1945年8月〜1946年2月
戦争が終わり、お札がどんどん増えた。物価も上がり続けた
302億円あまり → 614億円あまり
日本銀行券の発行高(終戦の日 → 1946年2月17日)

3分でわかる 預金封鎖と新円切替(1946年)
横に送って見られます
1945年8月〜1946年2月
戦争が終わり、お札がどんどん増えた。物価も上がり続けた
302億円あまり → 614億円あまり
日本銀行券の発行高(終戦の日 → 1946年2月17日)
1946年2月17日
政府は二つの緊急勅令を出し、その日から施行した
金融緊急措置令(勅令第83号)と日本銀行券預入令(勅令第84号)
1946年2月18日
月曜日、全国の預金の支払いが止められた
世帯主300円・世帯員1人100円
封鎖された預金から毎月払い戻せた生活費
1946年3月2日
古いお札は、この日を限りに強制通用力を失った
3月7日までに金融機関に預けるよう求められた
2月25日〜3月7日
預けると同時に、新しいお札を少しだけ受け取れた
1人100円まで
最初は証紙を貼った銀行券。新様式の券は3月1日から
1946年3月12日
お札の量は一気に縮んだ。古いお札は預金に変わった
618億円 → 152億円
日本銀行券の発行高(2月18日の頂点 → 3月12日)
1946年4月1日
世帯主の生活費の払戻しは、月300円から100円に下げられた
7月2日の衆議院では「五百圓生活問題」が取り上げられた
1946年3月末〜12月末
けれども、お札は再び増え続けた
233億円 → 428億円 → 934億円
日本銀行券の発行高(3月末・6月末・12月末)
1946年2月 → 12月
物価も止まらなかった
8.676 → 22.49
卸売物価指数(1934〜36年の平均を1とする)
152億円
3月12日のお札の量。2月18日の618億円から縮んだ
81.9%
3月8日までに回収された古いお札(2月16日の発行高に対して)
100円
4月1日からの、世帯主の生活費の払戻し(毎月)
1946年2月の終わり。あなたの家には、古いお札がしまってあります。預金はもう自由に引き出せません。どうしますか?
選んでみてください
古いお札は3月2日を限りに強制通用力を失います。期限の後に手元に残ったお札がどうなったかは、この教材では確かめていません。
3月7日までに預ければ、古いお札は預金になります。ただしその預金も封鎖され、毎月払い戻せるのは生活費の分だけ。預けると同時に受け取れる新しいお札は1人100円まででした。
3月2日までは、古いお札もお金として通用しました。その日に古いお札が失効すると、デパートや小売りの店の売上げは激減しました(日本銀行の記録)。
古いお札は、紙くずにはなりませんでした。預金に変えられ、その預金が止められたのです。お札の量は一度152億円まで縮みましたが、12月末には934億円。日本銀行自身の歴史は、効果は一時的なものにとどまったと書いています。
1946年3月2日(土) 全国の銀行の窓口
1946年3月2日は土曜日でした。日本銀行券預入令とその施行規則によって、この日を限りに、10円・20円・100円・200円・1000円の古いお札は強制通用力を失います。2月22日の大蔵省令第16号で、5円のお札もそこに加えられていました。全国銀行協会連合会はこの日の営業時間を午後3時まで延ばし、翌3日の日曜日も臨時に店を開けて、お札の引換えと預け入れだけを扱いました。日本銀行も2日の営業時間を延ばし、3日に臨時の営業をしています。
古いお札は、捨てるものではありませんでした。3月7日までに銀行や郵便局に預ければ、預金になります。ただし、その預金は自由には引き出せません。2月18日から、全国の預金の支払いは、すでに止められていたからです。
数字で見ると、起きたことの大きさが分かります。日本銀行券の発行高は、措置の直前の2月16日に614億5164万円でした。2月18日の618億円を頂点に、3月12日には152億円まで縮みます。頂点の24.6% です。2月18日から3月8日までに回収された古いお札は503億409万円で、2月16日の発行高に対する回収率は81.9% でした。
世の中に出回っていたお札の大半が、銀行の中に戻ったことになります。国は、なぜここまでしたのか。話は、戦争が終わった日にさかのぼります。
1945年8月〜1946年2月
1946年7月2日、衆議院の本会議で、石橋湛山蔵相は措置の理由をこう説明しました。日本銀行券は、終戦の当日に302億円あまりでした。その年の末には554億円あまり、金融緊急措置令を公布した日には614億円あまりになっていた。
物の値段も上がっていました。日本銀行の卸売物価指数(1934〜36年の平均を1とする)は、終戦の月の1945年8月に3.360、1946年2月には8.676です。半年で2.5倍を超えました。
石橋蔵相の説明では、お札が増えた道筋は二つありました。終戦の直後は、政府の資金が一度に出ていったこと。その後は、戦争中に預金などの形で積み上がった大きな購買力が引き出されて使われ、お札のまま家にしまわれたこと。財産に税をかける計画が伝わると、預金を引き出したり、お金を物に換えたりする動きも盛んになった、と述べています。
このまま放っておけば、いわゆる悪性インフレーションに入る危険があった。石橋蔵相は、それが措置の理由だったと説明しています。
1946年2月16日〜3月20日
1946年2月16日、政府は「経済危機緊急対策」を発表しました。翌17日、二つの緊急勅令が公布され、その日から施行されます。金融緊急措置令と、日本銀行券預入令です。帝国憲法第8条第1項による緊急勅令で、議会の承諾を求める審議は、7月2日からの帝国議会で行われました。
金融緊急措置令の第1条は短い文です。金融機関は、この令が施行された時にある預金などについて、支払いをしてはならない。預金は持ち主のものであり続けます。けれども第9条により、持ち主は、禁止が解かれるまで払い戻しを求める権利を持ちません。
預金の支払いが実際に止められたのは、2月18日の月曜日からです。生活のために引き出せる額は、大蔵省令の施行規則が決めていました。毎月、世帯主に300円、家族は1人に100円。給料も、払い戻せる額は1人月500円として計算されました。石橋蔵相の言い方では「各自の収入五百円以上のものを封鎖する」やり方です。
手元のお札は、こう扱われました。2月25日から3月7日まで、古いお札を預け入れると同時に、1人100円までは新しいお札で受け取れます。新しいお札の印刷は間に合わず、最初に渡されたのは、証紙を貼った銀行券でした。新しい図柄のお札は、3月1日から100円券と10円券、8日から5円券、20日から1円券が出ます。
主な流れを簡略化した図です。事業の資金の払い戻しや、封鎖預金の小切手による支払いも別にありました。
この図で分かること手元のお札が預金に変えられ、その預金から引き出せる額が決められていた流れが分かります。
1946年3月3日(日)午前0時
古いお札の最後の日の翌日、3月3日の午前0時。この時刻には、もう一つの意味がありました。同じ2月17日に出た臨時財産調査令が、国民の財産を調べる基準の時点を、この時刻に定めていたのです。石橋蔵相の7月の説明です。
その年の11月12日に公布された財産税法も、第1条で調査の時期を「昭和二十一年三月三日午前零時」としています。財産が10万円以下なら税はかかりません。10万円を超える部分には25%、そこから段階を追って上がり、1,500万円を超える部分には90% の税がかかりました。
石橋蔵相は、持ち主の移りやすい財産は、すぐに調べておかなければ後で確かめることがほとんどできなくなるので、金融緊急措置の実行に合わせて調べたと説明しました。物価を抑える措置と、財産に税をかける準備が、同じ時刻で結ばれていたのです。
この順番を議場で問いただした議員がいます。社会党の川島金次議員は7月2日、財産税の計画を年の初めに発表しながら調査令を3月まで出さなかったため、その間に有力な地主や資本家が財産を物に換えた、と批判しました。石橋蔵相は、議会の開会が遅れた事情によるもので、やむを得なかったと答えています。換えられた財産がどれだけだったかは、記録からは分かりません。
1946年2月16日
経済危機緊急対策の発表
1946年2月17日
金融緊急措置令・日本銀行券預入令の公布と施行
1946年2月18日
預金封鎖の実施
なぜ重要かお札の発行高は618億円で頂点
1946年2月25日
古いお札の預け入れと、新しいお札の支払いが始まる
なぜ重要か1人100円まで
1946年3月2日
古いお札が強制通用力を持つ最後の日
1946年3月3日
財産の調査時期(午前0時)
なぜ重要か古いお札の最後の日の翌日
1946年3月7日
預け入れの期限
1946年3月12日
お札の発行高が152億円で底
1946年4月1日
世帯主の生活費を月300円から100円に
1946年7月2日
衆議院で事後承諾の審議。「五百圓生活問題」
1946年11月12日
財産税法の公布
なぜ重要か調査時期は3月3日午前0時
この図で分かること預金の封鎖、古いお札の最後の日、財産の調査時期、生活費の引下げがどの順に来たかが分かります。
1946年3月〜7月
3月2日に古いお札が使えなくなると、百貨店や小売商の売上げは激減しました。露店商は統制の強化もあって激減し、続けられるのは2割から3割とみられた、と日本銀行の歴史は書いています。
締め付けは、さらに強まります。3月22日には金融機関の貸出が3月20日の残高までに制限され、4月1日からは、世帯主が引き出せる生活費が月300円から100円に下げられました。日本銀行の歴史は、これを当初の措置の効果に限界があったことを示すもの、と書いています。
7月2日の衆議院で、川島議員はこれを「五百圓生活問題」と呼んで取り上げました。厚生省の調査では、6大都市の勤労者の収入は平均504円82銭、生活費の支出は844円8銭で、差し引きは赤字だと述べ、枠を800円から1,000円に広げるよう求めます。
石橋蔵相は答えました。収入の500円以上を封鎖する今のやり方ははなはだ不自然で、早く制限の無い状態にしたい。ただ、家族1人につき100円ずつ別に引き出せるので、5人家族なら1,000円までは生計費が取れる。
1946年3月〜1948年12月
お札の量は、3月12日の152億円を底に、また増え始めました。3月末には233億円、6月末には428億円、12月末には934億円です。
日本銀行百年史の表1-12(日々の残高・百万円)を億円に直し小数第1位に丸めた値と、本文の3月末・6月末・12月末の値。2月18日の618.2が頂点、3月12日の152.0が底。
この図で分かることお札の量が2月18日から3月12日までに頂点の24.6% まで縮み、その後に再び増えて、12月末には措置の前の頂点を上回ったことが分かります。
出所: 日本銀行百年史 第5巻 表1-12・p.47
物価も止まりませんでした。卸売物価指数は1946年3月に11.95、12月に22.49。1947年12月には83.37、1948年12月には187.2になります。
日本銀行の歴史は、この措置の効果は一時的なものにとどまったと書きます。理由として挙げるのは、まず、生活費や事業の資金として、封鎖された預金から新しいお金を払い出す道を残したこと。1946年4〜6月だけで、主要な金融機関の払出しは154億円にのぼりました。次に、封鎖預金の小切手で払える取引が残り、新しいお金で買う値段と、封鎖預金の小切手で払う値段が分かれる「二重価格」が生まれたこと。そして、銀行から出た新しいお金が闇の取引にとどまり、銀行に戻ってこなかったことです。
そのうえで日本銀行の歴史は、この措置が通貨の措置というものへの抜き難い不信感と不安感を国民に植え付けたことは大きなマイナスだった、と記しています。
1946年3月2日に戻る
冒頭の問いに戻ります。国は、なぜ国民の手元のお札まで集めたのか。お札が増え続け、物の値段が半年で2.5倍を超えていたからです。預金を止め、古いお札を預金に変えれば、使えるお金の量を一度に小さくできます。その切り替えの時刻は、財産を調べる基準の時点とも重ねられていました。
それで物価は止まったのか。お札の量は2月18日から3月12日までに頂点の24.6% まで縮み、そこから再び増えました。卸売物価指数は、1948年12月に187.2です。止まったのは、ひとときでした。
預金が止められたのは、このときが初めてではありません。日本銀行の歴史は、1923年の関東大震災と1927年の金融恐慌のときの支払の猶予を挙げ、性質が根本的に違うと書いています。あのときは、払えなくなった人に支度の時間を与えるためで、初めから期間が決まっていました。給料のための払い戻しは無制限で、1日一定の額より少ない預金の払い戻しも止めませんでした。1946年は、物価を止めるために、期間を決めずに預金を止め、お札まで預金に変えさせたのです。
この図で分かること古いお札の最後の日に至るまでと、その後に起きたことを、もう一度一続きでたどれます。
ここから先は、もとの教材の本文・年表・図・研究者の見方を、省かずに読めます。見出しを押すと開きます。
1946年2月17日、金融緊急措置令と日本銀行券預入令が公布され、翌18日から全国の預金の支払いが止められた。5円以上の古いお札は3月2日を限りに強制通用力を失い、3月7日までに預金にするよう定められた。日本銀行券の発行高は2月16日の614億5164万円から3月12日の152億円に縮んだが、そこから再び増え、12月末には934億円になった。卸売物価指数(1934〜36年平均=1)は1946年2月の8.676から12月の22.49に上がった。
もとの問い物価が止まらなくなったとき、国は国民の預金とお札を止めた。それで物価は止まったのか。
戦争が終わった日、日本銀行券の発行高は302億円あまりでした。1945年の末には554億円あまりになり、1946年2月17日には614億円あまりに達します。これは1946年7月2日に衆議院で石橋湛山蔵相が示した数です。日本銀行の卸売物価指数(1934〜36年の平均を1とする)は、1945年8月の3.360から1946年2月の8.676に上がっていました。
1946年2月16日、政府は経済危機緊急対策を発表し、翌17日に金融緊急措置令(勅令第83号)と日本銀行券預入令(勅令第84号)を公布して、その日から施行しました。帝国憲法第8条第1項による緊急勅令です。前者の第1条は、金融機関に対し、施行の際にある預金などの支払いを禁じました。預金封鎖は2月18日の月曜日に実施されます。封鎖された預金から毎月払い戻せるのは、生活費として世帯主に300円、世帯員1人に100円の割合で計算した額で、給与は1人月500円として計算されました。
後者は、古いお札(10円・20円・100円・200円・1000円の券。2月22日の大蔵省令第16号で5円券も加わる)が3月2日を限りに強制通用力を失うと定め、3月7日までに金融機関に預けるよう求めました。2月25日から3月7日までは、預け入れと同時に1人100円まで新しいお札で受け取れます。最初に渡されたのは証紙を貼った銀行券で、新様式の券は3月1日から出ました。3月2日は土曜日で、銀行は午後3時まで営業を延ばし、翌日の日曜日も臨時に開店しました。
財産の調査時期は1946年3月3日午前0時と定められました。古いお札の最後の日の翌日の始まりです。11月12日に公布された財産税法は、10万円を超える財産に25% から、1,500万円を超える部分に90% までの税をかけました。
4月1日から世帯主の生活費の払戻しは月300円から100円に下げられました。7月2日の衆議院では、川島金次議員が「五百圓生活問題」を取り上げ、石橋蔵相は今のやり方ははなはだ不自然で、早く制限の無い状態にしたいと答えます。お札の発行高は3月12日を底に増え、12月末には934億円になりました。
動いたのは、お札そのものでした。日本銀行券の発行高は2月18日の618億円を頂点に、3月12日には152億円まで縮みます。2月18日から3月8日までに回収された古いお札は503億409万円で、2月16日の発行高に対して81.9% でした。回収のうち銀行を通じたものが251億円、郵便局が140億円です。古いお札は消えたのではなく、預金に変わりました。3月7日の銀行預金は2月16日より292億円、郵便貯金は111億円増えています。
ところが、その預金から新しいお金が出ていく道が残っていました。生活費と事業の資金の払戻しで、1946年4〜6月だけで主要な金融機関の払出しは154億円です。封鎖預金の小切手による支払いも認められ、新しいお金で払う値段と封鎖預金の小切手で払う値段が分かれる二重価格が生まれました。日本銀行百年史は、銀行から出た新しいお金が闇の取引にとどまり、戻ってこなかったと書きます。お札の発行高は3月末233億円、6月末428億円、12月末934億円と増え続けました。
「新円切替で古いお札は紙くずになった」という言い方があります。条文を見ると、古いお札は期限までに金融機関に預ければ預金になりました。日本銀行券預入令の第1条は、預金にする場合についてはなお強制通用の効力があるとみなしています。紙くずになったのではなく、自由に使えない預金に変えられたのです。期限の後に手元に残ったお札については、このファイルでは確かめていません。
「預金封鎖は財産税を取るためだけに行われた」とも言われます。財産の調査時期が3月3日午前0時に置かれ、石橋蔵相が金融緊急措置の実行に合わせて財産を調べたと説明しているのは事実です。けれども同じ蔵相は、措置の主な理由を、増えたお札と預金による悪性インフレーションの危険と説明しています。目的が一つだけだったとは、記録からは言えません。
この事件から今に残るのは、お札と預金の違いです。お札が「お金」であるのは、法が強制通用力を与えているからで、その力は法令で失わせることができました。預金は銀行に対する払戻しの請求で、その請求の権利を法令で止めることができました。この二つの仕組みは、現代のお金の科目の「銀行券は、なぜ受け取りを拒めないのか」と「財布の一万円と、口座の一万円」で扱います。ここでは、現在の日本で同じことが起きるかどうかについては何も予測しません。
日本銀行百年史は、この措置に似た経験として、1923年の関東大震災と1927年の金融恐慌のときの支払の猶予を挙げ、性質が根本的に違うと書いています。前の2回は、払えなくなった債務者に準備の時間を与えるもので、給料のための払戻しは無制限、少額の預金の払戻しは止めず、初めから期間が決まっていました。1946年は物価を抑えるために期間を定めず、お札まで預金に変えさせました。「預金が止められた」という一点だけで、二つを同じものとして扱いません。
図と本文の数が、どの資料のどこから来ているか。数値台帳・図の出どころ・資料の層・参考文献を、別のページにまとめました。