1636年11月
酒場の集まりで、普通の品種の球根の売り買いが始まった
売られたのは、土の中の球根を5〜6月に渡す約束
1637年2月3日、オランダのハールレムの酒場で、チューリップの球根の売り手は値を下げながら3度落札させました。翌日、取引そのものが止まります。

3分でわかる チューリップ狂
横に送って見られます
1636年11月
酒場の集まりで、普通の品種の球根の売り買いが始まった
売られたのは、土の中の球根を5〜6月に渡す約束
冬のあいだ
代金は、春に球根を渡すときまで払われなかった
売り手が球根を持っているかは、誰も確かめなかった
1637年1〜2月
普通の品種1ポンドの値が、急に上がった
385 → 1,500グルデン
1月23日 → 2月2日(公証人の記録)
1637年2月3日
酒場で、落札のたびに値が下がった
1,250 → 1,100 → 1,000
1ポンドの値(グルデン)。翌日、取引が止まった
1637年2月5日
2日後、別の町の競売では記録的な値がついた
90,000グルデン
アルクマールの遺児のための競売の合計
1630年代
大きく買った人は少なく、主に商人と職人だった
37人
300グルデンを超えて使ったと記録で分かる人
1637年2月24日〜
約束は、少ない解約金で片づけられていった
10% → 3.5%
花商人の申し合わせ → 1638年5月28日の裁定
崩落の後
国の経済は崩れず、球根の売り買いも続いた
11,700グルデン
1637年3月17日に公正証書で結ばれた売買
1637年〜1841年
「船乗りが球根を食べた」などの話は、後で広まった
風刺の歌や古い逸話が、本に写されて大きくなった
1,500グルデン
普通の品種1ポンドの、2月2日の値
5,000グルデン
いちばん高い球根の値(約)。家1軒の値に当たる
3.5%
最後に決まった解約金。契約の値に対する割合
1637年の冬。あなたは酒場で、5月に球根を受け取る約束を高い値で買いました。代金はまだ払っていません。2月、値が崩れ、取引が止まりました。どうなるでしょう?
選んでみてください
記録はそうなっていません。代金は引き渡しまで動かない約束で、失われたのは多くが帳簿の上の利益でした。破産の記録に、チューリップが原因の破産者は見当たりません。
記録に残る実際の動きは、こちらです。2月24日の花商人の申し合わせは10% で解約できるとし、1638年5月28日の裁定で、解約金は契約の値の3.5% と決まりました。
値が上がり、崩れたことは記録で確かめられます。けれども「誰もが加わり、多くの人が破産した」という話は、記録からは支えられません。400年語られた話の多くは、崩落の直後の風刺から生まれていました。
1637年2月3日(火) ハールレム
その日、ハールレムの酒場の集まりで、普通の品種の球根1ポンドが、1,250グルデン、1,100グルデン、1,000グルデンと、値を下げながら落札されました。翌日、取引は止まります。
その前の数週間、同じ普通の品種(Switsers)の1ポンドの値は、公証人の記録で1月23日に385グルデン、2月2日に1,500グルデンまで上がっていました。2月9日の記録は1,100グルデンです。
公証人記録に残る1637年1〜2月の Switsers 1ポンドの価格。1月15日の120は断られた言い値。
この図で分かること普通の品種の値が1637年1月から2月初めに急に上がり、崩落の後に下がったことが分かります。
出所: Ernst Heinrich Krelage 1942 pp.51–52(Posthumus の抜粋)
ところが、2日後の2月5日、アルクマールで親を亡くした子どもたちのために開かれた球根の競売では、合わせて90,000グルデンの記録的な値がつきました。値が崩れた同じ週に、記録的な値もついている。二つの記録を並べると、「一夜ですべてが崩れた」という話とは違う姿が見えてきます。まず、何が売り買いされていたのかを見ます。
1636年11月〜1637年2月
冬のあいだ、球根は土の中にあります。売り買いされていたのは、球根そのものではなく、5〜6月に掘り出したときに引き渡すという約束(先渡しの契約)でした。代金は引き渡しまで動きません。2月の崩落で失われたのは、多くが帳簿の上の利益でした。
1636年11月、酒場の集まり(コレヘ)で、普通の品種の約束を売り買いする市場が生まれます。売り方は「板で」と「輪の中で」の2つ。買い手は、1グルデンにつき半スタイフェル、上限3グルデンの酒代を払いました。売り手が本当に球根を持っているかは、誰も確かめませんでした。
主な流れを簡略化した図です。球根そのものを売る取引や競売もありました。
この図で分かること取引の多くが、春に引き渡す約束の売り買いで、代金は引き渡しまで動かなかったことが分かります。
1630年代
高い値の記録はあります。最も高い球根は約5,000グルデンで、家一軒の値に当たります。1630年代の親方の職人の年収は、約300グルデンでした。1623年には、Semper Augustus という品種の1球が1,000グルデンで売れたと、ワッセナールの年代記は書いています。
けれども、300グルデンを超えるお金を球根に使ったと記録で確かめられる人は、37人です。買い手から買い手への連鎖は5人以下で、参加していたのは主に商人層と熟練の職人でした。
1637年から1841年まで
「一球で家が買えた」は、頂点の値については記録が支えます。約5,000グルデンの値や、Semper Augustus に4,600グルデンと馬車と馬2頭を払う契約があります。ただし、参加者の大半には当てはまりません。
「船乗りが高価な球根を玉ねぎと思って食べた」は、1570年ごろにアントウェルペンの商人について伝わった古い話で、マッケイが別の旅行記から1637年の話として広めました。
「牛・豚・小麦…合わせて2,500グルデンの品物が一球の代価になった」は、1636年のパンフレットが値の大きさを示すために挙げた例で、実際に結ばれた取引ではありません。
「煙突掃除から貴族まで誰もが加わった」は、約80の職業を並べた1637年の風刺の歌の流れにあり、記録で確かめられる大口の買い手は、商人層と熟練の職人です。
記録に残る損の例はあります。画家ヤン・ファン・ホイエンは1637年1月27日と2月4日に、球根を買い、その代価は約900グルデン分と絵2点でした。1641年になっても払い終えておらず、1656年に破産の状態で亡くなりました。ただし彼は、家屋の投機もしていました。
1637年2月〜1638年5月
2月24日、アムステルダムに集まった10都市の花商人の代表は、前年11月30日より後の契約は代金の10% で解約できる、と申し合わせました。拘束力はありません。4月27日、ホラント州議会は契約を止め、値が下がる危険は買い手が負うと決めます。
1637年2月3日
ハールレムの酒場で、値を下げながら3度落札
なぜ重要か翌日、取引が止まる
1637年2月5日
アルクマールの遺児のための競売で合計90,000グルデン
なぜ重要か球根そのものの競売
1637年2月24日
10都市の花商人の協定
なぜ重要か11月30日より後の契約は10% で解約できる(拘束力なし)
1637年3月17日
11,700グルデンの球根の売り買いが公正証書で結ばれる
なぜ重要か崩落の後も球根は無価値になっていない
1637年4月27日
ホラント州議会の決議
なぜ重要か契約を止め、値下がりの危険は買い手が負う
1638年5月28日
ハールレムの委員会の裁定に拘束力
なぜ重要か解約金は契約の値の3.5%
この図で分かること崩落の後、協定・州議会の決議・委員会の裁定と、1年あまりをかけて約束が片づけられたことが分かります。
最後は、1638年5月28日、ハールレムの委員会の裁定に拘束力が与えられ、解約金は契約の値の3.5% と定められました。
全体の金融が崩れることは起きず、破産の記録に、チューリップが原因の破産者は見当たりません。崩落の後の1637年3月17日にも、11,700グルデンの球根の売り買いが公正証書で結ばれています。
1637年2月3日に戻る
冒頭の問いに戻ります。値が数年で大きく上がり、1637年2月3日に値を下げながらの落札が続き、翌4日に約束の市場が止まったこと、高い値の球根が実在したことは、記録で確かめられます。一方で、誰もが加わった、多くの人が破産した、オランダの経済が壊れた、という話は、記録からは支えられません。
同時代の人はこれを「風の商い」と呼び、崩落を「フローラの死」と歌いました。「バブル」という言葉で語るのは後の時代で、逸話は1637年の風刺から、1780年のベックマン、1841年のマッケイへと受け継がれる中で大きくなりました。
これをバブルと呼ぶかどうかも、研究者で分かれます。ガーバーは値の動きを市場の実勢で説明し、トンプソンは契約の決まりが生んだものと見て、ゴールドガーは人々が非合理だったわけではないが値上がりと崩落はあった、とします。食い違っているのは、値の動きを人の熱狂で説明するか、契約と市場の仕組みで説明するかです。
この図で分かること年代記の高値から、酒場の約束の市場、崩落、片づけ、そして後の時代の逸話まで、一続きでたどれます。
ここから先は、もとの教材の本文・年表・図・研究者の見方を、省かずに読めます。見出しを押すと開きます。
1630年代のホラント州で、球根の値が数年で何十倍にもなり、1637年2月3日に酒場の先渡し契約の市場が止まった。参加者・損失・法の対応を史料で数え直すと、400年語り継がれた逸話の多くは崩落直後の風刺に由来する。
もとの問いチューリップ・バブルは、どこまで本当か。
1630年代のホラント州で、チューリップの球根の値が数年のうちに何十倍にもなり、1637年2月の初めに買い手が消えました。取引の多くは、球根がまだ土の中にある冬のあいだに、酒場で結ばれた先渡しの契約でした。崩れたのは花の値段というより、その契約の山です。
花そのものの人気は、事件の40年前から続いていました。ライデンでは1590年にホーヘランデが庭で育て、1593年から植物学者クルシウスが同地で殖やします。1614年にはルーメル・フィッスヘルが「愚か者と金はすぐに別れる」という句を添えて、チューリップに散財する人々を風刺しました。年代記作者ワッセナールは1623年、センペル・アウグストゥス1球が1,000グルデンで売れ、10球に12,000グルデンの申し出が断られた、と記します。翌年は1球1,200グルデン、1625年には2,000と3,000の申し出を持ち主が断りました。この頃の買い手は、値段からして富裕な愛好家に限られます。
1633年、ホールンの年代記は取引が「狂乱」になったと書きました。1634年12月ごろから球根は重さで値付けされ、1アース(20分の1グラム)あたりの単価が品種ごとに決まります。公証人の記録では、ハウダという品種の1アースが1634年12月に30スタイフェル、1635年から1636年の冬に2グルデン2スタイフェル、1636年5月に3グルデン15スタイフェルでした。
1636年の秋から冬にかけて、各地の酒場に「コレヘ」と呼ばれる寄り合いができ、球根を持たない人々も紙の契約を売り買いするようになります。それまで見向きもされなかった普通の品種が、ポンド単位や1,000アース単位でまとめ売りされました。スウィツァーという普通品種1ポンドの値は、公証人の記録で1637年1月15日に120グルデン(言い値、断られた)、1月23日に385、2月1日に1,400、2月2日に1,500と動きます。
2月3日、火曜日。ハールレムの酒場で、1ポンドのクローネンかスウィツァーを引取金つきで売りに出した男が、1,250グルデン、1,100、1,000と値を下げながら3度落札されました。同じ日の出来事を目撃者が対話体のパンフレットに書き残しています。翌日、取引は止まり、「誰もが互いの顔を見た」と記されました。ところがその2日後の2月5日、アルクマールでは亡くなった射撃会館の館主の遺児のために競売が開かれ、約70球と1,000アース単位の27口が合計90,000グルデンで落札されます。この落札表は印刷され、投機を擁護する側と攻撃する側の両方が引用しました。2月9日、スウィツァー1ポンドは1,100グルデンに戻っています。
その後の処理は、花商人・都市・州のあいだを行き来しました。2月7日にユトレヒトの花商人36人が代表を選び、2月24日にアムステルダムで10都市の代表が公証人の前で取り決めます。1636年11月30日までの売買は履行し、それ以後の契約は買い手が代金の1割を払えば3月中に解約できる、という内容でした。アムステルダムの代表は署名せず、拘束力もありません。3月7日、ハールレム市は風刺の歌と文書の販売を禁じ、同じ日に前年10月の植え付け以降の取引をすべて無効にするよう勧告しました。諸都市の請願を受けた州議会はホラント州裁判所に諮り、裁判所は4月25日、情報が足りないとして市当局に当事者の和解を委ね、その間は売り手が催告のうえ買い手の危険負担で球根を保持または売却してよい、契約はすべて停止する、と答申します。州議会は4月27日にそのまま決議しました。
争いの多くは当事者同士で、代金の5分ないし1割で片づきました。それでも残った紛争のために、ハールレム市は1638年1月に5人の委員会を置き、5月28日にその裁定へ拘束力を与え、固定の解約金を契約価格の3.5% と定めます。売り手は球根を手元に残しました。これが、風の商いに関する最後の公文書です。
売られたのは球根です。ただし冬のあいだ球根は土の中にあり、掘り上げて渡せるのは5月か6月でした。代金の授受もその時です。したがって1636年の夏以降に紙の上で買い、紙の上で売った人は、2月に値が崩れても現金を失っていません。困ったのは、支払いを待つ側と、引き取りを約束したまま転売先を失った側でした。
高価な品種は1球ずつ、重さを申告して売られます。重さが値を決めるので、持っていない球根を売ることは難しい。しかし普通の品種はポンド単位、1,000アース単位で売られ、この形なら現物の裏付けなしに契約だけを回せます。同時代の花商人自身が、この「アースとポンド売り」をやめよと嘆いた文書が残っています。
酒場の集会には2つの売り方がありました。買いたい品種を板に書いて仲裁人2人が値を決める「板で」の方式と、売り手が数スタイフェルの景品を輪の中に置いて競りにかける「輪の中で」の方式です。どちらでも、買い手は1グルデンにつき半スタイフェル、上限3グルデンの「酒代」を払います。この酒代が集会の飲食に消えました。書記も仲裁人も、売り手が本当に球根を持っているかは確かめません。織工から花商人になった対話体パンフレットの登場人物は、4か月で60,000グルデンを儲けたと言い、受け取ったかと問われて「人々の手書きの証文だけ」と答えます。
銀行の貸出はこの市場に入っていません。代金の一部を牛や織物、銀の杯、馬車と馬で払う契約は公証人の記録にありますが、それは買い手が持っている物を売り手が欲しがった場合に限られます。アムステルダムの取引所も、東インド会社の株も、為替も、この事件では動いていません。
参加者を文書で数えたゴールドガーの調査では、300グルデン以上を球根に使った人物は37人です。300グルデンは親方職人の年収にあたります。最高値の球根は約5,000グルデンで、設備の整った家一軒分でした。買い手の連鎖は5人より長いものが見つからず、売り手は知り合いに売っています。クレラーヘは職業的な栽培者がごく少数だったこと、織工が目立ったことを記します。
値段の系列は乏しく、経済学者ガーバーは1637年2月5日を頂点として、その後の下落率を18世紀の高級球根の値下がりと比べました。1637年から1642年の年平均下落率は32%、18世紀の球根は28.5%。ガーバーはこの差から、崩落そのものの寄与は最大でも16% の下落だと論じます。これは一つの解釈で、球根の値が新品種の宿命として下がるという前提に立っています。
チューリップ狂について語られる逸話の多くは、崩落直後の風刺から18世紀末のベックマン『発明の歴史』を経て、1841年のマッケイ『異常な大衆の妄想』に集められました。マッケイの章は20世紀の金融の教科書やウェブサイトに写され続けています。以下、その主なものを史料と突き合わせます。
「1球で家が買えた」。ゴールドガーが特定した最高値は約5,000グルデンで、設備の整った家一軒分に当たります。センペル・アウグストゥス1球が4,600グルデンと新しい馬車、馬2頭で売られた契約は公証人の記録にあり、マッケイもこれを伝えています。ただしそれは頂点の話で、300グルデン以上を使った人は37人です。
「船乗りが球根を鰊のつまみに食べた」。マッケイはブランヴィルの旅行記から引いていますが、球根を玉葱と間違えた話は1570年ごろのアントウェルペンの商人についてクルシウスが伝えた古い逸話で、1637年の出来事ではありません。
「小麦2ラスト、ライ麦4ラスト、牛4頭、豚8頭、羊12頭、ワイン2樽、ビール4樽、バター2樽、チーズ1,000ポンド、寝台、衣服、銀杯、合計2,500グルデン」。マッケイはムンティングを引いて、これがヴァイスロイ1球の代価として支払われたと書きます。しかしこの一覧は1636年のパンフレット『愚かさの明白な暴露』が「1輪の花の値段でこれだけ買える」と示した例で、成立した取引ではありません。後の語り手がヴァイスロイの取引に結びつけました。
「煙突掃除から貴族まで誰もが参加した」。1637年の風刺の歌には80ほどの職業が列挙されています。作者自身がそれを証明できたわけではない、とクレラーヘは注記します。マッケイの「船員、従僕、女中、煙突掃除、古着売り」はこの歌の系譜にあります。文書で確認できる大口の買い手は商人層と熟練職人で、多くは家族や宗派や近隣で結ばれていました。
「破産者が運河に身を投げた」。ゴールドガーは破産記録にチューリップ起因と特定できる破産者を見つけていません。損失の実例として文書に残るのは画家ヤン・ファン・ホイエンで、1637年1月27日と2月4日に約900グルデン分の球根と絵画2点の引き渡しを約束し、1641年になっても払い終えていませんでした。彼は家屋の投機も行っており、1656年に破産状態で没しています。
「オランダ経済は壊滅し、回復に長年を要した」。マッケイはそう結びます。しかし1637年3月17日には11,700グルデンの球根売買が3回払いで公正証書に結ばれており、球根は無価値になっていません。クレラーヘは回復の速さを記し、ガーバーは同時代の史書がこの時期を黄金時代として扱うと述べ、ゴールドガーはオランダ経済が影響を受けなかったと結論します。
「同じ球根が1日に10回転売された」。クレラーヘもこの言い回しを受け継いでいますが、出典を示していません。ゴールドガーは5人を超える連鎖を見つけていません。
そもそも同時代人は、この出来事を「風の商い」と呼び、崩落を「フローラの死」と歌いました。バブルという語で語るのは後世です。
「一個の球根で家が一軒買えた」
一部は事実出どころ: 1637年パンフレット → Mackay
「球根を食べてしまった船乗りがいた」
裏付けなし出どころ: 1570年ごろの古典的な逸話(Clusius)→ Mackay
Ernst Heinrich Krelage 1942 Anne Goldgar— The Conversation 2018
「同じ球根が一日に10回転売された」
争いあり出どころ: Krelage も記す通説
Ernst Heinrich Krelage 1942 Anne Goldgar— The Conversation 2018
「一球のために小麦・牛・豚・羊・ワイン・ベッド・銀杯(合計2,500グルデン)が支払われた」
裏付けなし出どころ: 1636年パンフレット『Clare ontdeckingh』の例示 → 後世が取引として転記 → Mackay
この事件から今に残るのは、値段の記録より、物語の作られ方です。風刺として書かれた誇張が歴史として写され、教科書に載り、そのまま400年語り継がれました。史料に戻ると、参加者の数、損失の範囲、法の対応のどれもが伝承より小さく、また具体的です。
仕組みの面では、3つの点が現代の市場を読むときの手がかりになります。現物の裏付けを要しない契約の形(ポンド売り)、売り手の持ち分を誰も確かめない取引の場、そして支払いが引き渡しまで延びることで損失が帳簿上に留まった決済の遅れです。値段の高さそのものより、これらの構造がどこにあるかを見る方が、比べる相手を選ぶときに役立ちます。
チューリップ狂は「バブルの代名詞」として、あらゆる相場の高騰に引き合いに出されます。しかしこの事件と比べられるのは、物語がどう作られたかと、参加者の層を記録で数える方法に限られます。銀行も国家財政も決済網も関わっておらず、信用やレバレッジ(借入を使って、自分のお金より大きな資産を持つこと)の記録もほとんどありません。体系的な金融危機や、国家の負債と結びついた紙幣の実験と並べると、外形の似た点だけが先に立ちます。
1840年代の英国の鉄道株については、投資家名簿から「素朴な投資家」像を退けた研究があり、方法の上で本件と対になります。ジョン・ローの体系は同じ17世紀と18世紀の低地諸国とフランスで、契約や株が実体から離れて値を持った点で近く、国家の中枢で起きた点で遠い。いずれも似ている点と違う点を並べたうえで、同一視を避けて読む必要があります。
図と本文の数が、どの資料のどこから来ているか。数値台帳・図の出どころ・資料の層・参考文献を、別のページにまとめました。