辞典と参考文献
The Panic of 1907
Federal Reserve History(Jon R. Moen, Ellis W. Tallman)

この資料が支える主張
- 信託会社は州免許で、決済網の中心ではなく、預金に対する現金準備は約5%(国法銀行は25%)。預金は要求払いで取り付けに弱かった
- 信託会社は担保なしで証券仲買人に日中貸付を行い、仲買人はその証券を担保に国法銀行からコールローンを得た。信託は株式市場の初期流動性の供給者だった
- 1907年10月16日、Heinze と Morse による United Copper 株の買い占めが失敗。関連銀行に取り付けが起き、NYCH は4日後に会員銀行の健全性を公表し経営陣を追放した
- 10月18日に Knickerbocker Trust の Barney が Morse の仲間だと報じられ取り付けが始まる。10月21日、NYCH は非会員である信託への融資を拒み、Morgan も(Strong の短時間の調査で支払能力を判定できず)支援を拒否。10月22日、約800万ドルの引出しの後に営業停止
- コール金利は10月22日に年率9.5% から70%、2日後に100% へ。Morgan は大企業・金融機関から現金を集め取引所の貸付窓口に届けた
- 5日の遅れの後、10月26日に NYCH は手形貸付証券の発行を決め、同日に預金の現金化を制限した。現金プレミアムが生じ、海外からの金流入が回復を促した
- 信託会社の預金は1907年8月22日から12月19日までに36% 超減少し、国法銀行の預金は増えた(注12)。1908年の鉱工業生産は17% 減、実質 GNP は12% 減(注16)。回復は1年余りで速かった(注17)
- Knickerbocker は1908年3月に240万ドルの増資で再開した(注5)。Barney は1907年11月14日に自殺(注10)
- 著者らの解釈: 1907年の信託会社は2007〜09年のシャドーバンクに当たり、両危機とも決済の中心の外から始まった。1907年の経験が NYCH の銀行家に中央銀行の価値を認めさせ、通貨改革運動と連邦準備制度の設立につながった
- 国法銀行法は恐慌時の指針を与えず、財務省は明文規定なしに長官の判断で介入した(注18)
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