1622年
銀貨が、3週間から8週間で銅のように赤くなった
南ドイツの町ウルムの靴職人が書き残した
1622年、南ドイツの町ウルムの靴職人ヘーベルレは、その年の貨幣について書き残しました。初めは純銀のように美しいのに、3週間から8週間で銅のように赤くなった、と。

3分でわかる キッパー・ウント・ヴィッパー
横に送って見られます
1622年
銀貨が、3週間から8週間で銅のように赤くなった
南ドイツの町ウルムの靴職人が書き残した
1559年
帝国の法が、銀貨に入れる銀の量を決めた
小さな貨幣は、25グルデンを超える支払いでは受け取らなくてよい
1595〜1607年
決まりどおりだと小さな貨幣は損。銀を減らして打つ所が出た
43%
1596年、小さな貨幣が正規の価値に足りなかった割合
1618年
戦争が始まり、みんなで貨幣を立て直せなくなった
1619年に結ばれた貨幣の協定は1件だけ
1618〜1621年
悪い貨幣を良い貨幣と換え、良い方を溶かして、また打った
回すたびに、銀が手元に残る
1618〜1621年
持ち込まれた隣の領邦も、守るために銀を減らした
こうして悪い貨幣が境を越えて広がった
1622年2月
良い銀貨1枚に、悪い貨幣でたくさん払うようになった
8グルデン30クロイツァー
グルデンターラー1枚の相場(1618年5月は1グルデン22クロイツァー)
1621〜1622年
暮らしに要るものが高くなり、決まった給料で暮らす人が先に苦しんだ
20%
ビールとパンを買う貨幣を手に入れるための上乗せ(1621年の歌)
1623〜1624年
領邦は悪い貨幣を無効にして回収した。損は国庫が負った
1グルデン20クロイツァー
1623年4月のグルデンターラー。戦争の前の水準に戻った
10%
1621年のバイエルンで、小さな貨幣に残った銀(決まりの量に対して)
10グルデン
ブランデンブルクで、良い銀貨(ライヒスターラー)1枚に払った額
54シリング6ペニヒ
ハンブルクの1ターラーの相場(1621年3月・頂点)
あなたは1621年、ある領邦で貨幣を打つ役目です。隣の領邦から、同じ額面なのに銀の少ない貨幣が持ち込まれ、こちらの良い貨幣が出ていきます。どうしますか?
選んでみてください
実際に、持ち込まれた側はそうしました。身を守るための悪鋳です。けれども、みんながそうすると悪い貨幣はさらに増え、隣へ運ばれ、境を越えて広がっていきました。
決まりどおりに小さな貨幣を打つと、造幣所は損をしました。約23 kg の銀を3プフェニヒ貨に打つと、46グルデンを超える損です。法に従う領邦は、小さな貨幣を打たなくなりました。
戦争の中で、対立する領邦は共同で立て直せませんでした。1619年に結ばれた貨幣の協定は、1件だけでした。
悪い貨幣が境を越えたのは、同じ額面で中身が違えば、換えて溶かす循環で銀が残ったからです。1623〜1624年、諸領邦はキッパー貨を無効にして回収し、その損を国庫が負いました。
1622年 ウルム
ヘーベルレの記録では、1622年の貨幣は、初めは純銀のように美しく見えました。それが3週間から8週間で、銅のように赤くなります。
記録は数字でも残っています。バイエルンでは1621年に、小額の貨幣に入っている銀が、規定の10% にまで減りました。最も小さい額面では、銀をまったく含まないものも多くありました。
暮らしは苦しくなりました。1621年の歌は、ビールとパンを買うグロッシェン貨を探し回り、20% を上乗せしなければ手に入らない、と歌います。ヘーベルレは、人が暮らしに要るものは何もかも恐ろしく高かった、と記しました。先に苦しんだのは、決まった給料や年金で暮らす人々でした。
なぜ、こうした貨幣が一つの町や領邦の中にとどまらず、境を越えて広がったのか。始まりは、戦争よりも60年以上前の、一つの法にあります。
1559年〜1609年
1559年8月19日、アウクスブルクで、皇帝と帝国の諸身分が帝国貨幣令を定めました。60クロイツァーの銀貨は、決まった重さの純銀から9枚半を打つ。小額の貨幣は、25グルデンを超える支払いでは受け取らなくてよい。各地の監督の会議が、年2回、貨幣の中身を検める。造幣の権利を他人に貸すことは禁じる。
問題は、小額の貨幣ほど、1枚を打つ手間が額面に比べて重いことでした。決まりどおりの銀を入れると、造幣所は損をします。約23 kg の銀を大きな銀貨に打てば14グルデン半を超える利益が出るのに、小さな3プフェニヒ貨に打てば46グルデンを超える損が出ました。
法に従う領邦は小額の貨幣を打たなくなり、代わりに監督の弱い造幣所が、銀を減らして打ちました。試金の記録では、1595年に小額の貨幣が正規の価値より15〜25% 足りず、1596年には43% 足りません。1607年には、フランクフルト市の6クロイツァー貨が約37% 足りませんでした。悪化は、戦争の20年以上前から進んでいたのです。
造幣の権利を持つ領主は、悪い貨幣と名前を結びつけられないよう、造幣所を請負人に貸しました。法が禁じた貸し出しと、許しの無い造幣所が、悪い小額貨をたくさん打つことを可能にしました。
1618年〜1621年
1618年、三十年戦争が始まります。軍備の支出が急に増え、対立する諸身分は、共同で貨幣を立て直すことができませんでした。1618年5月、ニュルンベルクに集まった監督の会議は、極端な悪鋳を防ぐことしか期待できない、と述べています。翌1619年に結ばれた貨幣の協定は、一件だけでした。
広がった仕組みは、額面と中身のずれにあります。同じ額面で通る二つの貨幣の、銀の量が違うとします。銀の少ない方を打って、銀の多い方と交換し、多い方を溶かして、また少ない方を打つ。この循環を回すたびに、銀が手元に残ります。
主な流れを簡略化した図です。実際には両替商や造幣所の請負人など、多くの人がこの循環に加わっていました。
この図で分かること銀の少ない貨幣を打って、同じ額面の銀の多い貨幣と換え、溶かしてまた打つ循環で銀が手元に残り、良い貨幣が外へ出ていく仕組みが分かります。
この循環は、領邦の境を越えて働きました。悪い貨幣を持ち込まれた側は、良い貨幣を守るために、自分たちも銀を減らして打ちます。1559年の令も、外からの悪貨の流入と良貨の流出を知っていて、秤で良い貨幣を選り出す者や、良い貨幣を買い上げる者を罰すると定めていました。
1614年〜1622年
悪い貨幣が増えると、銀をきちんと含む良い貨幣に、悪い貨幣で払う値段が上がっていきます。ハンブルクでは、1ターラー銀貨の相場が1614年12月の37シリング6ペニヒから、1621年3月には54シリング6ペニヒになりました。
ゼートベーアの表をショーが転載。12ペニヒ=1シリングで小数に直した(37 s 6 d → 37.5)。1621年3月の54シリング6ペニヒが頂点で、1622年5月に48シリングへ戻る。
この図で分かること良い銀貨1枚に払う値段が、戦争の前から少しずつ、1619年から急に上がったことが分かります。
出所: W. A. Shaw 1895 p.208(ページ画像で照合)
ブランデンブルクでは、ライヒスターラー1枚が1620年に2グルデン4クロイツァー、1621年に4グルデン、1622年には10グルデンです。帝国全体の表では、グルデンターラーが1622年2月に8グルデン30クロイツァーで頂点を付けました。
食料の値段がどれだけ上がったかを、一つの数でまとめた記録は見つかっていません。「食料はおよそ8倍」「小額貨は額面の5分の1」という数がよく引かれますが、2012年の雑誌の記事に出典を示さずに書かれたもので、元の記録に辿り着けません。確かめられるのは、良い貨幣の相場の表までです。
1618年5月
ニュルンベルクの監督の会議
なぜ重要か極端な悪鋳を防ぐことしか期待できない
1619年10月20日
グルデンターラー1グルデン36クロイツァー
なぜ重要か1618年5月は1グルデン22クロイツァー
1620年11月9日
グルデンターラー2グルデン
なぜ重要か上がり方が速くなる
1621年12月
グルデンターラー5グルデン30クロイツァー
なぜ重要か1年あまりで2倍を超える
1622年2月
グルデンターラー8グルデン30クロイツァー(表の頂点)
なぜ重要か金グルデンは12グルデン
1622年6月16日
グルデンターラー2グルデン52クロイツァー
なぜ重要か戻り始める
1623年4月
グルデンターラー1グルデン20クロイツァー
なぜ重要か戦争の前と変わらない水準へ
この図で分かること良い貨幣の相場が1622年2月に頂点を付け、1623年4月には戦争の前と変わらない水準へ戻ったことが分かります。
1621年〜1622年
この時期には、一枚刷りの刷り物や詩がたくさん出ました。『良い金の墓碑銘』『貨幣たちの新しい対話』などです。その中には、ユダヤ人が良い金を溶かした、と責める刷り物もあります。
けれども、これは刷り物が誰かのせいにした言葉であって、何が起きたかの説明ではありません。『良い金の墓碑銘』自身が、良い貨幣を持ち込むキリスト教徒の方が悪いと書き、1597年の帝国の委員は、悪いプフェニヒ貨を押し込む者を「キリスト教徒とユダヤ人」と書いています。悪い貨幣を打ったのは、造幣の権利を持つ領主や都市と、その請負人でした。
「国そのものが偽金作りになった」という言い方もあります。法の上では、1559年の令は、決まりの外の貨幣を打った領主には金50マルクの罰金、偽造者には身体と生命の罰と、二つを分けています。一方で研究者のフォルカートは、まねて打つことと悪鋳の境は薄かったと指摘します。食い違っているのは、法の区別を重く見るか、実際に起きたことを重く見るかです。
名前の由来も、資料で分かれます。州の文書館と連邦銀行の解説は、どちらも速い秤で良い貨幣を選り分ける動作だとします。1888年のマイヤー百科事典は、kippen を「切り取る」、wippen を「秤の皿が沈むように投げ入れる」と説きます。ただ、1559年の令は「切る者」と「秤にかけて選り出す者」を別の罪として並べていて、手口は名前より60年余り古いのです。
1622年〜1624年
1622年から、相場は戻り始めます。ハンブルクのターラーは1622年5月に48シリングへ。帝国全体の表のグルデンターラーは、1623年4月に1グルデン20クロイツァーになりました。
バイエルンは1623年に悪い貨幣の値を下げ、鋳造を帝国の基準に戻しました。諸領邦は1623〜1624年にキッパー貨を無効として引き上げ、新しい貨幣を打ちます。回収の損は、領邦の国庫が負いました。
後に残った制度もあります。ハンブルク銀行(1619年)とニュルンベルク銀行(1621年)の設立を、歴史家ショーはこの事件の弊害に直接結びつけています。1624年には、ヒルデスハイム市が皇帝の名と帝国の鷲を刻んだ四分の一ライヒスターラーを打ちました。NOMISMA には、その実物があります。
1622年に戻る
冒頭の問いに戻ります。悪い貨幣が境を越えて広がったのは、同じ額面で通る貨幣の中身が違えば、銀の少ない方を打って多い方と換える循環で利益が出たからです。悪い貨幣を持ち込まれた側は、守るために自分たちも銀を減らしました。その下地には、決まりどおりに打てば損をする小額貨と、造幣所を貸し出す慣行と、共同で立て直せない分裂がありました。
連邦銀行の貨幣博物館は、この出来事を「神聖ローマ帝国の歴史のなかで最大のインフレ」と書きます。比べている範囲は、帝国の歴史の中です。
この図で分かること1559年の法から、損をする小額貨、戦争、境を越える循環、そして回収までを一続きでたどれます。
ここから先は、もとの教材の本文・年表・図・研究者の見方を、省かずに読めます。見出しを押すと開きます。
1618年に始まった三十年戦争の最初の数年、神聖ローマ帝国の諸領邦と都市は小額の銀貨から銀を抜いて銅を増やし、良い貨幣を秤で選り分けて溶かし、その銀で悪い貨幣を打った。良貨の相場は1622年の初めに頂点を付け、1623年に元の水準へ戻る。相場表と法と一枚刷りで数え直すと、「8倍」「額面の5分の1」型の数は出典に辿り着けず、残るのは地域ごとの良貨の相場と、額面と中身のずれが境界を越えて広がる仕組みである。
もとの問い悪貨は、なぜ国境を越えて広がったのか。
1618年に始まった三十年戦争の最初の数年、神聖ローマ帝国の諸領邦と都市は、小額の銀貨から銀を抜いて銅を増やし、良い貨幣を秤で選り分けて溶かし、その銀で悪い貨幣を打ちました。1619年から1623年にかけて、良い貨幣の相場は各地で数倍に上がり、1622年の初めに頂点を付け、1623年には元の水準へ戻ります。同時代の人々はこの時代を、風刺歌の言葉で「キッパーとヴィッパーの時代」と呼びました。
出発点は1559年8月19日、アウクスブルクで皇帝フェルディナント1世と帝国の等族が定めた貨幣令です。ケルン・マルクの純銀を物差しに、60クロイツァーのライヒスグルディナーは1マルクから9枚半、品位は14ロート16グレーンと決まり、10・5・2分の5・2・1クロイツァーの小額貨まで、枚数と品位が条文に書かれました。5クロイツァー未満の小額貨は25グルデンを超える支払いでは受け取る義務が無く、小額貨が「積み上がって高い貨幣を押し上げる」ことのないよう管区(クライス)が見張り、年に2回の試金集会で各領邦の貨幣を検め、造幣権を他人に貸すことも、造幣長と俸給以外の契約を結ぶことも禁じられました。1566年の帝国議会は、多くの地方で契約がターラー建てになっている現実を認め、68クロイツァーのターラーを帝国貨幣に加えます。
令には穴がありました。小額貨は一枚あたりの鋳造費が高く、条文どおりの銀を入れると造幣所は損をします。連邦銀行貨幣博物館の解説によれば、約23 kg の銀をターラーに打てば14グルデン半を超える利益が出るのに、同じ銀を3プフェニヒ貨に打つと46グルデンを超える損失になりました。法に従う領邦は小額貨を打たず、監督の弱い造幣所が銀を減らして打ちます。1595年の試金では3クロイツァー貨と半バッツェンが正規の価値に15から25% 足りず、1596年には43%、1604年には平均で18から26%、1607年のニュルンベルクの試金ではフランクフルト市の6クロイツァー貨が約37% 足りませんでした。1609年には悪鋳者の一覧が20を超えています。悪化は開戦の20年以上前から進んでいました。
開戦が合図になりました。1618年5月にニュルンベルクへ集まった上部三管区は、極端な悪鋳の発生を防ぐことしか期待できないと述べ、1619年に開かれた貨幣協定は5月の上ザクセン管区の一件だけです。造幣権を持つ領主は、悪貨と結びつけられないよう造幣所を請負人に貸し、ヴュルテンベルク公はベルクとテュービンゲンに新しい造幣所を設けました。帝国法が禁じた請負と、認可の無い「垣根の造幣所(ヘッケンミュンツェ)」が広がります。
良い貨幣の値上がりは、相場表に残っています。ハンブルクでは1ターラーが1614年12月に37シリング6ペニヒ、1619年10月に48シリング、1621年3月に54シリング6ペニヒでした。ブランデンブルクではライヒスターラーが1620年に2グルデン4クロイツァー、1621年に4グルデン、1622年に10グルデンです。帝国全体の表では、グルデンターラーが1618年5月の1グルデン22クロイツァーから1620年11月に2グルデン、1621年12月に5グルデン30クロイツァー、1622年2月に8グルデン30クロイツァーへ上がりました。アウクスブルクで刷られた一枚刷り『良い金の墓碑銘』は、ライヒスターラー1枚に5グルデン30クロイツァー、ドゥカートに8グルデン30クロイツァーを払う両替商の問答を載せています。
悪貨の中身は、バイエルンでは1621年に1559年令の規定の10% まで下がり、最小の額面では銀を含まないものが多くなりました。ウルムの靴職人ハンス・ヘーベルレは1622年について、初めは純銀のように美しいが3週間から8週間で銅のように赤くなる貨幣だったと書き、人が暮らしに要るものは何もかも恐ろしく高かった、と記しています。1621年の歌は、ビールとパンを買うためのグロッシェンを探し回り、20% を上乗せしなければ手に入らない、と歌いました。
収束は1622年から始まります。ハンブルクのターラーは1621年5月の54シリングから1622年5月に48シリングへ下がり、帝国全体の表のグルデンターラーは1622年6月16日に2グルデン52クロイツァー、1623年4月に1グルデン20クロイツァーです。バイエルンは1623年に悪貨を減価して鋳造を帝国の基準へ戻し、諸領邦は1623年から1624年にかけてキッパー貨を無効として引き上げ、新しい貨幣を打ちました。回収の損失は領邦の国庫が負います。NOMISMA の実物、1624年銘のヒルデスハイム市の四分の一ライヒスターラーは、その直後の一枚です。
仕組みは、額面と中身のずれにあります。同じ額面で通る二つの貨幣の銀が違えば、銀の少ない方を打って銀の多い方と交換し、良い方を溶かして再び銀の少ない貨幣に打つことで、鋳造費を引いた差額が残ります。ショーは1895年の論文で、この循環が止まるのは相場の改定で利幅が消えるか、良い貨幣が尽きるときだけだ、と書きました。1559年の令もこの動きを知っており、外国の悪貨の流入と良貨の流出を6か月で止めよう、貨幣を「秤にかけて選り出す者」と「買い上げる者」を身体と財産で罰しよう、と定めています。
境界を越えたのは、この循環そのものでした。自分の領邦で悪鋳するより、隣の領邦へ悪貨を持ち込み、良貨を得て持ち帰り、また悪鋳する方が儲かります。持ち込まれた側は身を守るために自分の貨幣を悪くし、隣へ運びます。フォルカートはこれを「防衛的な悪鋳」と呼び、境界が貨幣の流れに対して多孔的だったこと、隣国の貨幣の劣った模造を出すことが悪鋳と同じ効果を持ったことを指摘しました。造幣所が増えるほど、銀の買い上げの競争が激しくなります。
良い貨幣は姿を消しました。1621年の詩『貨幣たちの新しい対話』では、古いグロッシェンが「とうに火の中」、マリエングロッシェンは「銀の杯になった」と語り、ライヒスターラーは「5ターラーと4分の1で通る」と語ります。相場表の数字は、食料の値段ではなく、良い貨幣を悪い貨幣で買うときの上乗せです。日々の買い物は悪貨で行われ、賃金も税も悪貨で払われました。
誰が払ったか。固定の給料や年金で暮らす人が、まず払いました。ヘーベルレは貧しい者が妻子と共に飢えを忍んだと書きます。悪貨は税や貢納として領主へ戻り、農民は減価した金で産物を渡すのを拒み、傭兵は良い金での支払いを求めました。鋳造の利益はこうして相殺され、1623年からの回収では、キッパー貨を無効にして新しい貨幣に打ち直す損失を領邦の国庫が負いました。銀行の貸出も、紙の証券も、この事件には登場しません。動いたのは金属と秤と炉です。
「キッパーは縁を切る者、ヴィッパーは秤を揺らす者」。名前の説明は資料で分かれます。バーデン=ヴュルテンベルク州立文書館の解説と連邦銀行の解説は、どちらの語も速秤で良貨を選り分ける動作だとし、1888年のマイヤー百科事典は kippen を「切り取る」、wippen を「秤の皿が沈むように投げ入れる」と説きます。レートリヒは、両替商が見物人を惑わすために秤を揺らし続けた手口だと説明しました。1559年の令は「切る者」と「秤にかけて選り出す者」を別々の罪として並べており、手口は名前より60年余り古い。名前そのものは、1621年の歌の「うちの村ではキッパーと呼び、隣のハンスはヴィッパーだと言う」という一節から広まったと、ショーは見ています。
「ユダヤ人が良い金を溶かした」。1621年の『良い金の墓碑銘』と1622年の『ユダヤ人のキッパーと両替商』は、題名と本文でユダヤ人を名指しして責めました。同じ『墓碑銘』は「ここに来るキリスト教徒はもっと悪い」と、良貨を両替商へ持ち込むキリスト教徒も責め、1597年のフランクフルトの帝国委員は悪いプフェニヒを押し込む者を「キリスト教徒とユダヤ人」と書いています。悪貨を打ったのは造幣権を持つ領主と都市、貸し出された造幣所の請負人で、1559年の令が名宛人とするのもその人々です。一枚刷りの帰責は、史料に残る偏見であって、出来事の説明ではありません。
「子どもが悪貨を玩具にした」。NOMISMA の教材にあるこの光景は、2012年のスミソニアン誌の記事が1923年との対比で書いた一文に見え、記事は出典を示していません。ここで読んだ同時代の一枚刷り、ヘーベルレの年代記の引用、ショーが引く歌には、この光景はありません。出どころは分かっていません。
「民衆は悪鋳した領主の人形を吊るした」。教材のこの一文の出どころも分かっていません。騒擾そのものは記録があり、ショーは1622年のマクデブルクの動揺について1866年の論文を引き、スミソニアン誌の記事は同じ1622年2月のマクデブルクで16人が死に200人が負傷したと書きます(原典は示していません)。
「国家そのものが偽金作りになった」。1559年の令は、貨幣領主が定めの外の貨幣を打てば金50マルクの罰金、偽造者は身体と生命で罰する、と両者を分けて書いています。フォルカートは、隣国の貨幣の劣った模造を出すことと悪鋳の境界が薄かったと指摘し、連邦銀行の解説は開戦後の悪鋳を「意識的に」行われたものと書き、州立文書館の解説は皇帝も貨幣投機に加わったと記します。法の上では区別があり、実務ではその区別が崩れた、というのがこの事件の要です。「偽造」の一語で片づけると、法が何を禁じ、誰が破ったかが見えなくなります。
「ドイツ史上最初の大インフレ」「食料は8倍」。連邦銀行貨幣博物館は「神聖ローマ帝国の歴史のなかで最大のインフレ」と書き、分母を帝国の歴史に置いています。「最初」については、ここに挙げた資料に根拠がありません。「8倍」「額面の5分の1」は前節のとおり出典に辿り着けず、地域ごとに違う相場表があるだけです。
「キッパーは縁を切る者、ヴィッパーは秤を揺らす者」
争いあり出どころ: Meyers 1888ほか19世紀の事典。教材 諸領邦の両替の店先
Senta Herkle・Marius Wieandt 2022 Deutsche Bundesbank Bibliographisches Institut, Leipzig 1887 Mike Dash 2012 皇帝フェルディナント1世と帝国等族1559
「ユダヤ人が良い金を溶かした」
裏付けなし出どころ: 1621〜1622年の一枚刷り(Wörle・『ユダヤ人のキッパーと両替商』)
Martin Wörle— Wikisource の翻刻1621 作者不詳1622 W. A. Shaw 1895 皇帝フェルディナント1世と帝国等族1559
「子どもが悪貨で遊んだ」
裏付けなし出どころ: Dash 2012(出典なし)→ 教材 狂乱のさなかの路地。同時代の史料には見つかっていない
Mike Dash 2012 Senta Herkle・Marius Wieandt 2022 W. A. Shaw 1895
「国家そのものが偽金作りになった」
争いあり出どころ: 教材 キッパー・ウィッパー
皇帝フェルディナント1世と帝国等族1559 Oliver Volckart 2017 Deutsche Bundesbank
「食料はおよそ8倍、小額貨は額面の5分の1」
争いあり出どころ: Dash 2012(出典なし。文脈は Kindleberger 1991)→ 教材 キッパー・ウィッパー
Mike Dash 2012 W. A. Shaw 1895 Bibliographisches Institut, Leipzig 1887
この事件から今に残るのは、額面と中身のずれが境界を越えて広がる速さです。悪貨が入れば隣も悪貨を打ち、良貨は炉と銀器と長持ちの中へ消えます。1559年の令が小額貨の受け取り義務に25グルデンの上限を置いたことは、現在の法定通貨の条文が硬貨の強制通用力に枚数の上限を置くことと同じ問いに答えています。額面だけの貨幣を、誰がどこまで受け取らねばならないか。
もう一つは、裏づけを読む習慣です。ヘーベルレが記した貨幣は、赤くなるまでの数週間は銀に見えました。品位は見ただけでは分からず、秤と試金石を持つ者だけが良貨を選び出せます。発行者が自分で品位を決め、自分で検査する仕組みを、1559年の令は管区の試金集会で外から検めようとしました。今の貨幣で言えば、発行者の表明とは別に、第三者が中身を確かめる経路があるかどうかです。
この事件と並べられるのは、国家が自らの支払いのために貨幣の価値を動かした事件です。ジョン・ローの体系は、紙幣と株式で信用を動かしました。キッパー・ウント・ヴィッパーは、金属の含有を減らす物理の操作で、境界を越える悪貨によって伝播しました。並べて見えるのは「国家が貨幣の価値を動かす二つの方法」で、物価の記録が地域ごとに違い、総括の数字が無い以上、比較は仕組みの型に限られます。
資産の値上がりを扱う事件と並べてはいけません。悪鋳は発行者の意図的な減価で、担保や資金調達の取り付けとは仕組みが違います。「物価が上がった」という一点だけで1980年代の日本や2007年の危機と並べると、外形の似た点だけが先に立ちます。
図と本文の数が、どの資料のどこから来ているか。数値台帳・図の出どころ・資料の層・参考文献を、別のページにまとめました。