1716年5月
ローが、パリで券(紙のお金)を出す銀行を開いた
1718年12月には王立銀行になった
1720年3月5日、フランスの国務会議は、インド会社の株を1株9,000リーヴルに固定し、株と王立銀行の券をいつでも持ち主の望みどおりに取り換える窓口を開くと決めました。

3分でわかる ジョン・ローの体系
横に送って見られます
1716年5月
ローが、パリで券(紙のお金)を出す銀行を開いた
1718年12月には王立銀行になった
1717年4月
その券で、税が払えるようになった
税で受け取られる券は、広く使われた
1717〜1719年
国の仕事を、一つの会社に次々と集めた
海外の貿易・タバコ・お金づくり・税の徴収
1719年8月27日〜
会社が国にお金を貸し、国の借金が会社の株に変わった
12億リーヴル
会社が王に年3% で貸した額(のち16億)
1719年
株の値段が、どんどん上がった
500 → 約10,000リーヴル
1株の値段(1719年5月 → 頂点)
1719年12月〜1720年2月
金貨と銀貨を使いにくくして、券を使わせた
500リーヴル
これを超える金貨・銀貨を持つことが禁じられた(1720年2月27日)
1720年3月5日〜
株を9,000リーヴルで券と交換。券がどんどん刷られた
10億6,970万 → 22億3,510万リーヴル
券の発行残高(2月末 → 5月末)
1720年5月21日〜7月17日
株と券の値を下げる決定で信用が崩れ、窓口に人が押し寄せた
7月17日、券の支払いが止まった
1721年
紙はすべて集められ、ふたたび国の借金に戻された
22億1,120万 → 17億リーヴル
差し出された紙 → 国債の元本
20倍
1719年に、会社の株の値段が上がった幅
22億3,510万リーヴル
1720年5月末の券の発行残高。3か月で倍になった
203.7
1720年9月のパリの物の値段(指数)。1720年1月だけで25% 上がった
1720年5月、あなたは1万リーヴルの券を持っています。「券の値を、12月までに5,000リーヴルへ下げていく」と発表されました。どうしますか?
選んでみてください
券を現金に換えようとする人が、銀行の窓口に押し寄せました。けれども翌22日から、銀行は下げた値で払いました。窓口の群衆の中では、6月3日に4人、7月17日には12ないし15人が押しつぶされて亡くなっています。そして7月17日、券の支払いは止まりました。
決定は27日に取り消されました。けれども7月17日には券の支払いが止まり、8月15日には券を廃する日程が出ます。1721年、紙はすべて差し出させられ、国債に替えられました。500リーヴル以下の請求は減らされず、残りは平均で39% 減りました。
ローは12月の初めにフランスを離れます。1724年の国の借金は、体系が始まる前と大きくは変わらない水準に戻っていました。
1720年3月5日(火) パリ
国務会議の決定は、第2条で株の値を1株9,000リーヴルに固定し、第5条で3月20日から銀行に窓口を開いて、株と券を持ち主の望みどおりに互いに換える、と定めました。株を手放したい人は9,000リーヴルの券を受け取れ、券を持つ人は同じ値で株を買えます。
窓口が開くと、券が刷られていきました。3月25日に3億、4月5日に3億9,000万、4月19日に4億3,800万、5月1日に3億6,200万リーヴル。会社は3月から5月に12億1,350万リーヴルを払って、自分の株の27% を買い戻しています。
券の発行残高は、1720年2月末の10億6,970万リーヴルから、5月末には22億3,510万リーヴルになりました。同じころの推計で、フランスにあった金貨と銀貨は合わせて約12億リーヴルです。
ヴェルドの表4(発行から焼却分を除いた残高)。1720年3月5日の釘付けから5月末までの3か月で倍になった。同時代のデュトの表も2〜5月で同じ値。
この図で分かること券の発行残高が1720年3月の固定の後に急に増え、5月末に22億リーヴルを超えたことが分かります。
出所: François R. Velde 2003 表4 p.25
なぜ、株を固定の値で券と交換し、そのために券を刷り増す仕組みになったのか。始まりは、その4年前の小さな銀行です。
1716年〜1718年
1716年5月、ローと彼の会社は、20年の特権で一般銀行を開く許しを得ました。資本は1株5,000リーヴルの1,200株で、払い込みの大半は値崩れした国の借金の証書でした。当初の現金は1株690リーヴルで足りています。
券が広まった仕組みは、王の受け取る側にありました。1716年10月7日の決定で、税を集める役人は券を現金に換える義務を負い、1717年4月10日には券で税を払えるようになります。経済学者デュトは、1718年6月に旧い券を受け入れた決定を「体系と銀行券の始まり」と呼びました。
1718年12月4日、一般銀行は王立銀行になりました。王が株主から株を買い取り、ローが王のために運営し、利益は国庫に入ります。
1717年〜1719年
1717年8月、西方会社ができました。ルイジアナを永代に与えられ、25年の商業の独占を持つ会社です。資本は1株500リーヴルの20万株で、これも国の借金の証書で払い込まれました。
会社は次々に仕事を吸収します。1718年にタバコの専売、1719年5月に東インド会社と中国会社を合わせてインド会社に、7月に造幣、8月27日に税の徴収の請負。1720年1月5日には、ロー自身が財務総監になりました。
そして1719年8月27日から、国の借金の付け替えが始まります。会社は王に年3% で12億リーヴル(のち16億)を貸し、王はそのお金で、古い借金の証書を払い戻しました。会社はその資金を、1株5,000リーヴルの新株30万株で集めます。
主な流れを簡略化した図です。会社は貿易や税の徴収の仕事も持っていました。
この図で分かること国の借金の証書が会社の株に替えられたこと、券は税の支払いに使え、1720年3月からは株と固定の値で交換されたことが分かります。
株は上がりました。1719年5月10日に500リーヴル、7月中旬に1,000、8月26日に3,600、9月9日に5,350。頂点はおよそ10,000です。会社は10月から5,000で自分の株を買い支え、12月29日に1株200リーヴルの配当を公告しました。
1719年12月〜1720年3月
券を使わせるために、金貨と銀貨は法で押し出されました。1719年12月21日、銀で10リーヴル、金で300リーヴルを超える支払いが禁じられます。1720年1月28日、券は全国で法貨になり、2月27日には500リーヴルを超える金貨・銀貨を持つこと自体が禁じられました。3月11日には、金貨と銀貨を廃する予告まで出ています。
物の値段は上がりました。パリの商品の物価指数は、1719年7月の116.1から1720年9月の203.7へ。1720年1月だけで25% 上がっています。
ガーバーが引くハミルトンの指数。1720年1月だけで25% 上がった(ヴェルド)。
この図で分かること券が増えた時期に、パリの物の値段が1719年7月から1720年9月にかけて大きく上がったことが分かります。
出所: Peter M. Garber 1990 p.45
1720年5月21日〜7月17日
5月21日、株と券の値を月ごとに下げていく決定が出ました。株は公布の日に8,000リーヴル、12月1日に5,000へ。1万リーヴルの券も、8,000から12月1日に5,000へ。翌22日から銀行は下げた値で払い、25日には群衆が石を投げます。27日、決定は撤回されました。ローは28日に罷免されますが(同時代の日記を書いたビュヴァは29日夜に辞任と記します)、6月の初めに戻っています。
券を現金に換えようとする人が、銀行の窓口に押し寄せました。ビュヴァの日記には、6月3日に4人、7月5日に5人、7月17日には12ないし15人が押しつぶされて死んだと書かれています。7月17日、券の支払いは止まりました。
1720年2月27日
500リーヴルを超える金貨・銀貨の保有を禁止
なぜ重要か券を使わせるため
1720年3月5日
株を9,000リーヴルに固定し、株と券を固定の値で交換すると決定
なぜ重要かその後の3か月で券の発行残高が倍に
1720年5月21日
株と券の値を月ごとに下げる決定
なぜ重要か翌日から下げた値で支払い・25日に投石
1720年5月27日
減額の決定を撤回
なぜ重要かローは罷免され、6月初めに戻る
1720年6月1日
金貨・銀貨を持つ自由が戻る
なぜ重要か券を使わせる法の後退
1720年6月3日
銀行の窓口の群衆で4人が圧死
なぜ重要か券を現金に換えようとした
1720年7月17日
12〜15人が圧死。券の支払いを停止
なぜ重要か同時代の日記(ビュヴァ)の記述
この図で分かること金貨と銀貨の禁止・株の固定・減額の決定と撤回・窓口の群衆・支払いの停止が、5か月のうちにどの順で起きたかが分かります。
8月15日、券を廃する日程が公示され、10月10日にはそれが11月1日へ早められました。ローは12月の初めにフランスを離れます。
1721年〜1724年
1721年、ヴィザと呼ばれる手続きで、体系の紙はすべて差し出させられました。提出された22億1,120万リーヴルは、元本17億リーヴルの国債に減らされます。500リーヴル以下の請求は減らされず、残りは平均で39% 減りました。
1724年の国の借金は元本25億4,140万リーヴル、利払いは8,670万。体系が始まる前の1717年(元本23億2,170万・利払い9,370万)と、大きくは変わらない水準に戻っていました。
1720年3月5日に戻る
冒頭の問いに戻ります。ローは1705年の著書『貨幣と交易』で、国内の交易は貨幣に依存し、より多くの貨幣はより多くの人を働かせる、と論じていました。経済史家ヴェルドは、ローの体系の柱を二つと見ます。国の借金を会社の株に替えること、そして金貨や銀貨を紙の貨幣に替えることです。3月5日の窓口は、株を固定の値で券と交換することで、その二つを結びつけた仕組みでした。
崩れた理由の見方は分かれます。マッケイは崩壊を国民の熱狂に帰し、経済学者ガーバーは、値上がりも値下がりも体系の段階と政策で説明できるとして、現代の意味のバブルではないとします。ヴェルドは、頂点の株価は2〜5倍の過大評価だが、それはロー自身の価格の支えによるもので、債務不履行とも詐欺とも言えないとします。ローは財産をフランスの不動産に投じていました。食い違っているのは、崩れた原因を人々の熱狂に置くか、政策の組み立てに置くかです。
なぜ9,000という高い値に固定したのかも、ヴェルドは長期の金利の見込み違いと見て、ほかの研究者は初期の株主が利益を確かめるまで値を保つ必要や、ルイジアナの不振が知られていなかったことを挙げます。
この図で分かること小さな銀行から、国の借金と貨幣を束ねる体系になり、崩れて国の借金に戻るまでを一続きでたどれます。
ここから先は、もとの教材の本文・年表・図・研究者の見方を、省かずに読めます。見出しを押すと開きます。
1716年に私人の銀行として始まったローの体系は、1719年に国の負債・徴税・造幣・海外貿易を一つの会社に束ね、株価を20倍にした。1720年3月に株を1株9,000リーヴルの固定の値で券と交換するようにした後、券の残高は3か月で倍になり、5月21日の減額令で信用は崩れた。1721年のヴィザで紙は再び国債になり、負債は体系の前と大きく変わらない水準に戻った。
もとの問いジョン・ローは、何を作ろうとしたのか。
1716年5月2日、スコットランド生まれのジョン・ローと彼の会社に、パリで銀行を開く20年の特権が与えられました。特許状の前文には、ローが最初に出した「王の資金で王の名において運営する銀行」の案が財務会議で退けられ、代わりに自分と会社の資金で開く銀行を願い出た経緯が書かれています。券は「その日の重さと品位のエキュ」建てで、資本は1株5,000リーヴルの1,200株、その大半は値崩れした国債で払い込まれました。当初の現金は1株690リーヴルで足りています。1718年12月4日、王はこの銀行の株を額面で買い取り、王立銀行にしました。
券が広まった仕組みは、王の受け取り側にありました。1716年10月7日の決定で徴税官は券を現金に換える義務を負い、1717年4月10日には税の支払いで券が法貨になります。1718年6月1日には、改鋳で目減りした旧エキュに対して券が1エキュ6リーヴルで受け入れられ、券を持つ方が硬貨を持つより得になりました。会社の出納係だったデュトは後に、王が自分の証券を自分で受け取ったこの時を「体系と銀行券の始まり」と呼びます。
1717年8月、勅令の形式による特許状が「西方会社」を設けます。ルイジアナは永代に会社へ下付され、25年の商業独占とカナダの海狸皮が付きました。王が留保したのは臣従礼と、代替わりごとの重さ30マールの金の冠だけです。資本1億リーヴルは1株500リーヴルの20万株で、払込は国債の額面によります。応募は遅く1718年末に締まり、4割は王が持ちました。会社は1718年8月にタバコ専売、12月にセネガル会社、1719年5月に東インド会社と中国会社を合わせて「インド会社」となり、7月25日に造幣、8月27日に総徴税請負(年5,200万リーヴル)、8月末に直接税の徴収を引き受けます。
1719年8月27日から始まる公債の借換が、この体系の中心です。会社は王に12億、のちに16億リーヴルを年3% で貸し、王はそれで永久年金・官職・国債を強制的に償還しました。会社は資金を1株5,000リーヴルの新株30万株で集め(9月12日・26日、10月2日)、払込は分割で、国債の償還証書でも払えました。株価は5月10日の500リーヴルから7月中旬に1,000、8月26日に3,600、9月9日に5,350と上がり、頂点はおよそ10,000リーヴルです。会社は10月から自社株を5,000で買い支え、12月末には毎日の値を掲げる売買窓口を開き、12月29日には1株200リーヴルの配当を公告しました。1720年1月5日、ローは財務総監になります。
券の発行は株の発行と歩調を合わせて増えました。1718年12月に約4,000万リーヴルだった残高は、1719年12月末に7億6,900万、1720年2月末に10億6,970万、5月末に22億3,510万になります。同時代の推計で王国の正貨は約12億でした。金属を紙に置き換えるため、1719年12月21日に銀10リーヴル・金300リーヴルを超える支払いが禁じられ、1720年1月28日に券は全国の法貨になり、2月27日には500リーヴルを超える正貨の保有が禁じられ、3月11日には金銀の廃貨が予告されます。
1720年2月22日、銀行は会社に合併され、株の買い支えはいったん止まります。株は9,925から3月1日に8,500へ落ちました。3月5日の国務会議決定は方向を戻します。第2条で株を1株9,000リーヴルに固定し、第5条で3月20日から銀行に窓口を開いて、株を券に、券を株に、持ち主の望みどおり換えると定めました。株が9,000リーヴルの券と同じものになった瞬間です。3月25日から5月1日までに3億・3億9,000万・4億3,800万・3億6,200万リーヴルの券が増発され、会社は3月から5月に12億1,350万リーヴルで自社株の27% を買い戻しました。
5月21日の決定は、この釘付けを解く試みでした。株は公布の日に8,000、以後月ごとに下げて12月1日に5,000へ。券も1万リーヴル券を8,000として受け入れ、12月1日に5,000に固定する、という日程です。税の支払いだけは1721年1月1日まで額面どおりとされました。翌22日、銀行は減額後の値で券を払い、25日には支払いの遅れに群衆が投石し、27日に高等法院が臨時に集まります。同じ27日、王は決定を撤回し、券は前と同じ価値で流通すると定めました。ローは5月28日に罷免され(ビュヴァの日記では29日夜に辞任)、6月1日に正貨の保有は自由に戻り、6月2日には減額後の値で受け取った券の差額を返せという決定が出ます。6月初め、ローは閣議に戻りました。
それでも券は戻りませんでした。6月には2.5% の年金10億リーヴルが券で買えるようになり、7月13日には大口決済専用の銀行口座が設けられ、券は年金・口座・株へ吸い上げられていきます。銀行の窓口は6月3日、7月5日、7月12日から13日に圧死者を出し、7月17日には12人から15人が押し潰されて、同日、支払いは止まりました。8月15日に廃貨の日程(高額券は10月1日、小額券は翌年5月1日)が公示され、10月10日には11月1日へ前倒しされます。ローは12月初めにフランスを離れました。
1721年1月、体系のすべての紙を提出させる「ヴィザ」が命じられます。提出された22億1,120万リーヴルは17億の元本と年4,700万の年金に減らされ、証書は1722年に額面の25% で売買されました。500リーヴル以下の請求は減らされず、それは人数の半分、金額の4割にあたります。残り6割の金額は平均39% 減りました。株は12万5,000が5万5,735になります。1724年の王の負債は元本25億4,140万、利払8,670万で、体系の前の1717年(23億2,170万、9,370万)と大きく変わっていません。
動いたのは国の借金です。ルイ14世が残した負債は1715年に28億リーヴルで、利払は歳入1億6,600万に対し8,650万を超えていました。1717年の西方会社は、値崩れした国債を額面で株に換える器でした。持ち主から見れば4% の債券が、同じ債券とルイジアナを資産に持つ会社の株に変わります。国から見れば負債は同じままで、それまで何も生まなかった植民地を手放しただけです。
1719年8月からは、それが国の負債の全体に広がります。会社が王の債権者になり、王への年4,800万の支払いは総徴税請負の上納金から差し引かれ、会社は税を集めて残りを配当に回す。ヴェルドはこれを「公債を政府の株式のようなものに変える」操作と呼びます。旧債権者は固定の利子の債券を、配当の変わる株に持ち替えました。株価が高いほど借換は国に有利で、逆に株価が下がれば分割払込の応募者は払込をやめて手を引けます。そのため、株価を高く保つことが体系の条件でした。
買い支えは1719年10月に5,000リーヴルで始まり、12月末の窓口で8億リーヴル分(発行株の16%)を買い、3月5日からは9,000で券と換えました。株が券になり、券は法貨で、正貨は禁じられている。券の残高は3月5日の10億8,990万から5月末の22億3,510万へ、3か月で倍になりました。
物価は同じ速さでは動いていません。パリの商品物価指数(ハミルトン)は1719年7月の116.1から1720年9月の203.7へ上がり、1720年1月だけで25% 上がっています。為替はもっと早く、1720年1月末にはロンドン建てのリーヴルが銀の平価を割り、3月・4月・7月の正貨切下げは紙のリーヴルの下落を後追いするものでした。
崩れた後の流れは逆向きです。券は年金・銀行口座・株に吸い上げられ、残りはヴィザで再び国債になりました。28億の券のうち22億が提出され、17億の債務に置き換わります。券の持ち主が1722年3月に手にしたのは、ヴェルドの計算で額面の約20% で、これは1720年11月初めの市場価格と同じ水準です。最後に誰が払ったか、と問えば、まず500リーヴルを超える券と株の持ち主、次に1719年から1720年に儲けた200人(1億9,000万の課税)、そして正貨を券に換えた人々でした。
ミシシッピの逸話の多くは、マッケイ『異常な大衆の妄想』(1841)第1章に集められました。せむし男が背中を書き物台に貸して稼いだ、貴婦人が馬車をわざと転覆させてローに会った、医師が患者の脈を取りながら「落ちる、落ちる」と株のことを口走った。マッケイは当時の回想録から取ったと言いながら、多くに出典を示していません。
「召使いや御者が株で成り上がった」。出どころはマッケイの34ページです。マッケイは、主人に頼まれて株を売りに行き、値上がりの差額を懐に入れて国を出た召使いと、馬車を持てるほど儲けて暇を取ったローの御者を、別々の逸話として伝え、料理女中や従僕も時に同じ幸運に恵まれた、と書きます。前の召使いの話は、自分の株で成功した話ではありません。どれにも典拠は示されていません。今回読んだ同時代の日記に、職業を特定した成り上がりの記事はありません。
「ミリオネールの語がこの時に生まれた」。出どころは未特定です。今回読んだ同時代の史料と研究には、この語の記述がありませんでした。辞典では、アカデミー・フランセーズの辞典(第9版)が語源を18世紀、ケベックの大学の辞典 Usito が1721年とします。これだけでは、ローの時代に誰かが初めて作った語とは確定できません。初出の年と作った人は、まだ分かっていません。
「銀行への殺到で圧死者が出た」。これは同時代の日記で確かめられます。ビュヴァは6月3日に男2人と女2人、7月5日に女3人と男2人、7月12日から13日に数人、7月17日に12人から15人が圧死したと記し、自分も17日に危うかったと書いています。マッケイの「15人」は同じ7月17日の出来事です。
「支払える額の3倍の券を刷った」。出どころは未特定です。マッケイは1720年5月初めの会議で券26億に対し国内の正貨は「その半分に満たない」と書き、これは2倍です。ヴェルドの表では5月31日の券の残高(発行から焼却分を引いた額)22億3,510万に対し、正貨の同時代推計は約12億でした。銀行の準備そのものの数は残っていません。
「フランスは100年間、紙幣を信じず、銀行という語を避けた」。ヴェルドは、紙幣による正貨の置換が「その後長く悪評の中にあり」、ローの評価が戻るのは1930年代だと書き、1790年のアッシニアを「二度目の実験」と呼びます。銀の法定価格が1726年から1795年まで動かなかったことも確かです。しかし「100年」「銀行という語」の出どころは分かっておらず、通説として紹介するにとどめます。
「世界初の紙幣とバブルの崩壊」。ヴェルドは先行する不換紙幣の実験を挙げています。分母の無い最上級は使いません。
「ローは国家を騙した詐欺師だった」。同時代の風刺歌は彼を「サタンの長男」と歌い、マッケイはその歌詞をオルレアン公妃の書簡から引いています。マッケイ自身は「悪党でも狂人でもなく、欺いたより欺かれた」と書き、ヴェルドは会社が実業を営み、ローが950万リーヴル以上をフランスの不動産に投じて出国したことを挙げます。判断は分かれたままです。
「召使いや御者が株で成り上がった」
裏付けなし出どころ: Mackay 1841 p.34(差額を持ち逃げした召使いと馬車を持ったローの御者は別の逸話。料理女中・従僕も。典拠なし)
『「ミリオネール」の語がこの時に生まれた』
争いあり出どころ: 教材 パリ、カンカンポワ街 の旧い本文。辞典の語源は18世紀(アカデミー・フランセーズ 第9版)・1721年(Usito)。この時に生まれたという出どころは分かっていない
Jean Buvat— Internet Archive のスキャン1720 François R. Velde 2003
「銀行への殺到で圧死者が出た」
一部は事実出どころ: 同時代の日記(Buvat 1720年6〜7月)→ Mackay
「支払える額の3倍の券を刷った」
裏付けなし出どころ: 教材 パリ、王立銀行。出どころは分かっていない(Mackay は2倍)
「ローは国家を騙した詐欺師だった」
争いあり出どころ: 同時代の風刺歌「サタンの長男」(Mackay がオルレアン公妃の書簡から引く)→ 通俗書
この事件から今に残るのは、金額より構造です。公債と徴税と紙幣を一つの会社に束ねる設計、株を持ち主の望みどおり法貨に換える窓口、正貨の保有を法で禁じる措置。この3つが同時に動いた時、株価と紙幣の価値は一つになり、片方の下落がもう片方を引き倒しました。
「紙幣増発は量的緩和と同じ」という同一視は、ここでは行いません。比べるなら、兌換の約束が何で裏付けられていたか、担保が何だったか、という構造に限ります。それは繰り返す構造のページと現代のお金の科目の仕事です。
チューリップ狂とは、同時代人も後世も並べて語りました。似ているのは、契約や株が実体から離れて値を持った点です。違うのは、球根の先渡し契約が酒場と公証人の外部市場にあり、ローの体系が国家の負債・徴税・紙幣と一体で国家の中枢にあった点です。規模も帰結も桁が違い、並べても「似ている」は物語の外形に留まります。
キッパー・ウント・ヴィッパー(1619〜23)とは、国家が自らの支払いのために貨幣の価値を動かした点で結べます。あちらは金属の減価、こちらは紙幣と株式による信用の操作で、比較は仕組みの型に限ります。
同じ1720年の南海泡沫は、同じ公債借換の型で、ガーバーはその節に「ローの影」と題を付けています。1790年のアッシニアは、ヴェルドが「二度目の実験」と呼ぶ不換紙幣です。どちらも登録簿にあるだけで、本文はまだありません。
図と本文の数が、どの資料のどこから来ているか。数値台帳・図の出どころ・資料の層・参考文献を、別のページにまとめました。