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The Monetary Movements of 1600–1621 in Holland and Germany
W. A. Shaw — Transactions of the Royal Historical Society, New Series 9 (1895), pp.189–213(Internet Archive の複製)
この資料が支える主張
- 帝国には全体を拘束する法令や布告を出す中央がなく、ドイツは管区(Kreis)や隣接諸侯の貨幣協定と試金集会(Münz-Probationstag)で対処した。史料は Hirsch『Reichs-Münz-Archiv』9 巻(pp.189–190)
- 額面で等価とされる二つの貨幣の含有銀が違えば、安い方を鋳造して高い方と交換し、良貨を溶かして再び安い貨幣に打つ循環で利益が出る。止まるのは相場改定で利幅が消えるか、良貨が尽きるときだけ(pp.191–192)
- 1592-06-10 ルドルフ 2 世がフランケン・バイエルン・シュヴァーベンの三管区へ勅書: 不正な鋳造、良貨の破砕・買い上げ・搬出・値上がり、外国の悪貨の流入、あらゆる商品と生活必需品の値上がり、貧しい庶民の圧迫を訴える(pp.202–203)
- 1595 年の試金で 3 クロイツァー・半バッツェン・クロイツァー貨は正規価値の 15〜25% 不足、1596 年には 43%。1596-08-08 皇帝の貨幣命令。1604 年に 3 クロイツァーと半バッツェンの平均で 18〜26% 不足。1607 年ニュルンベルクの試金でフランクフルト市の 6 クロイツァー貨が帝国基準に約 37% 不足、テシェン公 27%、プファルツ伯 30%、ゾルムス伯 31〜34%。1609 年には悪鋳者の一覧が 20 を超えた(pp.204–207)
- 1610〜1618 年は記録が乏しく、悪鋳は抑止されずに進んだ。1615 年フランケン管区が良貨のプレミアム引下げを試み、1618 年 5 月ニュルンベルクの上部三管区は「極端な悪鋳の発生を防ぐ」ことしか期待できないと述べ、1619 年の貨幣協定は 5 月の上ザクセン管区の一件だけ。三十年戦争の始まりが合図になった。以後は良貨の相場表と風刺歌のほかに記録が乏しい(p.207)
- 悪鋳の一般化は 1596 年ごろに始まり 1620〜23 年が頂点。原因は行政的分裂と、新大陸以後の貴金属の相対価値の変化。強い中央権力と造幣権の掌握があった国では破局を免れた。造幣権を持つ諸侯・都市は数え切れず、多くが造幣権を無責任な請負人に貸し出した(p.202)
- ブランデンブルク辺境伯領の良貨相場(Fidicin『Geschichte der Stadt Berlin』p.494): ドゥカート 1620 年 3 fl 12 kr → 1621 年 6 fl → 1622 年 16 fl。金グルデン 2 fl 20 kr → 5 fl → 12 fl。フィリップスターラー 2 fl 15 kr → 5 fl → 12 fl。ライヒスターラー 2 fl 4 kr → 4 fl → 10 fl。グルデンターラー 1 fl 50 kr → 3½ fl → 9 fl(p.208)
- ハンブルクのターラー相場(Soetbeer『Denkschrift über Hamburgs Münzverhältnisse』p.7。シリング・ペニヒ): 1614-12 37 s 6 d、1615-08 38 s 9 d、1616-01 41 s、1616-08 41 s、1617-04 40 s 6 d、1617-08 41 s 6 d、1617-09 42 s、1617-11 42 s、1618-07 42 s 6 d、1618-09 43 s、1618-11 44 s、1619-09 46 s 6 d、1619-10 48 s、1620-08 52 s、1621-02 53 s、1621-03 54 s 6 d、1621-05 54 s、1622-05 48 s(p.208)
- 帝国全体(Hirsch v.494)のグルデンターラーと金グルデンの相場表 1582〜1623 年: グルデンターラー 1582 年 1 fl 0 kr、1606 年 1 fl 4 kr、1609-06-15 1 fl 14 kr、1615-11-17 1 fl 30 kr、1618-05-15 1 fl 22 kr、1619-10-20 1 fl 36 kr、1619-12-23 1 fl 45 kr、1620-11-09 2 fl 0 kr、1621-02 2 fl 6 kr、1621-05-25 2 fl 24 kr、1621-08 3 fl 30 kr、1621-09 4 fl 0 kr、1621-10 4 fl 24 kr、1621-11 4 fl 45 kr、1621-12 5 fl 30 kr、1622-01-18 6 fl 30 kr、1622-02 8 fl 30 kr、1622-03 8 fl 30 kr、1622-03-12 5 fl 18 kr、1622-06-16 2 fl 52 kr、1623-04 1 fl 20 kr。金グルデンは 1582 年 1 fl 15 kr → 1622-02 12 fl 0 kr → 1623-04 1 fl 42 kr。表には 1621-05-31・07-20・07-29・08-10・12-20 と 1622-06-16 に同じ 2 fl 52 kr(金グルデン 3 fl 40 kr)が繰り返し現れるが、Shaw はその性格を説明していない(p.209)
- ハンブルク銀行(1619 年)とニュルンベルク銀行(1621 年)の設立は Kipper- und Wipper-Zeit の弊害に直接帰せられる。1622 年のマクデブルクの動揺については Sybel の Historische Zeitschrift 1866 を引く(p.208 と注 3)
- 時代の名は同時代の風刺歌に由来すると見られる。1621 年の歌『Wachtelgesang』は「うちの村では彼らをキッパーと呼び、隣のハンスはヴィッパーだと言う。古い良い金を探し出して造幣所へ運び、良い銀から四分の三以上を銅にする」と歌い、「ビールとパンを買うにもグロッシェンを探し回り、以前なら要らなかった 20% を上乗せしなければ手に入らない。ドライアーもプフェニヒも消えた」と続く(pp.210–212)。同時代の歌 3 篇(1621 年。フランクフルトで 1885 年に再版)と British Museum 所蔵の題名を列挙(pp.210–211)
- 1597 年 9 月フランクフルトの帝国委員は、ライン地方の悪いプフェニヒが「キリスト教徒とユダヤ人によって」大口の支払いに押し込まれ、良貨に替えるには 12〜13% を上乗せしなければならないと述べる(p.205)。1599 年の上ザクセン管区は、ライヒスターラーがシュレージエン・オーストリア経由でポーランドへ運ばれ、そこで悪いドゥトヒェンに打ち直されて戻ると記す(p.206 注)
- アムステルダム市は 1608-07-15 の条例で両替商と手形の使用を禁じ、1609-01-31 に為替銀行(Wisselbank)を設けたが、貨幣の値上がり(リクスダールダー 1606 年 2 fl 7 st → 1619 年 2 fl 10 st)は止まらず、1621 年に私的な銀行家を公認した(pp.193–198)
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