1926年12月末
震災の後に割り引かれた手形が、まだ決済されずに残っていた
2億680万円
市中の銀行が持つ震災手形のうち、決済されずに残った額
1927年3月14日の午後、衆議院の予算委員会で、片岡直温蔵相は「現ニ今日正午頃ニ於テ渡邊銀行ガ到頭破綻ヲ致シマシタ」と答弁しました。

3分でわかる 昭和金融恐慌(1927年)
横に送って見られます
1926年12月末
震災の後に割り引かれた手形が、まだ決済されずに残っていた
2億680万円
市中の銀行が持つ震災手形のうち、決済されずに残った額
1927年3月14日
国会で蔵相が「渡邊銀行ガ到頭破綻ヲ致シマシタ」と答えた
名指しされた銀行は、この日はまだ営業していた
3月15日〜23日
東京の銀行に取り付けが広がり、休業が続いた
11行
3月15日から23日までに休業した銀行
3月26日〜4月5日
台湾銀行が鈴木商店への貸増しを断り、鈴木商店は新しい取引を止めた
1927年4月17日
台湾銀行を救う緊急勅令案が、枢密院で否決された
19対11
若槻内閣は同じ日に総辞職した
1927年4月21日
十五銀行が休業し、全国で預金者が銀行の窓口に押しかけた
6億182万円
この1日で増えた日本銀行の貸出
4月21日のあと
お札が足りなくなりかけ、片面だけ印刷した二百円券を出した
通称「裏白札」。銀行の2日間の休業の間に作られた
1927年4月22日
支払いを21日間延ばす勅令が出て、全国の銀行が2日間休んだ
1日500円以下
給料と賃金のための払戻しと、この額までの預金の払戻しは止めなかった
1927年5月11日〜1928年5月8日
日本銀行は銀行に貸し、損失が出れば政府が5億円まで補うことにした
114行に7億6192万円
補償法による特別融通の総額
20億9600万円
4月25日、日本銀行の貸出はここで頂点に達した
31行
3月央から4月下旬までに休業した銀行(台湾銀行を除く)
538行
1932年末の普通銀行の数。銀行法の下で合同が進んだ
1927年3月15日。あなたは東京の別の銀行に預金があります。きのう国会で、蔵相がある銀行の破綻を口にしました。どうしますか?
選んでみてください
取り付けは東京の銀行に広がりました。3月23日までに11行が休業し、日本銀行は貸出を2.8倍に増やして銀行の現金を支えます。
3月23日に震災手形関係の2法が成立し、最初の動揺は収まります。けれど4月、台湾銀行と鈴木商店の問題が表に出て、21日に十五銀行が休業。取り付けは全国に広がりました。
「蔵相の失言が恐慌を起こした」とよく言われます。けれど取り付けが全国に広がったのは、4月の台湾銀行・鈴木商店の問題と枢密院の否決の後でした。日本銀行は1日で6億円を超えて貸しましたが、全国の休業を避けるには21日間の支払延期が要りました。
1927年3月14日(月) 衆議院 予算委員会
その日の予算委員会では、関東大震災の後に残った手形を処理する二つの法案が、再び問題にされていました。片岡蔵相は、潰れた銀行を救うには、その財産を整理して引き受ける別の銀行を見つけなければならない、と説明する中で、こう述べます。「現ニ今日正午頃ニ於テ渡邊銀行ガ到頭破綻ヲ致シマシタ」。預金は約3,700万円あるので、何とか救済しなければならない、とも続けました。会議録の18ページに残る言葉です。
その日の東京渡辺銀行で何が起きていたかは、記録によって少しずつ違います。翌日に大蔵省が発表した顛末書では、午後1時20分ごろ、同行の渡辺六郎専務が大蔵省に次官を訪ね、手形交換の差額およそ33万7000円が払えず、預金の支払いを止めざるをえないと報告しました。この知らせは議会にいた蔵相に伝えられます。けれども同行はその後も資金を集め、午後3時ごろには差額を払い終えていました。
日本銀行の当時の記録は、さらに踏み込んでいます。同行は午後2時ごろ差額を払い、いつものとおり午後4時ごろまで店を開けて営業していた。ところが大臣の言明が世間に広まったため、幹部が協議し、翌15日から姉妹行のあかぢ貯蓄銀行とともに休業することにした、というのです。
片岡は後年、銀行の代表者が役所に来て支払いを止めると申し出たから述べたのであって、失言ではないと弁明しています。休業が答弁の時点で決まっていたのか、答弁によって休業せざるをえなくなったのか。日本銀行の歴史は、この点を「なかなかデリケートである」と書いています。確かなのは、答弁の時、その銀行はまだ開いていたということです。
1923年9月〜1927年3月
話は4年前にさかのぼります。1923年9月の関東大震災の後、9月27日の緊急勅令で、被災地に関わる手形を日本銀行が改めて割り引くことになりました。日本銀行が損をしたら、政府が1億円を限りに補う約束です。この手形は震災手形と呼ばれました。
割り引かれた震災手形は、1924年3月末までに累計4億3082万円。ところが、市中の銀行が持つ震災手形のうち、1926年12月末になっても2億680万円が決済されずに残っていました。大口の債務者で最も大きかったのは、鈴木関係の7,189万円です。日本銀行の資料は、鈴木商店をはじめとする大口の債務者の多くが、震災だけでなく大正九年(1920年)の反動の打撃を深く受けていた、と書いています。
この残りを最終的に処理するための二つの法案が、1927年1月26日に議会に出されました。野党はこれを一部の資本家の救済策だと非難します。3月4日に衆議院を通過した後も、議論は続いていました。3月14日の答弁は、その議論のただ中で出たものです。日本銀行の歴史は、議論が続くうちに、震災手形を持つ銀行や債務者がしだいに世間に知られ、預金者の不安を高めたと書いています。
1927年3月15日〜23日
3月19日、中井銀行が預金の引き出しに耐えられず休業しました。21日には左右田・八十四・中沢の3行が、22日から2週間の臨時休業を発表し、22日の早朝には村井銀行も続きます。日本銀行の表では、3月22日に休業した銀行は、埼玉の久喜や京都の山城を含めて6行です。3月15日から23日までに休業した銀行は11行になりました。
銀行は、預金の引き出しに備えて日本銀行に資金を求めました。日本銀行は19日の土曜日、午後9時ごろまで貸出に応じ、19日と21日の2日間で、本店だけで約5700万円を貸しています。日本銀行の貸出は、3月14日の2億2797万円から、23日には6億3007万円になりました。2.8倍です。
日本銀行百年史の表4-2・4-3 から選んだ日の残高。3月14日の228から4月25日の2,096まで。
この図で分かること答弁の日から9日で貸出が2.8倍になり、4月18日からもう一度、さらに大きく跳ね上がったことが分かります。
出所: 日本銀行百年史 第3巻 表4-2・表4-3
3月23日、震災手形の二つの法案が成立すると、動揺は収まっていきました。けれども議会は法案に条件を付けていました。審議の中で問題になった台湾銀行について、調べる委員会を設けることです。
1927年3月26日〜4月17日
審議の中で、震災手形を最も多く持つのが台湾銀行で、その大部分が鈴木商店に関わるものだと世間に知られました。台湾銀行は市場から借りていた資金を引き揚げられ、資金繰りに詰まります。3月26日の土曜日の夕方、台湾銀行は鈴木商店に、28日からは貸増しに応じられないと通告しました。
このことが4月1日の新聞で報じられると、4月1日と2日の株価は暴落しました。鈴木商店は4月5日、一切の新しい取引を止めます。4月8日には、鈴木系とみられていた神戸の第六十五銀行が取り付けにあって休業し、日本銀行大阪支店は8日と9日に約3200万円を貸し出しました。
政府は台湾銀行を救う方法を決めます。緊急勅令で日本銀行に台湾銀行への非常の貸出をさせ、日本銀行が損をすれば政府が2億円を限度に補う。4月14日、この案は枢密院に回されました。
枢密院の審査の委員会は、帝国憲法の条文に合うとは認め難い、と結論します。4月17日の日曜日に開かれた本会議で、案は否決されました。賛成したのは国務大臣の11人だけで、19対11でした。若槻内閣は、その日の夕方に総辞職します。
1927年4月18日〜25日
翌4月18日、台湾銀行は台湾の島の中の店を除いて休業に入り、大阪の近江銀行も休業しました。20日、田中内閣が発足し、高橋是清が大蔵大臣になります。そして21日、宮内省のお金を預かる名門の十五銀行が休業しました。日本銀行の歴史は、全国各地で預金者が銀行の窓口に押しかけた、と書いています。
4月21日の1日だけで、日本銀行の貸出は6億182万円増えました。前の日より57% 多い額です。出回るお札も6億3902万円増えました。日本銀行の手元のお札が足りなくなりかけ、急いで、片面だけを印刷した二百円券を出すことにしました。
国立印刷局によれば、このお札は全国の銀行が2日間休んでいる間に作られました。表は簡単なオフセット印刷の模様だけ、裏は印刷を省いています。裏が白いので「裏白札」と呼ばれました。
4月22日、緊急勅令第96号が公布されます。4月22日以前に生じ、5月12日までに払うはずの私人の間のお金の支払いを、21日間延ばす。ただし、給料や賃金の支払い、そのための預金の払い戻し、それ以外の預金でも1日500円以下の払い戻しは止めない。高橋蔵相の求めで、全国の銀行は22日と23日の2日間、自ら休業しました。
25日の月曜日、銀行は店を開けました。各地の様子は予想以上に平穏で、日本銀行の貸出もこの日を頂点に減っていきます。
1927年3月14日
片岡蔵相の答弁
1927年3月15日
東京渡辺銀行が休業
1927年3月23日
震災手形の2法が成立
なぜ重要か最初の取り付けが収まる
1927年3月26日
台湾銀行が鈴木商店への貸増しを断る
1927年4月5日
鈴木商店が新しい取引を止める
1927年4月17日
枢密院が台湾銀行の救済案を否決。内閣が総辞職
なぜ重要か19対11
1927年4月18日
台湾銀行・近江銀行が休業
1927年4月21日
十五銀行が休業
なぜ重要か日本銀行の貸出は1日で6億182万円増
1927年4月22日
支払延期令(21日間)
なぜ重要か22・23日は全国の銀行が休業
日本銀行百年史 第3巻 p.180
1927年5月13日
支払延期の解除
この図で分かること取り付けの波が二度来たことと、二度目の前に何が起きていたかが、日付の順に分かります。
1927年5月〜1932年
5月8日、臨時の議会で二つの法律が可決され、9日に公布されました。日本銀行が特別の貸出で損をすれば政府が5億円を限りに補うこと、台湾の金融機関には2億円を限度に融資させること。支払いの延期は5月13日に解かれました。
この法律による特別の貸出は、1928年5月8日までに114行、総額7億6192万円にのぼります。最も大きかったのは十五銀行への1億7700万円で、返済が終わったのは1943年9月30日でした。貸出の担保には、株や不動産など、日本銀行の決まりの担保(成規担保)以外のものが相当含まれていました。
3月の半ばから4月の下旬までに休業した銀行は、台湾銀行を除いて31行です。そのうち3行は間もなく営業を再開し、残る28行の立て直しが問題になりました。
変わったのは、銀行の数です。最初の取り付けが収まった後の3月29日、銀行法が裁可されていました。1928年1月1日から施行され、銀行に最低の資本金を求めます。政府は単独での増資を原則として認めず、合併を進めました。普通銀行は1925年末の1,537から、1930年末には782、1932年末には538になります。
日本銀行百年史の表4-19(出所は『大蔵省銀行局年報』)。1928年1月1日に銀行法が施行された。
この図で分かること恐慌と銀行法の施行の後、銀行の数が1925年末から1932年末までに3分の1あまりに減ったことが分かります。
出所: 日本銀行百年史 第3巻 表4-19
1927年3月14日に戻る
冒頭の問いに戻ります。大臣の一言は、なぜ全国の銀行の一斉休業にまでつながったのか。答弁の前から、決済されない震災手形が2億680万円残り、それを誰が持ち、誰が払えないのかが、議会の論争を通じて世間に知られつつありました。答弁は、その中で一つの銀行の名を挙げたものでした。日本銀行の歴史も、恐慌は直接にはこの発言を契機として起きたとしながら、それより前から預金者の不安が高まっていたことを書いています。
そこから先は、支えが一つずつ外れていきます。台湾銀行は鈴木商店への貸出を止め、政府の救済の案は枢密院で否決され、内閣が倒れ、十五銀行が戸を閉めました。それを止めたのは、1日で6億182万円増えた日本銀行の貸出と、裏の白いお札、そして21日間の支払延期でした。
19年後の1946年、国はふたたび預金の払い戻しを止めます。日本銀行の歴史は、1927年の支払延期を1946年の預金封鎖と並べ、性質が根本的に違うと書いています。1927年は、払えなくなった人に準備の時間を与えるもので、期間は初めから決まり、給料のための払い戻しは止めませんでした。
この図で分かること答弁の日に至るまでと、その後に起きたことを、もう一度一続きでたどれます。
ここから先は、もとの教材の本文・年表・図・研究者の見方を、省かずに読めます。見出しを押すと開きます。
1927年3月14日、衆議院予算委員会で片岡直温蔵相が「渡邊銀行ガ到頭破綻ヲ致シマシタ」と答弁し、東京渡辺銀行は翌日から休業した。震災手形の処理をめぐる議論の中で取り付けが広がり、3月23日までに11行が休業、日本銀行の貸出は2億2797万円から6億3007万円に増えた。4月17日に台湾銀行を救う緊急勅令案が枢密院で否決され、21日に十五銀行が休業すると、22日に21日間の支払延期令が出て、22・23日に全国の銀行が休業した。日本銀行は補償法の特別融通で114行に7億6192万円を貸した。
もとの問い大臣の一言は、なぜ全国の銀行の一斉休業にまでつながったのか。
1923年9月27日の緊急勅令で、日本銀行は関東大震災の被災地に関わる手形(震災手形)を割り引き、損失が出れば政府が1億円を限りに補うことになりました。割引高は1924年3月末までに累計4億3082万円。1926年12月末になっても、市中の銀行が持つ震災手形のうち2億680万円が決済されずに残っていました。その最終処理のための2法案が1927年1月26日に議会に出され、3月4日に衆議院を通過します。
3月14日、衆議院の予算委員会で片岡直温蔵相は「現ニ今日正午頃ニ於テ渡邊銀行ガ到頭破綻ヲ致シマシタ」と答弁しました。東京渡辺銀行はこの日、手形交換の差額を払い終えて営業していましたが、大臣の言明が広まったため、翌15日から姉妹行のあかぢ貯蓄銀行とともに休業します。
3月19日に中井銀行が休業し、22日には村井・左右田・中沢・八十四などが休業しました。3月15日から23日までの休業は11行です。日本銀行の貸出は3月14日の2億2797万円から23日の6億3007万円に増えました。23日に震災手形関係の2法が成立し、最初の動揺は収まります。
審議の中で、震災手形を最も多く持つのが台湾銀行で、その大部分が鈴木商店関係だと知られました。台湾銀行は3月26日に鈴木商店への貸増しを断り、鈴木商店は4月5日に新規の取引を止めます。政府は緊急勅令で日本銀行に台湾銀行への非常の貸出をさせ、損失を2億円まで補う案を枢密院に諮りましたが、4月17日の本会議で19対11で否決され、若槻内閣は総辞職しました。
4月18日に台湾銀行(台湾島内を除く)と近江銀行が、21日に十五銀行が休業しました。21日の1日で日本銀行の貸出は6億182万円増えます。22日、勅令第96号で私法上の金銭債務の支払いが21日間延期され、22・23日に全国の銀行が休業しました。給料と賃金のための払戻しと、1日500円以下の預金の払戻しは延期の外に置かれています。5月9日に日本銀行の損失を5億円まで補う法律が公布され、支払延期は5月13日に解かれました。
動いたのは預金と、日本銀行の貸出でした。預金者が引き出しに来ると、銀行は手元の現金を厚くするために日本銀行から借ります。日本銀行の貸出残高は、表4-2・4-3 の百万円の単位で、3月14日の228から23日の630、4月18日の870、21日の1,665を経て、25日の2,096で頂点に達しました。4月21日には、貸出が前日より57%、兌換券の発行高が38% 増え、日本銀行は片面だけを印刷した二百円券を出す措置をとりました。国立印刷局は、このお札が銀行の2日間の休業の間に作られた「裏白札」だと説明しています。
損失の行き先は、補償法による特別融通でした。日本銀行は114行に総額7億6192万円を貸し、損失が出れば政府が5億円を限りに補う形です。最も大きい十五銀行への1億7700万円は、1943年9月30日に完済されました。銀行の側では、1928年1月1日に施行された銀行法の下で合同が進み、普通銀行は1925年末の1,537から1932年末の538に減りました。
「片岡蔵相の失言が恐慌を起こした」とよく言われます。答弁で名を挙げられた東京渡辺銀行が、その時まだ営業していたことは、大蔵省の顛末書と日本銀行の記録の両方から読めます。その意味で、答弁は休業の引き金の一つでした。けれども、取り付けが全国に広がったのは4月の台湾銀行・鈴木商店の問題と、枢密院の否決の後です。日本銀行百年史も、恐慌は直接には答弁を契機としたとしながら、震災手形を持つ銀行と債務者が世間に知られて預金者の不安が高まっていたことを書いています。失言だけで起きたとは、記録からは言えません。
この事件から今に残るのは、取り付けが起きたとき、中央銀行が貸すことで何を止められ、何を止められなかったかという問いです。日本銀行は1日で6億円を超えて貸し、お札が足りなくなりかけると片面だけのお札まで刷りました。それでも全国の休業を避けるには、21日間の支払延期が要りました。銀行が倒れたとき預金がどうなるか、金融システムが止まりかけたとき中央銀行が何をするかは、現代のお金の科目で扱います。ここでは現在の銀行の安全について何も予測しません。
19年後の1946年にも、国は預金の払戻しを止めました。日本銀行百年史 第5巻は、1923年と1927年の支払延期を1946年の金融緊急措置と並べ、性質が根本的に違うと書いています。1927年は債務者に準備の時間を与える期間付きの延期で、給料と賃金のための払戻しは止めませんでした。1946年は物価を抑えるために期間を定めず、お札まで預金に変えさせました。1907年の米国の恐慌とは、取り付けが銀行から銀行へ広がった点で並べられますが、中央銀行の有無と通貨制度が違うので、数は比べません。
図と本文の数が、どの資料のどこから来ているか。数値台帳・図の出どころ・資料の層・参考文献を、別のページにまとめました。