1890〜1906年
信託会社は決済の仲間に入らず、手元の現金も少なかった
5% と25%
預金に対する現金の準備(信託会社 と 国法銀行)
1907年10月22日、ニューヨークの信託会社 Knickerbocker Trust は、取り付けに遭い、3時間で800万ドルを払い出して営業を止めました。

3分でわかる1907年恐慌
横に送って見られます
1890〜1906年
信託会社は決済の仲間に入らず、手元の現金も少なかった
5% と25%
預金に対する現金の準備(信託会社 と 国法銀行)
1907年10月16日
銅の会社の株の買い占めが失敗し、関係する銀行に取り付けが起きた
これが引き金。原因は別のところにあった
1907年10月22日
第3位の信託会社に人が押し寄せ、支払いが止まった
3時間で800万ドル
Knickerbocker Trust が払い出した額
10月22〜24日
お金を借りる金利が、一気に跳ね上がった
9.5% → 70% → 100%
株の売り買いに使う翌日物の貸し借りの金利(年率)
10月23〜25日
銀行家や信託会社の委員会が、資金を集めて回した
2,500万ドル
10月24日に Morgan が銀行から集めた資金
10月19〜31日
財務省も、ニューヨークの銀行へお金を預けた
3,600万ドル
法律の決まりは無く、財務長官の判断だった
10月26日
清算所は現金の代わりの証書を出し、引き出しを制限した
1億106万ドル
出された貸付証書の合計
11月〜1908年1月1日
外国から金が運ばれ、年が明けて現金の支払いが戻った
5,800万ドル
11月に輸入された金
1913年12月23日
恐慌から6年後、連邦準備法ができた
それまでアメリカには中央銀行が無かった
800万ドル
預金6,200万ドルの会社が、3時間で払い出した額
100%
10月24日、翌日物の貸し借りの金利(年率)
36% 超
信託会社の預金の減り方(8月22日 → 12月19日)
1907年10月23日。あなたは、ニューヨークの別の信託会社にお金を預けています。前の日、第3位の信託会社が3時間で支払いを止めました。どうしますか?
選んでみてください
多くの人がそうしました。第2位の信託会社からは、この日に1,200万ドル、2週間で3,400万ドルが引き出されます。信託会社には頼れる共同の金庫が無く、手元の現金は預金の5% 前後でした。
10月26日、清算所は預金を現金で引き出すことを制限します。10月31日から12月31日まで、現金を手に入れるには上乗せが要り、高いときで4% でした。現金の支払いが戻ったのは1908年1月1日です。
中央銀行の無いなか、最後に貸したのは1人ではありませんでした。銀行家が集めた資金、政府の預金、清算所の証書、輸入された金。それぞれが別々に動き、間に合わない日もありました。
1907年10月22日(火) ニューヨーク
Knickerbocker Trust は、預金6,200万ドルを預かる、市内で第3位の信託会社でした。10月22日、預金を引き出そうとする人が押し寄せ、会社は3時間で800万ドルを払い出したところで、支払いを止めました。
その日、ニューヨークで株の売り買いに使われる翌日物の貸し借り(コール)の金利は、年率9.5% から70% へ跳ね上がります。2日後の24日には100% に達し、その金利でも貸し手が見つからない時がありました。
取り付けは次の信託会社へ向かいます。翌23日、第2位の Trust Company of America(預金6,400万ドル)から1,200万ドル、24日に900万ドル。2週間で3,400万ドルが引き出されました。
当時のアメリカには、銀行に現金が足りなくなったときに貸す中央銀行がありませんでした。連邦準備法ができるのは、6年後の1913年12月23日です。では、この時、誰が最後に貸したのか。まず、なぜ信託会社から崩れたのかを見ます。
1890〜1906年
信託会社は州の免許で営む金融の仲介者で、小切手の決済の中心であるニューヨーク清算所に加わっていませんでした。1890年には市の国法銀行の半分だった信託会社の貸出は、1906年には同じ規模になっています。
違いは手元の現金です。信託会社の現金準備は預金の5% 前後で、国法銀行の25% より大きく少なかった。1903年、清算所が会員の銀行を通じて決済する信託会社に準備の積み増しを求めると、ほとんどの信託会社は決済に加わる権利を返し、残ったのは Knickerbocker だけでした。1906年に州法は信託会社に15% の準備を義務づけますが、そのうち現金は3分の1です。
主な流れを簡略化した図です。信託会社の業務はほかにもありました。
この図で分かること信託会社が清算所に加わらず、手元の現金が少ないまま株の市場の資金を回していたことと、そこで払い戻しが集中すると頼る先が無かったことが分かります。
信託会社は株の仲買人に、担保を取らずに日中だけお金を貸していました。仲買人は、その日に買った株を担保に、国法銀行から翌日物のコールで借りて返します。信託会社が貸せなくなると、株の市場の資金の流れが止まる仕組みでした。
1907年10月16日〜21日
始まりは10月16日でした。United Copper の株を買い占める試みが失敗し、その仕掛けに関わった人々の銀行に取り付けが起きます。清算所は会員の銀行を調べ、20日に支払能力を公表し、経営陣が退くことを条件に支えました。21日には整理が済んでいます。経済学者スプレーグは、この賭けを「通常なら公的な重要性を持たない」と書きました。
銅の買い占めは引き金であって、原因とは言えません。取り付けが信託会社へ広がったのは、Knickerbocker の社長がその仕掛けの仲間だと18日に報じられてからです。21日、Knickerbocker の決済を代わりに引き受けていた National Bank of Commerce が、翌日から代行をやめると発表しました。清算所は会員でない会社には貸さず、Morgan も、短い時間の帳簿の調査では支払能力を判断できないとして支援を断ります。翌22日が、冒頭の3時間です。
1907年10月16日
United Copper 株の買い占めが失敗
なぜ重要か関係した銀行に取り付けが起きる(引き金)
1907年10月20日
清算所が関係した会員の銀行の支払能力を公表
なぜ重要か経営陣が退くことを条件に支える
1907年10月21日
Knickerbocker の決済の代行が打ち切られ、清算所と Morgan が支援を断る
なぜ重要か会員でない信託会社には頼る先が無い
1907年10月22日
Knickerbocker が3時間で800万ドルを払い出して営業停止
なぜ重要かコール金利が9.5% から70% へ
1907年10月23日
Trust Company of America に取り付け
なぜ重要か信託会社の社長5人の委員会ができる
1907年10月24日
Morgan の2,500万ドルの資金と、財務省の2,500万ドルの預託
なぜ重要かコール金利は100% に
1907年10月26日
清算所が貸付証書を出し、現金の引き出しを制限
なぜ重要か各銀行の数字の公表も止める
この図で分かること銅の株の騒ぎから、信託会社への取り付け、清算所の証書と現金の制限まで、10日のうちの順番が分かります。
1907年10月23日〜11月
10月24日、Morgan は考えを変え、2,500万ドルの資金を銀行から集めて、取引所の貸付の窓口へ届けました。翌25日にも1,000万ドル。23日には信託会社の社長5人の委員会ができ、信託会社が出した債券を国法銀行が政府預金の担保に使い、日々の資金を回しました。
政府も貸していました。財務省は10月24日にニューヨークの銀行へ2,500万ドルを預け、19日から31日までに合わせて3,600万ドルを預けています。11月2日までの2週間に銀行が払い出した現金の、約半分は政府から来ていました。恐慌のときの手順を定めた法律はなく、財務長官の判断による介入でした。
1907年10月23日
信託会社の社長5人の委員会
なぜ重要か信託会社の債券を国法銀行が政府預金の担保に使い、資金を回す
1907年10月24日
Morgan が銀行から集めた2,500万ドル(25日に1,000万ドル)
なぜ重要か取引所の貸付の窓口へ
1907年10月24日
財務省の預託2,500万ドル(10月19〜31日に3,600万ドル)
なぜ重要か法の規定ではなく財務長官の判断
1907年10月26日
清算所の貸付証書(合わせて1億106万ドル)
なぜ重要か銀行どうしの支払いを現金なしで済ませる
1907年11月19日
財務省がパナマ債5,000万ドルと3% 証書1億ドルを募集
なぜ重要か銀行券を増やす裏付けになる
1907年11月〜12月
金の輸入11月5,800万ドル・12月3,800万ドル
なぜ重要か輸出の代金が呼んだ金
O. M. W. Sprague 1910 p. 283
この図で分かること危機を支えたお金が、一人の人物ではなく、銀行家の資金・信託会社の委員会・財務省・清算所・輸入された金という別々の出どころから来たことが分かります。
「Morgan が一人で恐慌を止めた」という言い方があります。スプレーグは、Morgan の影響力が無ければ銀行がそろって動くことは無かったと書きますが、お金の出どころは一つではありません。信託会社の委員会の債券、政府の預金、清算所の証書、輸出の代金が呼んだ金です。
1907年10月26日〜1908年1月
10月26日(土)の正午、清算所は貸付の委員会を置き、会員の銀行どうしの支払いに使う貸付証書を出し始めました。同じ日、預金を現金で引き出すことを制限し、各銀行の数字の公表も止めます。証書は合わせて1億106万ドル出されました。
清算所の会長は、証書を出せば全国で現金の支払いが止まると知っていたので一日ずつ先送りした、と弁明しています。スプレーグは、火曜までに出さなかったことを「最も重大な誤り」と書きました。現金の引き出しの制限についても、スプレーグは準備が尽きていなかったと数え、会長は内陸への送金で10日足らずに5,300万ドルの不足が出たと答えます。食い違っているのは、いつ出すべきだったかと、制限が必要だったかです。
各地の清算所も28日に続きました。記録に残る現金の代わりの証書や小切手は3億3,400万ドル。ピッツバーグでは、給与を払うための小切手が4,700万ドル出ています。
現金そのものに値段が付きました。10月31日から12月31日まで、ニューヨークでは現金を手に入れるのに上乗せが要り、高いときで4% でした。11月には5,800万ドル、12月には3,800万ドルの金が輸入されます。
Gorton–Tallman の表5。Andrew の日次表では11月6日・12日・13日に4%、12月31日に「上乗せなし」。
この図で分かること現金そのものに値段が付き、11月の高いときで4% の上乗せが要ったこと、1908年1月に0に戻ったことが分かります。
1908年1月1日、現金の支払いが戻りました。清算所の最後の証書が償却されたのは3月28日です。
1908年〜1913年
ニューヨーク市の信託会社の預金は、8月22日から12月19日までに36% 超減り、国法銀行の預金は増えました。1908年の鉱工業生産は17% 減、実質 GNP は12% 減です。
Knickerbocker は消えたわけではありません。1908年3月に240万ドルの増資で営業を再開しています。
1908年5月30日の Aldrich–Vreeland 法は、緊急のときに銀行券を追加で出せる仕組みと、上院・下院9名ずつの国家通貨委員会を設けました。連邦準備法の成立は1913年12月23日で、恐慌から6年かかっています。恐慌は通貨の改革を促しましたが、一つの恐慌が一つの制度を生んだとは言い切れません。
1907年10月22日に戻る
冒頭の問いに戻ります。中央銀行がないとき、誰が最後に貸したのか。答えは一人ではありません。銀行家が集めた資金、信託会社の委員会の債券、財務長官の判断で預けられた政府の現金、清算所が出した証書、そして輸出の代金が呼んだ金です。それぞれが別々の判断で動き、間に合わない日もありました。
決済の輪の外にいた会社から崩れ、輪の中の銀行が後から支える、という形は、のちの世界金融危機でも語られます。ただし Knickerbocker は営業を止めた後に再開し、Lehman は破綻しました。二つを同じものとは言えません。
この図で分かること決済の輪の外にいた信託会社から崩れ、つぎはぎの貸し手が支え、6年後の制度に至るまでを一続きでたどれます。
ここから先は、もとの教材の本文・年表・図・研究者の見方を、省かずに読めます。見出しを押すと開きます。
1907年10月、ニューヨークの信託会社に取り付けが起きた。信託会社は州免許で、小切手決済の中心である清算所に加わらず、現金準備は預金の5% 前後(国法銀行は25%)だった。10月22日に第3位の Knickerbocker Trust が3時間で800万ドルを払い出して営業を止め、コール金利は年率9.5% から70%、2日後に100% へ跳ねた。清算所は10月26日に貸付証書(総額1億106万ドル)の発行を決めると同時に預金の現金化を制限し、財務省は10月19〜31日に3,600万ドルを銀行へ預託し、11月に5,800万ドルの金が輸入された。現金に上乗せが付いた2か月のあと、1908年1月1日に現金の支払いが戻った。1908年5月30日の Aldrich–Vreeland 法が国家通貨委員会を設け、1913年12月23日に連邦準備法が成立した。
もとの問い中央銀行がないとき、誰が最後に貸すのか。
1907年の秋、ニューヨークの信託会社の窓口に列ができました。信託会社は州の免許で営み、銀行と預金を奪い合いながら、小切手決済の中心である手形交換所(ニューヨーク清算所)には加わっていません。決済の量が少ないことを理由に、預金に対する現金の準備は5% 前後で、国法銀行の25% とは開きがありました。1890年に市の国法銀行の半分だった信託会社の貸出は、1906年には同じ規模に育っています。信託会社は株式仲買人に担保なしの日中貸付を行い、仲買人はその日に買った株を担保に国法銀行から翌日物のコールローンを借りて返す。信託会社は株式市場の最初の流動性の出し手でした。
10月16日、鉱山会社 United Copper の株の買い占めが失敗し、仕掛けた Heinze と Morse に関係する銀行から預金が逃げ始めます。清算所は会員行を検査し、10月20日に支払能力を公表して、経営陣の退陣を条件に支援しました。関係した会員5行の預金は10月12日で5,600万ドル、会員行は1,000万ドルの基金を用意し、10月21日には整理が済んでいます。Sprague はこの銅の賭けを「通常なら公的な重要性を持たない」出来事と書き、この時点まで危機と呼べるものは無かった、と記しました。
危機は非会員から始まりました。預金6,200万ドルで市内第3位の Knickerbocker Trust の社長が Morse の仲間だと10月18日に報じられ、10月21日、清算代行を務めていた National Bank of Commerce が翌日からの打切りを発表します。同じ日、清算所は非会員への融資を断り、J. P. Morgan も、Benjamin Strong の短時間の帳簿調査では支払能力を判定できないとして支援を断りました。取締役会は社長を解任します。22日火曜、3時間の取り付けで800万ドルを払い出したあと、Knickerbocker は営業を止めました。
翌23日、預金6,400万ドルで第2位の Trust Company of America に取り付けが向かい、この日1,200万ドル、翌日900万ドル、2週間で3,400万ドルが引き出されます。木曜からは Lincoln Trust にも列ができました。コール金利は22日に年率9.5% から70% へ、24日に100% へ跳ね、その金利でも貸し手がいない時間がありました。Morgan は考えを変え、24日に2,500万ドルの資金を集めて取引所の貸付窓口へ届け、25日にも1,000万ドルを集めます。23日には信託会社の社長5人の委員会ができ、信託会社が持ち寄った債券を国法銀行に渡し、それを担保に国法銀行が政府の預金を受けて、日ごとに資金を回しました。11月6日、両社の株の過半が委員会の管理下に入り、営業を続ける財務上の手当てができたと発表されて、列は解けました。
清算所が動いたのは10月26日土曜です。この日の正午に貸付委員会が任命され、非常時に備えて保管してあった白紙の貸付証書で発行が始まりました。同じ日、清算所の銀行は預金の現金化を制限し、個別の銀行の統計の公表も止めます。清算所の会長は後に、証書を出せば全国の現金支払いが止まると分かっていたので日ごとに先送りし、準備が5,300万ドルの不足を示してから踏み切った、と弁明しました。Sprague は火曜までに証書を出さなかったことを、この危機で最も重大な誤りと評しています。
28日月曜、各地の清算所が追随します。人口2万5千以上の145都市のうち71で貸付証書や小切手の代用物が使われ、およそ3分の2の都市で現金の支払いが制限されました。ネバダ州知事は24日から、オレゴン州知事は28日から法定休日を宣言し、カリフォルニアでは10月31日から12月21日まで7週間を超えて債務の支払いが止まります。清算所証書を出したのは106の清算所のうち50都市、総額2億4,828万ドル、ニューヨークだけで1億106万ドルでした。
10月31日、ニューヨークで現金に上乗せが付きます。現金1ドルを手に入れるのに認証小切手で1ドル以上を払うという状態が2か月続き、上乗せは最高4% に達しました。同じ11月、為替相場は金の輸出点を超えていたのに6,300万ドルを超える金が輸入されます。商品の輸出が2か月で4億1,160万ドルに膨らみ、その手形が金を呼びました。イングランド銀行は公定歩合を7% へ上げます。上乗せは12月28日に消え、1908年1月1日に現金の支払いが戻り、1月30日に最後の証書が出て、3月28日にすべて償却されました。
信託会社の預金は8月22日から12月19日までに36% を超えて減り、国法銀行の預金は増えています。Knickerbocker は1908年3月に240万ドルの増資で再開しました。1908年の鉱工業生産は17%、実質 GNP は12% 減り、回復は1年余りでした。1908年5月30日、議会は Aldrich–Vreeland 法で証券を担保にした緊急の銀行券と国家通貨委員会を設け、1913年12月23日に連邦準備法が成立します。
動いたのは現金でした。信託会社の預金は要求払いで、預金者はいつでも現金を求められます。準備が5% 前後ということは、預金の5% が引き出されれば手元の現金が尽きるという意味です。銀行なら清算所から貸付証書を受け、証書で清算尻を払って現金を温存できます。信託会社にはその仕組みも、互いに助け合う組織もありませんでした。Knickerbocker は1903年に清算所が信託会社へ準備の積み増しを求めたとき、清算特権を返上しなかった一社でしたが、それでも非会員でした。
現金を出したのは、まず財務省です。10月24日木曜に2,500万ドルがニューヨークの銀行へ預託され、10月19日から31日までに3,600万ドル、うち3,070万ドルが大手6行に入りました。11月2日までの2週間に銀行が払い出した現金の半分は政府から来た、と Sprague は数えています。8月から12月までの政府預金の純増は7,200万ドル、12月3日の国法銀行の公金預託の残高は2億2,311万ドルでした。国法銀行法には恐慌時の指針が無く、財務省は明文の規定なしに長官の判断で動いています。11月19日には2% のパナマ債5,000万ドルと3% の証書1億ドルを募集して銀行券の担保に充てようとしましたが、受理は債券2,463万ドル、証書1,544万ドルに留まりました。
次に清算所の証書です。会員行が商業手形や証券を委員会に預け、証書を受け取って清算尻の支払いに使う。証書は会員全体の連帯債務で、金利は6%、担保は4億5,300万ドル(商業手形3億3,000万ドル・証券1億2,300万ドル)に及びました。発行は1億106万ドル、残高の頂点は8,842万ドルで、52行のうち32行が使っています。10月の最後の5日で清算尻の84%、11月は96% が証書で決済されました。証書は市中に出ず、銀行の間で現金の移動を省くだけです。その分、銀行は貸出を増やせました。清算所の銀行の貸出は3週間で1億1,000万ドルを超えて増え、信託会社と地方銀行が引き揚げたコールローンを肩代わりします。
第三に金です。11月に5,800万ドル、12月に3,800万ドルの金がニューヨークに着き、8月末から12月初めの金の増加9,000万ドルのうち7,000万ドルが輸入でした。金は借りたのではなく、輸出の増加で得た手形と引き換えに来ています。第四に現金の代用物です。清算所小切手、出納係小切手、給与小切手が各地で刷られ、記録のあるものだけで3億3,400万ドル、Andrew は未報告分を含めて5億ドルを超えると見積もりました。ピッツバーグでは1ドル札と2ドル札の形の給与小切手が4,700万ドル出ています。その大半は国法銀行法が禁じる私製の紙幣で、州法銀行券への10% の税も掛からず、誰も訴追しませんでした。
現金はどこへ行ったか。8月22日から12月3日までに、ニューヨーク市の国法銀行の現金は4,300万ドル減り、他の国法銀行は200万ドル増えています。政府預金・金輸入・銀行券の増発を合わせて、少なくとも2億3,300万ドルの通貨が銀行から姿を消しました。貸金庫は10月22日から25日の4日で市内33社に789箱貸し出され、通常の6倍でした。借りたのは小口の預金者ではなく給与を現金で払う事業者だった、と貸金庫会社は答えています。南部と西部の銀行は法定の2倍を超える現金を抱え込み、中央準備都市の銀行が5,800万ドルを失う裏で、地方銀行は4,700万ドルを積み増しました。最後に払ったのは、信託会社と結びついた企業です。被害の大きい信託会社と取締役を共有する小さな企業は、株価が10.4ポイント下がり、投資率は半分近くに落ちて、その減少は1908年の法人投資の減少7億ドルの18.4% を占めました。
「モルガンが一人で恐慌を止めた」。Morgan の影響力が無ければ統一行動は何も取られなかった、と Sprague は書きます。ただし止めた資金の出所は一人ではありません。信託会社の委員会が持ち寄った債券、それを担保に入った政府の預金、清算所の貸付証書、そして輸出手形が呼んだ金です。Frydman らは救済を「Morgan が主導し、財務省が一部を賄った」と記し、Federal Reserve History は取引所への現金の運び込みを「伝説的な行動」と呼びつつ、清算所と財務省の役割を並べて書いています。
「モルガンが銀行家を書斎に閉じ込めて救済を決めさせた」。NOMISMA の教材にもあるこの光景は、ここに挙げた史料には出てきません。Sprague も Andrew も通貨監督官も、書斎には触れていません。Frydman らが読み物として挙げる Strouse(1999年)、Carosso(1987年)、Bruner と Carr(2007年)が語り手と見られますが、それらの本はここに挙げた資料に含まれていません。この光景の出どころは分かっていません。
「Heinze の銅の買い占めが原因だった」。買い占めの失敗は10月16日の引き金で、清算所は21日までに関係する会員行の整理を終えています。Sprague はこの賭けを「通常なら公的な重要性を持たない」と書き、Frydman らは取り付けの引き金が信託会社の企業顧客と無関係だった点を研究の出発点にしました。Gorton と Tallman は恐慌の開始日そのものに議論があり、Wicker は Knickerbocker の停止した22日を開始と見る、と注記します。原因を一つの賭けに求めると、準備5% の信託会社が清算所の外にいたという構造が見えなくなります。
「政府は消火の道具を何一つ持っていなかった」。NOMISMA の教材の一文です。恐慌時の指針を持つ法は無く、私製の紙幣はすべて違法でした。その意味では道具は無い。しかし財務省は10月24日に2,500万ドル、10月中に3,600万ドルを銀行へ預託し、8月から12月に7,200万ドルの公金を積み増し、11月19日には1億5,000万ドルの証券を募集しています。Federal Reserve History は、財務省が明文の規定ではなく長官の判断で介入した、と注記します。道具が無かったのではなく、法に書かれた道具が無かった、というのが史料の側から見える形です。
「Knickerbocker は破綻して消えた」。Knickerbocker は営業停止であって破綻ではなく、1908年3月に240万ドルの増資と、預金者と株主の再建案で再開しました。Federal Reserve History は、通俗的な記述にこの点の事実誤認があると注記しています。ニューヨークとブルックリンで恐慌の間に閉じた15の機関(国法銀行3・州法銀行8・信託会社4)の預金者は1ドルも失わなかった、と1908年10月の Wall Street Journal は報じました。
「1907年恐慌が連邦準備制度を生んだ」。Federal Reserve History は、この恐慌が通貨改革運動を促し、清算所の外で起きた危機が清算所の銀行家に中央銀行の価値を認めさせた、と書きます。ただし道のりは6年あり、1908年の法は緊急発行と調査委員会を設け、1913年の法が準備銀行を設けました。通貨監督官は1907年12月の報告で、発券と準備の中央銀行が無いことをこの恐慌が全国へ広がった直接の原因に挙げています。一つの恐慌が一つの制度を生んだ、と言い切ることはできません。
最上級の言葉には分母が要ります。Federal Reserve History の「20世紀最初の世界的な金融危機」は20世紀を分母に、Andrew の「国法銀行制度の成立以来、最も広範で長い信用機構の崩壊」は1863年以降を分母に、Sprague の「どの危機より大きい金の輸入」は合衆国の恐慌史を分母にした言葉です。清算所の会員53行のうち、危機のあいだに名簿から消えたのは4行、破綻と数えられるのは2行でした。
「モルガンが一人で恐慌を止めた」
誇張出どころ: 通俗史(誰が言い出したのかは分かっていない)。教材 ニューヨーク、モルガンの書斎「事実上の中央銀行」
O. M. W. Sprague 1910 Carola Frydman, Eric Hilt, Lily Y. Zhou 2012 Federal Reserve History 2015
「モルガンが銀行家を書斎に閉じ込めて救済を決めさせた」
裏付けなし出どころ: 教材 ニューヨーク、モルガンの書斎。ここに挙げた史料には無い。Strouse 1999・Carosso 1987・Bruner–Carr 2007が語り手と見られる(この3冊は参照していない)。出どころは分かっていない
O. M. W. Sprague 1910 Carola Frydman, Eric Hilt, Lily Y. Zhou 2012
「Heinze の銅の買い占めが恐慌の原因だった」
一部は事実出どころ: 広く言われる説(誰が言い出したのかは分かっていない)
O. M. W. Sprague 1910 Carola Frydman, Eric Hilt, Lily Y. Zhou 2012 Gary Gorton, Ellis W. Tallman 2016
「政府は消火の道具を何一つ持っていなかった」
誇張出どころ: 教材 ニューヨーク、信託会社の窓口
O. M. W. Sprague 1910 A. Piatt Andrew 1908 Federal Reserve History 2015 Office of the Comptroller of the Currency, U.S. Treasury Department 1908
「Knickerbocker は破綻して消えた」
裏付けなし出どころ: 通俗的な記述(Fed History 注5が事実誤認を指摘する Woods 2011など)
Federal Reserve History 2015 O. M. W. Sprague 1910 Gary Gorton, Ellis W. Tallman 2016
「1907年恐慌が連邦準備制度を生んだ」
一部は事実出どころ: 教材 ワシントン・通俗
Federal Reserve History 2015 United States Congress 1908 United States Congress 1913 Office of the Comptroller of the Currency, U.S. Treasury Department 1907
この事件から今に残るのは、最後の貸し手の外側という問いです。清算所は会員行を検査し、貸付証書で一つの主体になり、会員の危機を止めました。止まらなかったのは非会員の信託会社で、そこには預金が国法銀行と同じ規模で集まっていました。Moen と Tallman は1907年の信託会社を2007〜09年の影の銀行に重ね、両方の危機が決済の中心の外から始まったと書いています。これは解釈であって同一視ではなく、Knickerbocker が営業停止から再開したのに対し Lehman Brothers は破綻した、という違いも同じ文章に書かれています。
もう一つは、危機の終わり方です。Gorton と Tallman は、清算所が個別の銀行の情報を隠し、代わりに清算所全体の準備の過不足だけを公表し、認証小切手の市場に付いた上乗せが清算所そのものの危険の値段になった、と読みます。上乗せは金の輸入とともに下がり、1908年1月に準備の流入が正に転じて0になりました。現代のお金の科目では「銀行外の仲介者」「短く借りて長く持つ」「銀行が倒れるとき」「準備の義務」「システムが止まりかけたとき」の停で、この構造を扱います。
2007〜09年の世界金融危機とは、決済の中心の外にいた仲介者に取り付けが向かった点で並べられます。違うのは仕組みの場所です。1907年は金本位と私的な清算所、2007年は中央銀行と証券化・レポの市場でした。証書の額と Fed の貸付制度の額を比べることはしません。
1980年代の日本の資産バブルとは並べません。数年の資産価格の上昇と、数週間の取り付けでは時間の尺が違います。マドフの詐欺とは、欺瞞の型ではないので並べません。チューリップ狂とは、銀行も決済網も関わらない点で仕組みに共通項が無く、並べません。1873年と1893年の恐慌は同じ清算所が同じ証書で応じた事件で、Sprague と Gorton・Tallman はそれらと1907年を並べていますが、NOMISMA の事件簿には登録簿の名だけがあります。
図と本文の数が、どの資料のどこから来ているか。数値台帳・図の出どころ・資料の層・参考文献を、別のページにまとめました。