1960年
マドフの会社は、SEC に登録した証券会社だった
顧客のお金を運用する部門も持っていた
2006年5月19日、マドフは米国の証券取引委員会(SEC)での証言で、取引を記録しているという保管機関の口座番号を渡しました。SEC はその番号で問い合わせませんでした。

3分でわかる マドフ事件
横に送って見られます
1960年
マドフの会社は、SEC に登録した証券会社だった
顧客のお金を運用する部門も持っていた
2001年5月の記事
損をした月がほとんど無い、なめらかな利回りを見せていた
139か月で4か月
損失の月の数。いずれも55bp 以下
1990年代〜2008年
毎月の明細と確認書は、同じ会社の従業員が作っていた
運用する者と、資産を預かる者が同じ会社
実際の帳簿
株は買われず、お金は銀行口座に置かれていた
ほかの顧客への支払いに使われた
2005年1月31日
明細の株と、保管機関の記録の株は、額がまるで違った
約25億ドル ↔ 1,800万ドル未満
明細に書かれた額 ↔ 保管機関の口座にあった額
1992〜2008年
SEC に苦情は届いたが、外の記録で取引は確かめられなかった
苦情6件・検査3回・調査2回
2008年の後半
解約の請求が重なり、払うお金が無くなった
約70億ドル
解約の請求の合計
2008年12月11日〜
マドフは逮捕され、翌年に刑を言い渡された
150年
2009年6月29日に言い渡された刑
2026年8月21日現在
受託者がお金を取り戻し、17回に分けて顧客に配った
147億9,900万ドル
顧客への分配の合計(回収とその合意は154億8,500万ドル)
25億ドル
ある投資会社の明細に書かれていた株(2005年1月31日・約)
650億ドル
崩壊の時、明細に印刷されていた残高(約)。大部分は、はじめから無かった利益
あなたは2006年5月19日の SEC の担当者です。マドフは「取引は保管機関の自分の口座で清算している」と言い、その口座番号を渡しました。どうしますか?
選んでみてください
実際の SEC は、問い合わせませんでした。後に監察総監室が照会すると、明細の株は約25億ドル、保管機関の口座は1,800万ドル未満。崩壊の後、取引が無かったことは「電話1本」で、数日のうちに確かめられています。
実際の SEC は、こちらの道をたどりました。2006年8月にマドフが投資顧問として登録すると、調査は事実上終わり、2008年1月に正式に閉じられます。検査をしても不正が見つからなかったという事実は、勧誘に使われました。
明細は、取引をしたと言う側が自分で作っていました。確かめる先は、明細を作った者以外の記録です。その口座番号は、2006年5月19日にはもう SEC の手元にありました。
2006年5月19日(金)
2006年5月19日、マドフは SEC で任意の証言をしました。顧客から預かった資金で行っている取引は、証券の保管と決済を担う機関(DTC)にある自分の口座で清算し、分けて管理している。そう述べて、その口座番号を渡しました。SEC は、その番号で DTC に問い合わせませんでした。
問い合わせていたら何が分かったのか。後に SEC の監察総監室(OIG)が、その照会を行っています。2005年1月31日、顧客の資金を集めてマドフに預けていたある投資会社(フィーダーファンド)の明細には、S&P 100の株式が約25億ドル分あると書かれていました。同じ日、マドフの DTC の口座にあった同じ種類の株式は、1,800万ドル未満でした。
崩壊の後、取引が無かったことは「DTC への電話一本」で、数日のうちに確かめられています。では、それまで何が確かめられていなかったのか。顧客の側から見えていたものから、たどります。
1990年代〜2008年
マドフの会社(BLMIS)は1960年に設立された、SEC に登録した証券会社でした。自分の資金で売買する部門、売り買いの注文をつなぐ部門、そして顧客の資金を運用する投資助言の部門を持っていました。本人は、証券業界の自主規制団体 NASD の副会長や、NASDAQ の理事も務めています。
顧客には、運用の方法がこう説明されていました。S&P 100の値動きに合わせた数十の銘柄を持ち、ときに国債へ退き、オプションで損を限る。2001年5月の業界誌の記事は、過去139か月のうち損失の月は4か月だけで、いずれも55bp 以下だったと書いています。
顧客の手元には、毎月の明細と、取引ごとの確認書が紙で届きました。オンラインで口座を見る仕組みはありません。フィーダーファンドを通じて預けた人には、資金がマドフの会社に渡っていることさえ伝えられていないことがありました。
主な流れを簡略化した図です。フィーダーファンドを通さず、直接預けた顧客もいました。
この図で分かること顧客に届く明細と確認書が、資金を運用する会社自身の手で作られ、外の記録と突き合わされない道筋だったことが分かります。
同じ時期の、実際の帳簿
実際には、顧客の資金は証券に投じられていませんでした。銀行(Chase Manhattan)の口座に置かれ、ほかの顧客の解約と、利益として払う分に充てられていました。2002年から2008年には、2億5,000万ドルを超える額がロンドンを経由して自己売買の部門へ移され、本人と家族の支出にも使われています。
それが長く続いたのは、確かめる道筋が内側で閉じていたからです。運用する者と、資産を預かる者が同じ会社でした。明細と確認書は、その会社の従業員が作っていました。顧客に送り、SEC にも出していた監査済みの財務諸表も偽物でした。本人も答弁で、書類を受け取った側がそこから偽と知る方法は無かったと認めています。
いつ始まったのかは、記録によって違います。本人は答弁で「記憶では1990年代初め」と述べました。保護観察局の報告は「少なくとも1980年代」、判事は「それ以前に始まったのは明らか」としています。政府は後に、本人が1970年代と述べていたことを挙げました。本人の供述は場面によって変わり、法廷会計士の報告は、1970年代までさかのぼっても取引の証拠が無いとしています。
1992年〜2008年
「誰も気づかなかった」わけではありません。SEC には1992年6月から2008年12月までに、実質的な苦情が6件、2001年には2本の記事が届き、SEC は3回の検査と2回の調査を行いました。SEC は第三者への照会も一部行っていました。NASD には、ある日にマドフがオプションの持ち高を持っていたかを問い合わせ、「その日に持ち高は無い」という回答を受けています。マドフが取引の決済に使っていると言った金融機関からは、「その期間に取引は無い」という回答が届きました。しかし、どちらの回答も追究されず、欧州の取引相手に宛てた書簡は下書きまでして送られませんでした。SEC の監察総監室は、SEC が独立の第三者を通じてマドフの取引を確かめたことは一度もない、と結論しています。
最初の機会は1992年でした。SEC の検査官は、マドフの株式の記録を DTC の明細と突き合わせ、「完全に一致」と結論しています。ただし、その DTC の明細はマドフ本人から受け取ったものでした。後の SEC の訴状は、このとき偽の DTC の報告書が作られたと書いています。
1992年6月
投資会社 Avellino & Bienes の顧客が SEC に苦情
なぜ重要かSEC は同社に返金させたが、返金の原資をたどらなかった
U.S. Securities and Exchange Commission, Office of Inspector General 2009
1992年11月13日
SEC の検査官が、マドフの株式の記録を DTC の明細と突き合わせ「完全に一致」
なぜ重要かその明細はマドフ本人から受け取ったものだった
U.S. Securities and Exchange Commission, Office of Inspector General 2009
2000年5月
ボストンの申立人が SEC に8ページの申立て
なぜ重要か説明された戦略ではその利回りは出せない、という指摘
U.S. Securities and Exchange Commission, Office of Inspector General 2009
2001年5月
業界誌2誌が、一貫した利回りと秘密主義を記事にする
なぜ重要か公開の場での疑問
U.S. Securities and Exchange Commission, Office of Inspector General 2009
2005年10月
同じ申立人の3度目の申立て「世界最大のヘッジファンドは詐欺」
なぜ重要か約30の赤信号を挙げた
U.S. Securities and Exchange Commission, Office of Inspector General 2009
2006年5月19日
マドフが証言で DTC の口座番号を渡す
なぜ重要かSEC は DTC に照会しなかった
U.S. Securities and Exchange Commission, Office of Inspector General 2009
2006年8月
マドフが投資顧問として登録
なぜ重要かSEC の調査は事実上終わる
U.S. Securities and Exchange Commission, Office of Inspector General 2009
2008年1月
SEC の調査が正式に閉じられる
なぜ重要か登録の後、検査は行われなかった
U.S. Securities and Exchange Commission, Office of Inspector General 2009
この図で分かること警告が1992年から何度も届いていたことと、どの場面でも第三者の記録で取引を確かめなかったことが分かります。
2006年8月、マドフが投資顧問として登録すると、調査は事実上終わり、18か月後の2008年1月に正式に閉じられました。登録の後、検査は行われていません。SEC が検査をして不正を見つけなかったという事実は、投資家を安心させ、本人はそれを勧誘に使いました。
2008年12月
2008年の後半、顧客からの解約の請求は合わせて約70億ドルに達しました。払う元手は、新しく預けられる資金だけです。判事は、景気の転換で解約に応じられなくなったと認めています。ただし、損は相場の下落から生まれたのではありません。証券は、はじめから買われていませんでした。
12月10日、マドフは家族に、これは「一つの大きな嘘」で、「基本的に巨大なポンジ・スキーム」だと告げました。翌12月11日、FBI が面談して逮捕します。机には、従業員や友人、家族に宛てた署名済みの小切手が100枚、1億7,300万ドル分ありました。同じ日、SEC が提訴しています。
被害はいくらだったのか
この事件には「被害総額650億ドル」という言い方がよくついて回ります。けれども650億ドルは、崩壊の時に顧客の明細に印刷されていた残高の合計で、その残高の大部分は、はじめから無かった利益です。同じ事件に、物差しの違う数が少なくとも四つあります。
詐欺の全期間
主口座への流入 約1,700億ドル
なぜ重要か預けられた額の合計。引き出された額を差し引いていない
U.S. Attorney's Office, Southern District of New York 2020 p.26(PSR ¶16(o))
崩壊時(2008年12月)
明細上の残高 約650億ドル
なぜ重要か明細に印刷されていた架空の残高の合計。よく「被害総額」と言い換えられる数
U.S. Attorney's Office, Southern District of New York 2020 p.26(PSR ¶35, 62)
量刑の前(2009年6月)
判明した損失130億ドル超・少なくとも1,341口座
なぜ重要か元本の実際の損。フィーダーファンド経由の損失を含まない
U.S. Attorney's Office, Southern District of New York 2020 p.5
2026年8月21日現在
受託者が認めた請求203億1,500万ドル
なぜ重要か預けた現金から引き出した額を引いた計算で、認められた請求の合計
Irving H. Picard, SIPA Trustee for the liquidation of BLMIS ページの冒頭
四つは足したり引いたりできません。数える対象と時点がそれぞれ違います。
この図で分かること「被害額」と呼ばれる数が、流入・明細の残高・判明した損失・認容された請求という、物差しの違う四つに分かれることが分かります。
どの数も、ほかの数の言い換えではありません。判事は、本人が650億ドルも130億ドルも争ったことを記録し、そのうえで「どの物差しでも前例がない」と述べています。
2009年〜2026年8月
2009年3月12日、マドフは司法取引なしで11の訴因すべてに有罪を認め、6月29日に150年の刑を言い渡されました。本人は一人でやったと主張しましたが、ほかに14人の従業員や関係者が有罪になっています。
損を負ったのは、裕福な投資家だけではありません。被害者の一覧には、労働組合の年金基金、慈善財団、個人の信託が並び、判事は退職者、中流の家庭、自動車整備士、86歳の元学校事務員を挙げています。
清算を担う受託者は、顧客が取り戻せる額を「預けた現金から、引き出した額を引いたもの」で計算し、明細の残高は架空として退けました。2010年3月1日、破産裁判所はこの計算を認めています。2026年8月21日現在、回収とその合意は154億8,500万ドル、顧客への分配は17回で147億9,900万ドルです。
17回の按分の中間分配。第2回(33.556%)が最大。日付は受託者のページが記す開始日(第4・5・7〜12・17回)と SIPC の発表一覧(第1〜3・6・13〜16回)。
この図で分かること顧客への分配が17回に分かれ、2012年の第2回が最も大きかったことが分かります。
出所: Irving H. Picard, SIPA Trustee for the liquidation of BLMIS ページの冒頭(分配の一覧)
2006年5月19日に戻る
冒頭の問いに戻ります。明細があっても、何を確かめるべきだったのか。確かめられていなかったのは、取引が実際にあったかどうかでした。そして明細は、取引をしたと言う側が自分で作っていました。確かめる先は、明細を作った者以外の帳簿、つまり資産を預かる機関、決済の機関、独立した監査人の記録です。
2006年5月19日、その帳簿の口座番号は、すでに SEC の手元にありました。
この図で分かること明細が内側で作られ、外の記録で確かめられないまま続き、崩れて清算されるまでを、一続きでたどれます。
ここから先は、もとの教材の本文・年表・図・研究者の見方を、省かずに読めます。見出しを押すと開きます。
1960年設立の登録ブローカー・ディーラーの投資助言部門が、顧客の資金を証券に投じず銀行口座に置き、他の顧客への支払いに充てていた。偽の月次明細と取引確認書、運用者と保管者の同一、SEC へ出した偽の監査済み財務諸表がそれを支え、2008年12月11日に本人の告白で終わった。数は「流入額」「明細上の残高」「判明した損失」「認容された請求」の四つの物差しで分けて読む。
もとの問い取引明細があっても、何を確かめるべきだったのか。
1960年、バーナード・L・マドフはニューヨークで証券会社を開き、SEC に登録したブローカー・ディーラーとして自己売買とマーケットメイクを営みました。2008年12月には、ニューヨークに約200人、ロンドンの関連会社に20人から25人を雇う会社になっています。三つ目の部門が投資助言で、1980年代半ば以降は他の部門と別の階で運営されました。顧客に説明した運用は「スプリット・ストライク・コンバージョン戦略」と呼ばれます。S&P 100の値動きに合わせて選んだ数十の銘柄を買い、時に国債へ退避し、オプションで損失を限る、という説明で、安定した正の年率が約束されました。2006年に投資顧問として登録した後は、報酬は売買1株につき0.04ドルの委託手数料だけだと称しています。2001年5月の業界誌は、過去139か月のうち損失の月は4か月だけで、その損失も0.55% を超えず、月1.5% 強、年15% 前後の利回りが続いていると書きました。
2009年3月12日の答弁で、本人はこう述べています。顧客の資金は約束した証券に投じられず、チェース・マンハッタン銀行の口座に置かれた。顧客が利益の受け取りや元本の解約を望むと、その顧客や他の顧客の金をその口座から払った。顧客に送った取引確認書と口座明細は、行われなかった取引と存在しない持ち高を映しており、受け取った側が書類を見て偽と知る方法は無かった、と。量刑前調査報告書(PSR)は仕組みの要を四つ挙げます。運用者と保管者が同じ会社で、独立の保管者が偽の取引を見つける可能性を消していたこと。従業員が偽の月次明細と取引確認書を作っていたこと。貸借対照表や損益計算書を含む偽の監査済み財務諸表を顧客に送り、SEC にも提出していたこと。そして、出資したファンドの運用者に、BLMIS が運用者であることを顧客へ告げさせなかったことです。顧客はオンラインで口座を見ることができず、紙の確認書が届きました。
いつ始まったかは、記録の中で食い違います。本人は答弁で「記憶では1990年代の初め」と述べました。PSR は「少なくとも1980年代」と書き、判事は量刑で「それより前に始まったのは明らか」と述べています。2020年の政府文書は、2008年12月の面談で本人が1970年代と述べたこと、従業員が1970年代初めから偽の遡及取引を作ったと公判で証言したこと、法廷会計士が1970年代まで遡って取引の証拠が無いと報告したことを挙げます。記録によって年が違い、どれが正しいかは決められません。
SEC には、1992年6月から2008年12月までに6件の実質的な苦情が届いていました。最初は1992年、顧客の資金をすべてマドフに預けていた投資会社 Avellino & Bienes の顧客からで、「100% 安全」で一貫した高利回りという説明が問題になりました。SEC は同社を無登録の証券の販売で提訴して顧客へ返金させましたが、返金の原資がどこから来たかは辿らず、マドフの検査では、証券保管機関(DTC)の記録をマドフ本人から受け取り、会社の株式記録と「完全に一致した」と結論しています。2000年5月、2001年3月、2005年10月にはボストンの一人の申立人が、利回りが説明どおりの戦略では出せないことを数字で示し、2005年版は「世界最大のヘッジファンドは詐欺」と題して約30の赤信号を挙げました。2001年5月には業界誌と金融週刊誌が同じ疑問を記事にし、2003年5月にはヘッジファンドの運用者が、オプションの出来高が市場に見えないと申し立てています。2004年4月には別の登録業者の内部メールが見つかり、そこにはマドフがオプションを取引しているはずがない理由が段階を追って書かれていました。
検査と調査は5回行われました。第三者への照会も試みられましたが(NASD への持ち高の問い合わせ、清算機関への取引記録の請求)、「持ち高は無い」「取引は無い」という回答を受けても追究されず、監察総監室は、独立の第三者を通じて取引を確かめたことは一度もない、と結論しています。2006年5月19日、マドフは弁護士なしで任意に証言し、助言口座の取引は DTC の自分の口座で清算され、分別されていると述べて、口座番号を渡しています。本人は後に監察総監室に「月曜の朝に DTC へ電話して終わりだと思った」と語りました。電話はかかりませんでした。2006年8月にマドフが投資顧問として登録すると調査は事実上終わり、2008年1月に正式に閉じられます。登録後の検査は行われていません。
2008年の後半、解約の請求が合計約70億ドルに達しました。12月9日に弟へ、10日に息子たちへ、投資助言部門は「一つの大きな嘘」で「基本的に巨大なポンジ・スキーム」だと告げます。11日、FBI の捜査官が自宅で面談し、本人は支払不能で無実の説明は無いと認めて逮捕されました。机には従業員・友人・家族宛ての署名済み小切手100枚、合計1億7,300万ドル分がありました。同じ日に SEC が民事で提訴して資産凍結を求め、SIPA(証券投資者保護法)の清算もこの日を基準日に始まります。2009年3月12日、司法取引なしで11の訴因に有罪を認め、6月29日、連邦地裁は150年の刑を言い渡しました。訴因1・3・4・5・6・10に各20年、2・8・9・11に各5年、7に10年、すべて連続で、1,800か月です。判事は、保護観察局が50年を勧告し、弁護人が12年を求めたことを退け、150年が象徴に留まるとしても象徴は重要だと述べました。
動いたのは現金だけです。顧客が預けた現金は銀行口座に入り、別の顧客の解約と「利益」の支払いに出ていきました。証券は買われていません。詐欺の期間に主口座へ流入した額は約1,700億ドルで、判事はこの数を本人が認めたと記録しています。同じ口座から、2002年から2008年に2億5,000万ドル超がロンドンの関連会社を経由して自己売買とマーケットメイクの部門へ移され、本人と家族の支出(ヨット2隻1,150万ドル、住宅購入への貸付650万ドル、カントリークラブ4口95万ドルなど)にも使われました。
この事件の数は四つの物差しで読みます。第一に流入額、約1,700億ドル。第二に崩壊の時点で顧客に示していた残高、約650億ドル。これは明細に印刷された数で、裏に証券はありません。第三に判明した損失。量刑時の PSR は少なくとも1,341口座、合計130億ドル超(弁護人は13,226,000,000ドルと読み上げました)で、判事はこの数がフィーダーファンド経由の損失を含まないと注記しています。第四に受託者が認めた請求の総額で、2020年2月に194億ドル超、2026年8月21日現在で203億1,500万ドルです。「500億」は本人が息子たちに告げた数で、本人は後に「元本ではなく利益」だと述べました。
回収は、SIPA 受託者の取消訴訟と和解で進みました。受託者は顧客の取り分(net equity)を、預けた現金から引き出した額を差し引いた実額で計算し、2008年11月の最終明細の残高は架空として退けています。破産裁判所は2010年3月1日にこれを認め、「架空の利益を払い戻す1ドルは、実際に投じられた金の請求に使えなくなる1ドル」と書きました。2026年8月21日現在、回収と回収の合意は154億8,500万ドル、顧客基金からの分配は147億9,900万ドルで、17回の按分の中間分配のうち2012年の第2回(33.556%、67億3,300万ドル)が最大です。SIPC は認容された請求1件につき50万ドルを上限に前払いし、約8億5,090万ドルをコミットしています。量刑の日に弁護人が読み上げた受託者の回収額は12億2,500万ドルでした。
「被害総額650億ドル」。650億は、崩壊の時点で顧客の明細に印刷されていた残高の合計です。政府文書は「投資家に約650億ドルの資産があると偽って伝えていた」と書き、判事は本人が650億も130億も争ったと記録しました。元本の実損は量刑時に130億ドル超、認容された請求は2026年で203億1,500万ドルです。650億の出どころが PSR の数であることまでは確かめられ、それを「被害総額」と呼ぶ言い換えの出どころは分かっていません。
「誰も気づかなかった」。1992年以降、SEC には6件の苦情と2本の記事が届き、民間の複数の主体が同じ赤信号から投資を見送っていました。気づいた人はいました。確かめる手続が動かなかったことと、気づかれなかったことは別です。OIG は、SEC が検査したという事実がかえって投資家を安心させ、本人がそれを勧誘に使ったと記しています。
「欲深い富裕層だけが被害者」。PSR の被害者一覧には労働組合の年金基金、慈善財団、個人の信託が並び、判事は、退職金と社会保障で暮らす高齢者、子どもを大学に通わせる中流の家庭、退職した森林作業員、矯正官、自動車整備士、理学療法士、86歳で夫を亡くした元学校事務員を挙げました。本人は服役中に、顧客は口座を開くときに自らを「洗練された」投資家だと書面で認めていた、と述べていますが、政府文書はそれを責任転嫁と呼びます。
「一人でやった」。本人は共謀罪ではなく実質犯だけに答弁し、長く一人でやったと主張しました。政府文書によれば、他に14人の BLMIS 従業員と関係者が有罪となり、うち5人は公判で有罪です。会計士の作業書類は、監査が一切行われていなかったことを数時間で示しました。
「相場の下落で損失が出た」。本人は2009年の面談で「不況で市場が無かった」と説明しましたが、答弁では証券を買っていなかったと認めています。買っていない証券は値下がりしません。2008年の解約請求が止めたのは支払いであって、運用ではありませんでした。
「被害総額650億ドル」
一部は事実出どころ: 報道。数の出所は PSR ¶35, 62(顧客へ示していた残高)
U.S. Attorney's Office, Southern District of New York 2020 U.S. District Court, Southern District of New York— U.S. Attorney's Office SDNY 掲載2009
「欲深い富裕層だけが被害者」
裏付けなし出どころ: 通俗。本人の2011年以降の発言
U.S. Attorney's Office, Southern District of New York 2020 U.S. District Court, Southern District of New York— U.S. Attorney's Office SDNY 掲載2009
「一人でやった」
裏付けなし出どころ: 本人の主張
U.S. Attorney's Office, Southern District of New York 2020 U.S. Securities and Exchange Commission, Office of Inspector General 2009
「相場の下落で損失が出た」
裏付けなし出どころ: 本人の2009年の面談
U.S. Attorney's Office, Southern District of New York 2020 U.S. District Court, Southern District of New York— U.S. Attorney's Office SDNY 掲載2009
この事件から残るのは、金額ではなく確かめ方です。明細は発行者が作ります。明細の裏に資産があるかは、発行者以外の帳簿(保管機関、清算機関、独立の監査人)に当たらないと分かりません。NOMISMA の現代のお金の科目では、国債が中央銀行の帳簿の中で口座から口座へ移る仕組みと、ステーブルコインの発行者が準備の内訳と第三者の保証を開示するページを読みます。読む順序は同じです。誰の帳簿に、誰が確かめて、いつの数か。
ここで扱うのは記録の読み方で、投資の助言ではありません。手口は変わり、記録の確かめ方は変わりません。
この事件は「バブル」ではありません。値段は上がっていません。上がったのは明細の数だけで、その数を支える取引はありませんでした。チューリップの球根も鉄道の株も、同じ年に露見した信用危機も、実在の資産や契約の値段が動いた出来事で、本件とは型が違います。並べると外形の大きさだけが先に立ちます。
並べられるのは、支払いの原資という一つの問いです。ジョン・ローの体系では、株の買い支えと券の増発が互いを支え、既存の持ち主への支払いが新しい券に依存しました。ただしローの体系は公開の制度改革で、帳簿は偽ではありません。型の名の由来であるチャールズ・ポンジの事件は、登録簿にあるだけで本文はまだありません。
図と本文の数が、どの資料のどこから来ているか。数値台帳・図の出どころ・資料の層・参考文献を、別のページにまとめました。