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日経平均が38,915円で一年を終えた日

1989年12月29日、東京の株式市場はその年の最後の取引を終え、日経平均の終値は38,915円でした。これが頂点です。けれども、この事件の中心は株ではなく土地でした。

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3分でわかる 日本のバブル

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横に送って見られます

1 / 9

1985年9月

5つの国の話し合いの後、円が高くなった

急な円高で、不況になった

2 / 9

1986年1月〜1987年2月

お金を借りる金利が、5回下がった

5.0% → 2.5%

公定歩合。2.5% は2年3か月続いた

3 / 9

1987年7月

土地の値段が、1年で大きく上がった

76.1%

東京圏の商業地の、1年前からの上がり方

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1980年代後半

土地を担保に、銀行が貸した。土地が上がると、借りられる額も増えた

46兆9,000億円

1989年12月末、銀行から不動産業への貸出

5 / 9

1989年12月29日

株の値段が頂点に。「土地は下がらない」が当たり前だった

38,915円

その年最後の日の日経平均

6 / 9

1989年5月〜1990年3月

金利が上がり、国は土地へのお金の貸し方を抑えた

2.5% → 5.25%

公定歩合(1990年3月20日)。その1週間後に「総量規制」の通達

7 / 9

1990〜1992年

株、土地、景気の順に下がっていった

14,309円

1992年8月の日経平均。頂点から60% を超える下落

8 / 9

1993年3月期〜

返ってこない貸出が増え、銀行が大きな損を負った

107兆2,204億円

銀行が損として処理した額の累計(2020年3月期まで)

9 / 9

1991〜2005年

三大都市圏の土地の値段は、15年続けて下がった

各年7月1日時点の、1年前とのくらべ

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2.5%

お金を借りる金利(公定歩合)。この低さが2年3か月続いた

1986年1月より前5.0%
1987年2月〜2.5%
1990年8月6.0%

38,915円

1989年12月29日の日経平均。ここが頂点だった

1985年9月12,598円
1989年12月29日38,915円
1992年8月14,309円

107兆円

銀行が損として処理した額の累計(1992年度以降・2020年3月期まで)

1993年3月期1兆6,398億円
2020年3月期107兆2,204億円

3あなたならどうする?

1988年、あなたは会社を営み、土地を持っています。銀行から「その土地を担保に、もっと貸せます」と言われました。土地の値段は上がり続けています。どうしますか?

選んでみてください

借りて、次の土地を買う

当時、多くの会社がそうしました。買った土地がまた担保になり、さらに借りられたからです。けれども1990年に地価が頂点を付けた後、土地は下がり続けます。借金は残ったまま担保の値が下がり、借りた会社と貸した銀行が同時に傷みました。

借りずに、今の土地を持ち続ける

当時の土地は、持っている間の税が軽く、持つほど得になる仕組みでした。けれども、その土地の値段も1991年から15年続けて下がります。借金をしていなければ、値下がりに返済の重さが重なることはありませんでした。

土地を売って、お金に換える

当時、土地は売ると重く税がかかりました。そのため売りに出る土地は少なく、それがまた値段を押し上げていました。売る人が少なかったこと自体が、この事件の1部です。

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日本の資産バブル(1980年代) / 1987〜1991年 / 日本 / 熱狂・バブル

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1989年12月29日(金) 東京

頂点の日

1989年12月29日は、その年の東京の株式市場の最後の取引日、大納会でした。日経平均の終値は38,915円。1985年9月、プラザ合意の時の12,598円から3.1倍になり、この1年だけで29% 上がっていました。

この値が頂点でした。年が明けると株は下がり始め、1992年8月には14,309円になります。頂点から60% を超える下落です。

けれども、この事件の中心は株ではありません。土地です。六大都市の市街地価格指数は株より遅れて1990年9月に頂点を付け、その値は1985年9月の約4倍でした。そして、その土地の値段を担保にして、銀行の貸出が伸びていました。

当時、地価は上がり続ける、少なくとも下がらない、という考えが、取引の暗黙の前提になっていました。日本銀行は1990年4月の調査月報で、これを「土地神話」と呼んでいます。後から見れば崩れたこの前提は、その時、なぜ合理的に聞こえたのか。答えを探して、1985年に戻ります。

1985年9月〜1987年2月

お金が安くなった

1985年9月22日、ニューヨークで5か国の蔵相と中央銀行総裁が声明を出しました。プラザ合意です。米国の経常赤字と、日本・ドイツの経常黒字を、不安定化の恐れがある不均衡と呼び、ドル以外の主な通貨がさらに上がることが望ましい、と書いています。円は高くなりました。

急な円高による不況に対処するため、日本銀行は1986年1月30日から1987年2月23日までに、公定歩合を5回下げました。5.0% から、2.5% へ。5回のうち日本銀行が単独で決めたのは最初の1回だけで、残りの4回は、米国やドイツの引下げや各国との合意と同じ日でした。2.5% は1989年5月31日まで、2年3か月続きます。

金利が下がると、なぜ資産の値段が上がるのか。日本銀行金融研究所の翁邦雄・白川方明・白塚重典(2001)は、道筋を三つに分けています。お金を借りる費用が下がること。株が上がり、会社が市場から資金を集めやすくなること。そして、地価と株価が上がって担保の値が高まり、借りられる額が広がること。三つ目が、次の章の主役です。

1986年7月〜1987年7月 東京圏

土地の値が上がると、借りられる額が増える

国土交通省の地価の表で、1987年7月1日時点の東京圏の商業地は、1年前より76.1% 上がっていました。住宅地なども含めた全用途では57.5% です。翌1988年には大阪圏と名古屋圏に広がりました。

図1土地の値段と銀行の貸出の輪
  1. 地価上がる
  2. 担保の評価土地の値に合わせて上がる
  3. 銀行の貸出同じ土地を担保に、より多く貸せるようになる
  4. 借りたお金次の土地の購入に向かう
  5. 地価さらに上がる(はじめに戻る)

主な流れを簡略化した図です。株の上昇や、会社が市場で資金を集める道筋も同時に働いていました。

この図で分かること土地の値段と銀行の貸出が、互いを押し上げる輪になっていた仕組みが分かります。

銀行の側にも、この貸出に向かう事情がありました。1985年から預金金利の自由化が進み、大きな会社は銀行から借りずに、株や社債で市場から直接お金を集めるようになりました。この二つが、銀行を不動産を担保にした中小企業への貸出と、不動産関連の貸出に向かわせた、と翁ほかは整理しています。

1989年12月末、全国銀行の不動産業向けの融資は46兆9,000億円、建設業向けは約20兆円でした。ノンバンクを含む三業種で、全国銀行の融資全体の約3割にあたります。

図2地価の変動率(三大都市圏・全用途・各年7月1日時点の前年比)
  1. 1985年7月1日2.9%
  2. 1986年7月1日7.1%
  3. 1987年7月1日34.4%
  4. 1988年7月1日22.4%
  5. 1989年7月1日13.9%
  6. 1990年7月1日21.5%
  7. 1991年7月1日-3.2%
  8. 1992年7月1日-14.2%
  9. 1993年7月1日-12.7%
  10. 1994年7月1日-7.1%
  11. 1995年7月1日-6.0%
  12. 1996年7月1日-6.5%

国土交通省の表の、各年7月1日時点の前年7月1日に対する平均変動率(統計の名は表のページに書かれていない)。1991年から2005年まで15年連続で下落した。

この図で分かること7月1日時点の前年比で、地価の上がり方が1987年に急に大きくなり、1991年に下落へ転じたことが分かります。

出所: 国土交通省 土地・水資源局地価調査課 表(三大都市圏・全用途)

1987〜1989年

なぜ止めにくかったのか

地価と株が上がっていた間、物の値段は落ち着いていました。1988年の消費者物価の上昇は、年率0.7% です。物価を見張る中央銀行にとって、利上げを説得する材料になりませんでした。

日本銀行は1986年の夏から緩和の行き過ぎを案じ、1987年8月末には短い期間の市場金利を高めに誘導し始めます。その誘導は、1987年10月19日のブラックマンデーで中断されました。

引締めが遅れた背景として、翁ほかは、物価の安定のほかに、各国と政策を協調する約束、円高を避けたいこと、内需を広げて経常黒字を減らすという課題を挙げます。三重野元総裁は、利上げして内需を抑えることは国際公約に反すると見なされた、と振り返りました。これは日本銀行の側からの振り返りで、一つの立場として読む必要があります。

土地には、持ち続けるほど得になる仕組みもありました。持っている間の税は軽く、売れば重く課税されます。値上がりが見込めるなら、売らずに持つ方が得で、売りに出る土地が減ります。農地が宅地になる期待も、同じ向きに働きました。

そして経験がありました。翁ほかによれば、このときの地価の上がり方は、統計のある1950年代半ば以降で、実質の上昇率でも続いた長さでも最大でした。上がり続けた記憶と、持つほど得になる制度。「土地は下がらない」は、この二つの上に立っていました。

何が原因だったのかは、研究者の見方が分かれます。翁ほかは一つの原因を認めず、緩和は必要な条件だったが十分ではなく、早く引き締めても発生は防げず、崩壊が早まっただけだとします。バーナンキとガートラー(1999)は、1988年に金利を4% から8% に上げていれば防げたと試算しました。吉冨(1998)は不動産関連の貸出の増加に原因を求め、金融政策よりも健全性の規制を強めるべきだったとします。食い違っているのは、金利で防げたかどうかと、何を手当てすべきだったかの二点です。

1989年5月〜1991年12月

下がり始めた順番

利上げは1989年5月31日に始まりました。公定歩合は3.25%、その年の12月25日には4.25% になります。その4日後の大納会が、冒頭の38,915円です。

1990年3月20日、公定歩合は5.25% に上がりました。その1週間後の3月27日、大蔵省の銀行局が通達「土地関連融資の抑制について」を出します。不動産業向けの貸出の伸びを、貸出全体の伸び以下に抑えること。不動産業・建設業・ノンバンクへの融資の状況を、四半期ごとに報告すること。4月から実施され、国会では「総量規制」と呼ばれました。

「総量規制がバブルを潰した」という言い方があります。けれども順番を見ると、通達が出たのは株価の頂点の3か月後、公定歩合を上げた1週間後でした。翁ほかは、総量規制の導入はバブルの崩壊とほぼ同時だったと書き、地価が上がるという期待が強いときの総量規制には抜け穴ができる、と評価しています。崩壊の一因ではあっても、ただ一つの原因とは、資料からは言えません。

図3利上げから総量規制の解除まで
  1. 1989年5月31日

    公定歩合を3.25% に引き上げ(利上げの第1回)

    なぜ重要か2年3か月続いた2.5% が終わる

    日本銀行

  2. 1989年12月29日

    大納会。日経平均の終値38,915円

    なぜ重要か株価の頂点

    日本経済新聞社2011

  3. 1990年3月20日

    公定歩合5.25%

    なぜ重要か1ポイントの引上げ

    日本銀行

  4. 1990年3月27日

    大蔵省銀行局の通達「土地関連融資の抑制について」

    なぜ重要か株価の頂点の3か月後に出た

    国立国会図書館 国会会議録検索システム1990

  5. 1990年8月30日

    公定歩合6.0%

    なぜ重要か約1か月後に株価は頂点の半分に

    日本銀行

  6. 1990年9月

    六大都市の市街地価格指数が頂点

    なぜ重要か地価は株より遅れて頂点を付けた

    翁邦雄・白川方明・白塚重典2001

  7. 1991年1月25日

    総合土地政策推進要綱の閣議決定

    なぜ重要か目標の第一に「土地神話の打破」

    国立国会図書館 国会会議録検索システム1992

  8. 1991年2月

    景気の山

    なぜ重要か拡張は51か月続いた

    内閣府経済社会総合研究所

  9. 1991年12月

    総量規制の解除

    なぜ重要か臨時の地価調査で三大圏を中心に下落が顕著になった

    国立国会図書館 国会会議録検索システム1992

この図で分かること利上げ・株価の頂点・総量規制・地価の頂点・景気の山がどの順に来たかが分かり、「総量規制がバブルを潰した」という言い方を順番で確かめられます。

詳しく読む: 年表(42件)

崩れる順は、資産ごとに違いました。株は1989年末が頂点で、1990年8月の利上げの約1か月後には頂点の半分になります。六大都市の市街地価格指数の頂点は1990年9月。景気の山は1991年2月でした。三大都市圏の地価は、1991年7月1日時点で1年前より3.2% 下がり、1992年7月1日時点では14.2% 下がります。

1991年1月25日、政府が閣議決定した総合土地政策推進要綱は、土地政策の目標の第一に「土地神話の打破」を掲げました。六大都市の市街地価格指数は、その4か月前の1990年9月に頂点を付けていました。

1993年3月期〜2020年3月期

損を誰が負ったか

地価が下がると、土地を担保にした貸出のうち、返ってこないものが増えました。全国銀行が損として処理した額(不良債権処分損)は、1993年3月期の1兆6,398億円から集計が始まり、1996年3月期には1年で13兆3,692億円になります。

図4全国銀行の不良債権処分損の累計(1992年度以降)
  1. 1993年3月31日1.6
  2. 1994年3月31日5.5
  3. 1995年3月31日10.7
  4. 1996年3月31日24.1地域銀行を含む
  5. 1997年3月31日31.9
  6. 1998年3月31日45.1
  7. 1999年3月31日58.8
  8. 2000年3月31日65.7
  9. 2001年3月31日71.8
  10. 2002年3月31日81.5
  11. 2003年3月31日88.2
  12. 2004年3月31日93.6
  13. 2005年3月31日96.4
  14. 2008年3月31日99.0
  15. 2010年3月31日103.7
  16. 2015年3月31日105.9
  17. 2020年3月31日107.2

金融庁の表5の「4年度以降の累計」を1兆円単位に直した(億円 ÷ 10,000)。1995年3月期以前は都銀・長信銀・信託のみ、1996年3月期から地域銀行を含む。

この図で分かること地価の下落の後、銀行が損として処理した額が20年以上にわたって積み上がったことが分かります。

出所: 金融庁 監督局総務課監督調査室2020 表5「4年度以降の累計」

1998年10月の金融再生関連法は、公的資金の枠を60兆円、名目 GDP の12% と定めました。1992年度以降の処分損の累計は、2020年3月期で107兆2,204億円です。

なぜここまで長引いたのか。翁ほかは三つの道筋を挙げ、最も重いのは三つ目だとします。地価が下がると、貸した側と借りた側の資本が同時に削られ、貸出が縮むという道筋です。担保の値と借り手の稼ぎが同じ向きに動く貸出では、値が下がる局面で担保が担保として働きません。彼らはこれを「実質的に無担保」と書いています。

損を負ったのは、担保の土地を失った借り手、処分損を計上した銀行、そして公的資金の枠を用意した国です。

1989年12月29日に戻る

38,915円の日

冒頭の問いに戻ります。「土地は下がらない」は、なぜ合理的に聞こえたのか。土地は持つほど得になる制度の上にあり、統計のある時代で最も長く上がり続けていました。その土地を担保に銀行が貸し、借りたお金がまた土地に向かって、値を押し上げました。物価は落ち着いていて、金利を上げる理由を示しにくかった。一つひとつの判断には、それぞれの理由がありました。

三大都市圏の地価は、7月1日時点の前年比で、1991年から2005年まで15年続けて下がりました。「土地神話」という言葉が公文書に書かれたのは1990年4月です。神話は、神話だと名指しされた後に崩れていきました。

図538,915円の日から、さかのぼって見る
  1. 1985年9月プラザ合意。円高と不況への対処で、公定歩合は2.5% まで下がる
  2. 1987年7月東京圏の商業地が1年で76.1% 上がる。土地を担保にした貸出が伸びる
  3. 1987〜1989年物価は落ち着き、引締めは遅れる。持つほど得になる土地の制度
  4. 1989年12月29日日経平均38,915円。これが頂点
  5. 1990年3月27日総量規制の通達。株価の頂点の3か月後
  1. 1993年3月期〜不良債権の処分。2020年3月期までの累計107兆2,204億円

この図で分かること頂点の日に至るまでと、その後に起きたことを、もう一度一続きでたどれます。

最初の場面に戻る

担保の値が上がって貸出が増え、値が下がって貸し手と借り手が同時に傷む。この形は、のちの米国の世界金融危機にも現れます。ただし日本では、銀行の貸出と土地の担保が中心で、証券化や短い期間の借入の市場は主役ではありませんでした。崩れる速さも、日本は年の単位、米国は週の単位で違いました。

もっと詳しく

ここから先は、もとの教材の本文・年表・図・研究者の見方を、省かずに読めます。見出しを押すと開きます。

詳しく読む専門用語で読む要約

1985年9月のプラザ合意の後、公定歩合は1987年2月に2.5% まで下がり、2年3か月据え置かれた。株は1989年末に38,915円、地価は1990年に頂点を付け、1986年から1989年の株と土地の値上がりは名目 GDP の452% に達した。1989年5月からの利上げと1990年3月の融資規制の後、株・土地・景気の順に崩れ、銀行の不良債権の処分損は2020年3月期までの累計で107兆円になった。

もとの問いなぜ「土地は下がらない」が、合理的に聞こえたのか。

詳しく読む何が起きたか — 年表(42件)

1985年9月22日、ニューヨークで5か国の蔵相と中央銀行総裁が声明を出しました。米国の経常赤字と日本・ドイツの経常黒字を不安定化の恐れがある不均衡と呼び、為替相場がその是正に役割を果たすべきで、主要な非ドル通貨のさらなる秩序ある上昇が望ましい、と書いています。付属の文書で日本は「円相場に十分に配慮した弾力的な金融政策」と、消費者信用と住宅ローン市場の拡大による内需の刺激を約しました。急速な円高による不況に対処するため、日本銀行は1986年1月30日から1987年2月23日までに公定歩合を5回、合計2.5ポイント下げました。5.0% から4.5%、4.0%、3.5%、3.0%、そして2.5% です。5回のうち日本銀行の単独の判断は第1回だけで、第2回と第3回は米独の引下げと日を合わせ、第4回は宮沢・ベーカー共同声明、第5回はルーブル合意と同じ日でした。2.5% は1989年5月31日まで、2年3か月続きます。

地価は東京から動きました。国土交通省の地価の表で、1987年7月1日時点の東京圏の全用途は前年比57.5%、商業地は76.1% 上がっています(前年7月1日から)。翌1988年は大阪圏と名古屋圏に広がり、1990年には大阪圏が45.7%、全国でも13.7% 上がりました。景気は1986年11月を谷に上向き、1991年2月まで51か月の拡張が続きます。マネーサプライ(M2+CD)の前年比は1986年10〜12月期の8.3% を底に、1987年4〜6月期には10% を超えました。

株は1986年から上げ足を速め、1987年10月19日のブラックマンデーで一度沈んだ後、1989年12月29日の大納会に終値38,915円を付けます。プラザ合意の時の12,598円の3.1倍で、1989年だけで29% 上がりました。日本銀行は1986年の夏から緩和の行き過ぎを案じ、1987年8月末に短期市場の金利を高めに誘導しましたが、ブラックマンデーで中断します。消費者物価は1988年に年率0.7% で、利上げを説得する材料になりませんでした。

利上げは1989年5月31日に始まります。3.25%、10月11日に3.75%、12月25日に4.25%、1990年3月20日に5.25%、8月30日に6.0%。同時に窓口指導で「量・質両面で規律ある貸出」を求めました。1990年3月27日、大蔵省銀行局は通達「土地関連融資の抑制について」を出します。内容は三つで、土地関連融資を融資全体に対して均衡のとれた水準にすることが望ましいという基本の立場、当面、公的な宅地開発機関向けを除いて不動産業向け貸出の増勢を総貸出の増勢以下に抑えること、そして不動産業・建設業・ノンバンクへの融資の実行状況を四半期ごとに報告すること。4月から実施され、国会では「総量規制」と呼ばれました。

崩れる順は資産ごとに違いました。株は1989年末が頂点で、1990年8月の利上げの約1か月後には頂点の半分になります。六大都市の市街地価格指数は1990年9月に1985年9月の約4倍で頂点を付け、同じ地価の表は1991年7月1日時点で三大都市圏が前年比3.2% の下落、1992年7月1日時点で14.2% の下落を示しました。さかのぼって1990年4月、日本銀行の調査月報は、地価は上がり続ける、少なくとも下がらないという「土地神話」を経済主体が暗黙の前提にしていると書いています。1991年1月25日に閣議決定された総合土地政策推進要綱は、土地政策の目標の第一に「土地神話の打破」を掲げました。

総量規制は1991年末に解かれます。判断の材料は、7月の地価調査と12月20日に公表された臨時の地価調査で三大圏を中心に下落が顕著になったこと、金融機関の融資の動向、住宅地の供給への支障でした。解除と同時に、地価が再び上がれば発動する仕組み(トリガー方式)が示されます。公定歩合は1991年7月1日の5.5% から下がり始め、1995年9月8日に0.5% になりました。景気の山は1991年2月、谷は1993年10月です。

払いは長く続きました。全国銀行の不良債権処分損は1993年3月期の1兆6,398億円から集計が始まり、1996年3月期に13兆3,692億円、1998年と1999年の3月期にもそれぞれ13兆円を超えます。1998年10月の金融再生関連法は公的資金の枠を60兆円、名目 GDP の12% と定めました。リスク管理債権の残高は2002年3月期の42兆280億円が表の中で最も大きく、1992年度以降の処分損の累計は2020年3月期で107兆2,204億円です。

出来事の順 出所: 日本銀行
  1. 1985
    • 9月22日プラザ合意(ニューヨーク)。非ドル通貨の秩序ある上昇が望ましいと声明。日本は「円相場に十分に配慮した弾力的な金融政策」を約す G5 財務大臣・中央銀行総裁1985
  2. 1986
    • 1月30日公定歩合5.0% → 4.5%(5回の引下げの第1回。日本銀行の単独の判断)
    • 3月10日公定歩合4.0%(米独の引下げと同日発表)
    • 4月21日公定歩合3.5%(米国の引下げと同日実施)
    • 11月景気の谷(第11循環の始まり) 内閣府経済社会総合研究所
    • 11月1日公定歩合3.0%(宮沢・ベーカー共同声明と同日)
  3. 1987
  4. 1988
  5. 1989
    • 4月1日消費税(3%)の導入 翁邦雄・白川方明・白塚重典2001
    • 5月31日公定歩合3.25%(引上げの第1回)。窓口指導で「量・質両面で規律ある貸出」を要請
    • 10月11日公定歩合3.75%
    • 12月25日公定歩合4.25%
    • 12月29日大納会。日経平均の終値38,915円(1989年の年間上昇率29%) 日本経済新聞社2011
  6. 1990
  7. 1991
  8. 1992
  9. 1993
  10. 1995
    • 9月8日公定歩合0.5%
  11. 1996
  12. 1998
  13. 2002
  14. 2006
  15. 2020
詳しく読むお金はどう動いたか — 数の推移の図(4枚)

動いたのは土地の値段と、土地を担保にした信用です。株と土地のキャピタルゲインは1986年から1989年の4年で名目 GDP の452% に達し、1990年から1993年の損失は159% でした。列島改造の1972〜73年が193% です。国民総資産は1985年末の4,377兆円から1990年末の7,937兆円へ増え、名目 GDP の12.88倍から17.18倍になりました。そのうち土地等の占める割合は24.3% から31.2% に上がっています。増えたのは土地の面積ではなく土地に付く値段で、その値段を担保に貸出が伸びました。

誰が借りていたのか。1989年12月末、全国銀行の不動産業向け融資は46兆9,000億円、建設業向けは約20兆円で、ノンバンクを含む三業種への融資は融資全体の約3割にあたる、と銀行局長は国会で答えています。企業と家計の資金調達は借入だけでなく、時価発行増資・転換社債・ワラント債を合わせて1989年に前年比14% 近く伸びました。銀行の側では、預金金利の自由化が1985年から進み、大企業が資本市場で調達するようになったため、不動産を担保にした中小企業向けと不動産関連の貸出に向かいます。後に破綻した第二地方銀行7行は、1980年代前半から収益性が低く、80年代半ばから不動産関連の貸出を広げていました。

緩和が資産の値を押し上げる経路は三つあった、と翁・白川・白塚は整理します。投機の資金の調達費用が下がること、株高で資本市場の調達が楽になること、そして地価と株価の上昇が担保の価値を高め、借入の余地を広げることです。三つ目が土地の値段と信用を一つの輪にしました。地価が上がると担保が増え、貸出が増え、その資金が土地に向かって地価が上がる。1989年第4四半期、日本の銀行の国際貸出のシェアは41% で頂点を付けます。都市銀行・長期信用銀行・信託銀行の自己資本は、株の含み益と増資で1988年9月末の35兆円から1年で46兆円に増えました。

なぜ「土地は下がらない」が合理的に聞こえたのか。理由の一つは制度にあります。土地は保有への課税が軽く、売れば重く課税されるので、値上がりが見込めるときは持ち続ける方が得でした。農地が宅地に変わる期待も供給を抑えます。持ち主から見れば、上がる地価は制度が生む恩恵の現在価値で、その期待が地価をさらに押し上げました。1987年に保有2年以下の転売への重課が入り、1992年1月に地価税が施行されますが、それは地価が下がり始めた後です。もう一つは経験です。翁ほかによれば、この時の地価の上昇は統計のある1950年代半ば以降で、実質の上昇率でも期間の長さでも最も大きいものでした。上がり続けた記憶の上に、上がる制度が乗っていました。それを疑う言葉が公文書に現れるのは、1990年4月に日本銀行が「土地神話」を名指ししてからです。

崩れてからの流れは逆向きです。翁・白川・白塚は長い停滞を三つの経路で説明します。強気の期待の修正、バブル期の設備投資の経済価値の低下、そして地価の下落が貸し手と借り手の資本を削り、信用を縮めるバランスシートの修復で、三つ目が最も重い。担保の値と借り手の収益が同じ向きに動く貸出は、彼らの言葉では実質的に無担保です。最後に誰が払ったか、と問えば、担保を失った借り手、処分損を計上した銀行、そして1998年に60兆円の枠を用意した国です。実際に投入された額は、ここに挙げた資料からは確かめられません。処分損の累計107兆円は、貸した側の帳簿に残った土地の値段の跡です。

公定歩合(商業手形割引歩合)(%)03651983/104.51986/1433.543112.51987/23.251989/53.75104.25125.251990/3685.51991/75114.5123.751992/43.2572.51993/21.75911995/40.59
日本銀行の表の実施日ごとの水準。2.5% は1987年2月23日から1989年5月31日まで2年3か月続いた。 出所: 日本銀行 表
地価の対前年平均変動率(三大都市圏・全用途・各年7月1日時点)(%)017342.919857.1198634.4198722.4198813.9198921.51990-3.21991-14.21992-12.71993-7.11994-61995-6.51996
国土交通省の表の、各年7月1日時点の前年7月1日に対する平均変動率(統計の名は表のページに書かれていない)。1991年から2005年まで15年連続で下落した。 出所: 国土交通省 土地・水資源局地価調査課 表(三大都市圏・全用途)
国民総資産に占める土地等の構成比(%)0163126.1198026.7198126.5198225.5198324.4198424.3198526.3198629.4198728.9198829.4198931.2199028.7199126.6199225.1199323.91994
内閣府の長期経済統計(1990年基準・93SNA の系列、年末)。1980年末は基準改定後の値。1994年末で基準が変わるため、それ以降は描かない。 出所: 内閣府 国民経済計算(5/5)
全国銀行の不良債権処分損の累計(1992年度以降)(兆円)0541071.641993/35.5121994/310.7441995/324.1131996/3地域銀行を含む31.8771997/345.1351998/358.7661999/365.712000/371.8182001/381.542002/388.1982003/393.5722004/396.422005/398.9532008/3103.7292010/3105.8572015/3107.222020/3
金融庁の表5の「4年度以降の累計」を1兆円単位に直した(億円 ÷ 10,000)。1995年3月期以前は都銀・長信銀・信託のみ、1996年3月期から地域銀行を含む。 出所: 金融庁 監督局総務課監督調査室2020表5「4年度以降の累計」
詳しく読むよく聞く話は本当か

「山手線の内側の土地でアメリカ全土が買えた」。誰が言い出したのかは分かっていません。国民経済計算で確かめられるのは、1990年末の国民総資産7,937兆円のうち31.2% が土地等だったことまでで、米国の土地の総額と並べた資料は、ここに挙げた資料の中にはありません。言い回しは事件の大きさを伝えますが、誰がいつ計算したのかを示す記録に、まだ行き着いていません。

「皆が土地転がしをした」。文書で確かめられるのは、保有2年以下の転売に1987年から重課が掛かったこと、不動産業・建設業・ノンバンク向けの融資が全国銀行の融資の約3割に達したこと、国土庁が高騰の原因を都心の業務用地の需要と周辺住宅地の買い替え、それを見込んだ投機的な取引に求めたことです。家計や個人がどこまで加わったかを数えた記録は、ここに挙げた資料の中にはありません。

「総量規制がバブルを潰した」。順序を見ると、通達は1990年3月27日で、株価の頂点の3か月後、公定歩合を5.25% に上げた1週間後です。翁ほかは「総量規制の導入はバブルの崩壊とほぼ同時」と書き、地価上昇の期待が強いときの総量規制は抜け穴を生む、と評価します。1992年の国会では、1990年の『エコノミスト』が「今ごろ実施するのはいかにも手ぬるい」と評していたことが読み上げられ、解除の早さが問われました。大蔵省は「土地関連融資の伸びは総じて抑制基調が定着した」と効果を認めています。一因ではあっても、単独の原因とは資料から言えません。

「土地は下がらない」。この言葉自体は1990年4月に日本銀行が名指しし、1991年1月に政府が打破を目標に掲げました。三大都市圏の全用途の地価は、7月1日時点の前年比で1991年から2005年まで15年続けて下がり、六大都市の市街地価格指数は1999年に頂点より約80% 低くなっています。神話は、それが神話だと公文書に書かれた後で崩れました。

「日本人が浮かれていたから起きた」。この説明は、研究が挙げる原因の並びと合いません。翁ほかが挙げる要因は、金融機関の行動、金利、税制、規律の仕組み、そして時代の政策課題で、心理はそれらが絡み合った結果として現れています。同じ緩和が過去の局面でバブルを生まなかったこと、1980年代後半に北欧など他国でも資産価格が上がったことを、著者ら自身が反証として挙げています。

「山手線の内側の土地でアメリカ全土が買えた」

裏付けなし出どころ: 広く言われる説(誰が言い出したのかは分かっていない)

内閣府

「土地は下がらない(土地神話)」

誇張出どころ: 日本銀行1990年4月調査月報が「経済主体が暗黙に前提」と指摘。総合土地政策推進要綱(1991-01-25)が「打破」を目標に掲げた

翁邦雄・白川方明・白塚重典2001 国立国会図書館 国会会議録検索システム1992 国土交通省 土地・水資源局地価調査課

詳しく読む今とのつながり

この事件から今に残るのは、値段ではなく構造です。担保の値が上がると貸出が増え、貸出が担保の値を押し上げる輪。担保の値と借り手の収益が同じ向きに動くとき、担保は担保として働かないという指摘。そして、値が下がった後に貸し手と借り手の資本が同時に削られ、信用が縮む経路です。この三つは、繰り返す構造のページと、現代のお金の科目の「担保の値が落ちたとき」で扱います。

もう一つ残るのは、政策の道具の順序です。利上げ、窓口指導、融資の総量規制、土地の税制は、どれも地価が頂点を過ぎる前後に順に打たれました。効いたのか、遅かったのか、抜け穴があったのかは、いまも評価が分かれています。ここでは、現在の日本の株価や地価について何も予測しません。

詳しく読む比較の限界

2007年からの米国の住宅と信用の危機とは、不動産の値段と銀行の貸出が結びつき、値段の下落が銀行の帳簿を壊した点で並べられます。違うのは仕組みの場所です。日本は銀行の貸出と土地の担保が中心で、証券化・レポ市場・MMF は主役ではなく、崩れる速さも数年と数週間で桁が違います。「日本の失われた10年=2008年後の米国」という同一視はしません。

チューリップ狂や1907年の恐慌とは並べません。土地は供給が伸びる資産で球根は一点物、価格の記録の質も違い、恐慌は時間の尺が違います。比べるなら、翁ほかが行ったように、同じ国の第一次大戦後の土地の値上がりと損失を同じ物差しで測る方が、学ぶところが多いと言えます。

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