辞典と参考文献
A History of the English Railway; its Social Relations and Revelations. 1820–1845(vol. II)
John Francis — London: Longman, Brown, Green, & Longmans, 1851(Internet Archive のスキャン)

この資料が支える主張
- 1836年のイングランドの鉄道法23本のうち4本は放棄、15本が完成。1843年の鉄道法は24本。1844年は37件が認可され、株式資本1,398万1,000ポンドと借入400万6,000ポンド、計1,798万7,000ポンド(pp.133–134)
- 1842年1月の銀行の金塊562万9,000ポンドは1845年1月に1,486万7,000ポンドへ、流通は1,692万3,000から2,030万1,000ポンドへ増え、銀行の割引は2.5% だった。1845年1月に16線が登録され、4月には52社が加わり、いずれもプレミアム付きだった(pp.134–135, 143)
- 同時代の描写: 商人が子どもの名前で株を申し込んで割当書を売った、幼い娘が大口の申込人になった、職員が鉄道の仲買人になり、召使いが鉄道紙を読み、貯蓄銀行から預金を引き出した。「息子は寡婦の母の金で賭けた」(pp.144–146, 153–154)
- 商務省の鉄道部は1844年8月6日に置かれ、11月28日に審査の5項目を公表し、12月31日から報告を出したが、議会は勧告を覆した。鉄道部の権限は1845年7月10日に廃止された。「ガゼット」を待つ投機家の描写(pp.160–165)
- 1845年、預託は5% から10% へ引き上げられたが、それでも7・8月に登録は増え、9月には457が登録された(pp.166–167)
- クランリカード侯が上院で挙げた申込契約の例: 住所不明の2万5,000ポンドの申込人、年54ポンドの半給将校が4万1,500ポンド、ケントの助任司祭が2万5,000ポンド、屋根裏に住む洗濯婦の息子の兄弟が3万7,500ポンド(pp.168–169)
- 議会の申込人名簿(2,000ポンド超)には弁護士900人、銀行関係364人、聖職者257人(2人が2万6,000ポンド)、下院議員157人(1人が29万1,000ポンド)が載る。ただし銀行家の多くは既存会社の会長として署名した(pp.189–190)
- 1845年10月16日(木)にイングランド銀行が利率を上げ、金曜に取引が減り、土曜に警報が始まった。株式市場の恐慌は各地へ広がり、コンソルは1.5% 下がった。新計画への申込は止まり、広告は消えた(pp.191–192)
- 「他のどの恐慌もこれほど中産階級に致命的ではなかった」というのが事情に通じた人々の確信で、一家の破滅・自殺・債務者監獄・娘の奉公が語られる。仮株券が紙屑になると、割当は申込のすべてに与えられ、払えば破産、払わなければ訴訟だった(pp.195–197)
- ハドソンは1832年にヨーク市の保健委員、1837年に市長。1849年の告発(1845年12月30日に受け取った土地代3万1,000ポンドを自分の口座に入れた等)を、著者は当時の熱狂の側から弁護的に扱い、「彼と同僚がした行いのために一人の名だけが晒された」と書く(pp.198, 228–239)
- ハドソンの寛大さの例として「未亡人が空しく訴えたことは無い」「貧しい聖職者は彼に堅い友を見出した」と書く(p.225)
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