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The Asset Price Bubble and Monetary Policy: Japan's Experience in the Late 1980s and the Lessons
翁邦雄・白川方明・白塚重典 — 日本銀行金融研究所 Monetary and Economic Studies 19(S-1)
この資料が支える主張
- 著者らはバブル経済を「資産価格の急騰・経済活動の過熱・マネーサプライと信用の大幅な増加」の三つで特徴づけ、1987〜1990 年の 4 年間を「バブルの発生と拡大の期間」と定義する(II.A)
- 日経平均は 1986 年に上昇を速め、1989 年末に 38,915 円で頂点。プラザ合意時(1985 年 9 月、12,598 円)の 3.1 倍。1992 年 8 月に 14,309 円(頂点比 60% 超の下落)(II.B.1)
- 市街地価格指数(六大都市)は株に遅れて 1990 年 9 月に頂点、1985 年 9 月の約 4 倍。1999 年には 1985 年 9 月より約 20% 低く、頂点より約 80% 低い(II.B.1)
- 1986〜89 年の株と土地のキャピタルゲイン合計は名目 GDP の 452%(1972〜73 年は 193%)。1990〜93 年のキャピタルロスは名目 GDP の 159%(II.B.1, Fig.4)
- M2+CD の伸びは 1990 年 4〜5 月に頂点、景気は経済企画庁の基準日付で 1986 年 11 月に底、1991 年 2 月に山(拡張 51 か月)。設備投資は GDP の 20% 近くまで上昇(II.A, II.B.2)
- 日本銀行は 1987 年後半から引締めの可能性を探ったが説得力ある論拠を示せず、崩壊後には緩和の長期化がバブルを招いたとの批判を受けた(I)
- 主要行の不良債権は 1999 年 3 月末に 20.3 兆円(名目 GDP の 4.1%)、1992 年度以降の直接償却の累計を加えると 44.6 兆円(9.0%)。1998 年 10 月の金融再生関連法は公的資金 60 兆円(GDP の 12%)を用意し、預金保険法改正で 70 兆円になる(II.C, pp.404–405, 注 9)
- 第一次大戦後のバブルとの比較: 土地のキャピタルゲインは 1913〜19 年に GNP の 335%、1924〜30 年の損失は 43%。1986〜90 年は 367%、1991〜93 年の損失は 107%。株価の上げ下げの率は違わないが、崩壊後の経済活動の落ち込みは 1980 年代の方が小さい(II.C, pp.405–407, Table 1)
- 発生要因は単一ではなく、金融機関の積極化・金融緩和の長期化・土地税制と規制・規律の弱さ・日本への自信が「強気の期待の強化」を通じて絡み合った。株式の利回りスプレッドは 1987 年初めに 2% を下回り、1990 年には約 6% に広がった(III.A, pp.407–409, Figure 13–14)
- 金融機関の積極化は 1983 年ごろから始まり、預金金利の自由化(1985 年〜)と大企業の銀行離れが不動産担保の中小企業貸出・不動産関連貸出に向かわせた。破綻した第二地銀 7 行は 1980 年代前半から収益性が低く、80 年代半ばから不動産関連貸出を拡大した。都銀・長信銀・信託の自己資本は 1988 年 9 月末 35 兆円から 1989 年 9 月末 46 兆円に増えた(III.B.1, pp.410–413)
- 金融緩和が資産価格を押し上げる経路は三つ(投機の資金コストの低下・株高による資本市場での調達・地価と株価の上昇による担保価値の増加)。ただし緩和は必要条件であって十分条件ではない(III.B.2, pp.414–415)
- 土地の保有課税が軽く譲渡課税が重い税制は土地の供給を抑え、地価上昇の期待が「制度の恩恵」の現在価値を高めて地価をさらに押し上げた。農地の宅地転用の期待も同じ向きに働いた(III.B.3, pp.415–416)
- 日本の国際銀行貸出のシェアは 1989 年第 4 四半期に 41% で頂点。「世界最大の債権国」「国際金融センター東京」が時代の空気を表した。国土庁(1985)は東京の事務所需要が超高層ビル 250 棟分に増えると見通した(III.B.5, p.417, 注 26)
- 公定歩合は 1986 年 1 月から 1987 年 2 月に 5 回、合計 2.5 ポイント引き下げられ、2.5% は 1987 年 2 月から 1989 年 5 月まで 2 年 3 か月続いた。5 回のうち日本銀行の単独の判断は第 1 回だけで、第 2・3 回は米独と同時、第 4・5 回は日米共同声明・ルーブル合意と同日だった(IV.A.1, pp.418–419, Table 2)
- 政策委員会議長の談話は 5 回の引下げすべてで為替相場の安定に触れ、第 3 回までは内需拡大による経常黒字の縮小にも触れた(IV.A.1, Table 4, p.420)
- 日本銀行は 1986 年夏から「乾いた薪」と呼んで緩和の行き過ぎを懸念し、1987 年 8 月末に短期市場金利の高め誘導を始めたが、10 月 19 日のブラックマンデーで中断した。窓口指導は 1987 年第 2 四半期から「慎重な貸出態度」を求める緩やかな説得に転じた。1988 年 11 月に新金融調節方式(IV.A.2, pp.421–423, Table 5)
- 公定歩合の引上げ: 1989 年 5 月 31 日 2.5→3.25%(窓口指導で「量・質両面で規律ある貸出」を要請)、10 月 11 日 3.75%、12 月 25 日 4.25%、1990 年 3 月 20 日 5.25%(同月に大蔵省が不動産関連貸出の抑制を指示)、8 月 30 日 6.0%(湾岸危機)。1990 年 8 月の利上げの約 1 か月後に株価は頂点の半分になり、地価は 1991 年ごろから下落した(IV.A.3, pp.424–425, Table 7)
- 1990 年 3 月の大蔵省の通達と指針: (1) 当面、公的な宅地開発機関向けを除き、不動産関連企業向け貸出の増加を総貸出の増加の範囲内に抑える (2) 当面、不動産業・建設業・ノンバンク向け貸出の報告を集める。総量規制の導入はバブルの崩壊とほぼ同時だった。著者らは、地価上昇の期待が強いときの総量規制は抜け穴を生むとして、貸出方針への直接介入は避けるのが望ましいと述べる(IV.B.4, pp.430–431, 注 45)
- Bernanke–Gertler(1999)の試算では 1988 年に目標金利を 4% から 8% に上げていればバブルは防げた。著者らは、CPI が 0.7%(1988 年)のときに一度に 8% へ上げることはできたか、と問い、早期の引締めでも発生は防げず崩壊の時期が早まり信用の拡大が抑えられた可能性がある、と評価する(IV.B.2–3, pp.428–430)
- CPI 前年比は 1989 年 3 月に 1.1%、1990 年 4 月に 2%、11 月に 3%。1988 年第 3 四半期の国内卸売物価は −0.7%、CPI は 0.2% で、物価の安定が利上げの説得を弱めた(V.A.2, pp.432–434)
- 日本銀行調査月報 1990 年 4 月号は、経済主体が「土地神話」(地価は上がり続ける、少なくとも下がらない)を暗黙に前提していると指摘し、米英の例から地価の下落が金融機関の健全性を損ないうると警告した(V.A.4, 注 54, p.435。原文は未読、著者らの英訳による)
- 引締めが遅れた背景は国際政策協調・円高回避・内需拡大による経常黒字の縮小という時代の政策課題と、財政再建で内需拡大が金融政策に偏ったこと。三重野元総裁は「利上げして内需を抑えることは国際公約に反すると見なされた」と回想する(V.B, pp.436–441, 注 55)
- 崩壊後の長い停滞は三つの経路で生じた: 強気の期待の修正、バブル期の設備投資の経済価値の低下、資産価格の下落が貸し手と借り手の資本を削り信用を縮めるバランスシートの修復。担保価値と貸出先の収益が同じ向きに動く貸出は実質的に無担保である(V.C・VI.B.5, pp.441–443, 446)
- 教訓は四つ: 先を見た金融政策(バブルを新経済と見誤る第二種の過誤の方が致命的)、経済全体のリスクの把握(需給ギャップ・マネーと信用・資産価格・金融機関の行動・リスクの相互作用)、時代の政策課題との関係、制度設計の重要性(VI, pp.443–447)
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