料の層・参考文献を、別のページにまとめました。
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