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世界を変えた鉄道は、なぜバブルになったのか。

鉄道狂時代 / 1844〜1847 年 / イギリス / 熱狂・バブル

1844 年から 1845 年にかけて、イギリスで千を超える鉄道会社が計画され、鉄道株の指数は 1845 年 8 月 8 日に 1,984(1844 年 1 月=1,000)で頂点を付けた。株は分割払込で、申込人は額面の 10% 未満を払って仮株券を受け取り、建設が進むにつれて払込請求に応じた。1845 年 10 月 16 日にイングランド銀行が公定歩合を 3% へ上げると株式市場は恐慌に転じ、1847 年には払込請求と穀物の輸入が重なって商業恐慌となり、10 月 25 日の政府書簡で銀行は 8% で貸し出した。指数は 1850 年 4 月に 673 まで下がったが、認可の約 6 割は建設され、営業中の鉄道は 1850 年に 6,621 マイルになった。

何が起きたか

1830 年、リヴァプールとマンチェスターを結ぶ鉄道が開業しました。1830 年代の半ばに議会は 59 社、約 3,640 万ポンドの鉄道を認可しましたが、1836 年のイングランドの鉄道法 23 本のうち 4 本は放棄され、完成したのは 15 本でした。その後の推進は途絶え、1843 年の鉄道法は 24 本にとどまります。同じ年、創刊したばかりのエコノミストは、英国の大きな幹線はもう出来上がっている、と書きました。

1844 年に潮目が変わります。前年と当年の豊作で景気が戻り、9 月 7 日、新しい銀行特許条例の施行と同時にイングランド銀行は公定歩合を 2.5% へ下げました。銀行の金塊は 1842 年 1 月の 562 万 9,000 ポンドから 1845 年 1 月の 1,486 万 7,000 ポンドへ増えています。この年 37 件の鉄道が認可され、議会への申請は前年の 63 件から 199 件に増えました。2 月には、議会が鉄道の請願に求める預託が 10% から 5% へ下げられています。

会社を作る手順は決まっていました。仮委員会が目論見書を出し、申込人は割当を受けると預託を払って持参人払いの仮株券を受け取ります。会社は 11 月末までに図面を役所へ出し、翌年の会期に議会へ法案を出しますが、そのとき、10% を払い込んで資本の 4 分の 3 を引き受けた株主の氏名・住所・職業を載せた申込契約を添えなければなりません。法が成立すれば仮株券は株になり、建設が進むにつれて会社は残りの払込を請求します。1845 年 1 月に 16 社、4 月には月に 52 社が登録され、議会はこの春、前年の申込契約 209 件の申込人すべてを 539 頁の名簿に印刷しました。

鉄道株の指数は 1845 年 8 月 8 日に 1,984(1844 年 1 月を 1,000 として)で頂点を付け、2 か月そのあたりに留まります。この年、下院は預託を 10% へ戻し、会計総監へ現金で払い込むことを求めました。それでも登録は止まらず、9 月には 457 社、10 月には 363 社が加わります。タイムズは 7 月 30 日に将来の払込請求を警告し、10 月のブラックウッズ誌にはエイトンの風刺「グレンマッチキン鉄道」が載りました。

転換点は 10 月 16 日の木曜日でした。イングランド銀行が公定歩合を 3% へ上げると、金曜に取引が細り、土曜に警報が始まり、株式市場の恐慌はロンドンからリヴァプール、エディンバラへ広がります。2 週間足らずで新旧の株価は 2、3 か月前の水準を割りました。トゥックはこの時期の金利上昇を、議会へ出す計画のために預ける約 1,460 万ポンドの手当と、前会期に認可された線の払込請求に帰しています。11 月 6 日、公定歩合は 3.5% になりました。

11 月 17 日、タイムズはスパックマンの表を掲げました。完成した 47 社が集めた資本は 7,068 万 877 ポンド、建設中の 118 線には 6,735 万 9,325 ポンドが要り、計画中の 1,263 社の資本は 5 億 6,320 万 3,000 ポンド、その預託だけで 5,913 万 6,300 ポンドに上る、という内容です。11 月 30 日の期限までに商務省へ出された図面は、翌 1 月にピールが数えたところ、イングランド 606、スコットランド 121、アイルランド 83 の 815 件、延長にして 20,687 マイルでした。1,263 の計画のうち規定に適う提出に至ったのは半分に満たなかった、とエヴァンズは記します。

1846 年 1 月、預託金の払込が集中します。ラッセル卿は前年の払込が 300 万ポンド、今年は 900 万ポンドと見込み、ヘイスティは 800 万から 1,000 万ポンドを開会から 2 週間で払うと述べ、スチュアートは 600 万から 700 万ポンドが固定されて流通高の 5 分の 1 から 6 分の 1 が引き揚げられたと述べました。大蔵大臣とピールは現金以外の預託を認めず、規則を緩めませんでした。1 月 26 日、ピールは 1844 年の 48 本と 1845 年の 118 本の鉄道法が認めた鉄道の完成だけで 3 年に約 7,000 万ポンドが要ると述べ、特別委員会を提案します。7 月 3 日の解散法は、法を得ていない会社が仮株券の所持人の集会で解散できると定め、8 月 28 日の法は商務省の鉄道の権限を鉄道委員へ移しました。

1847 年、払込請求と穀物の輸入代金が重なります。請求は 1 月に 615 万ポンド、7 月に 530 万ポンド、9 月に 416 万ポンド。銀行の金塊は 1 月末の 1,290 万ポンドから 4 月 24 日の 920 万ポンドへ減り、公定歩合は 1 月に 3.5% と 4%、4 月 8 日に 5%、8 月 5 日に 5.5%、9 月 30 日に 6% と上がりました。10 月 1 日、銀行が公債を担保とする貸付を止めると全面的な恐慌になり、23 日にロンドンの銀行家が首相官邸へ条例の停止を求めに行き、25 日の政府書簡で銀行は最低割引率 8% で貸し出すことになります。退蔵されていた紙幣が戻り、恐慌は収まりました。

建設は続きました。議会が認可した延長は 1845 年に 2,700 マイル、1846 年に 4,538 マイル。営業中の鉄道は 1843 年の 2,044 マイルから 1850 年の 6,621 マイルへ増え、累積の投資資本は 6,750 万ポンドから 2 億 4,580 万ポンドになりました。投資の年額は 1847 年に約 4,400 万ポンドで頂点を付け、国の予算に並びます。1848 年 10 月に新線の収入の低さが隠せなくなり、1849 年に配当が減って、指数は 1850 年 4 月 19 日に 673 の底を付けました。

出来事の順 出所: D. Morier Evans 1848
  1. 1830
  2. 1836
    • イングランドの鉄道法 23 本。1830 年代半ばに議会は 59 社・約 3,640 万ポンドを認可 John Francis 1851
  3. 1843
  4. 1844
  5. 1845
    • 1 月新会社 16 社が登録。銀行の金塊は 1,486 万 7,000 ポンド
    • 3 月銀行が手形と約束手形の双方を 2.5% とし、「最低率」の告示を始める Thomas Tooke 1848
    • 4 月月に 52 社が登録。議会が 1845 年名簿(209 契約の全申込人、539 頁)を印刷 Gareth Campbell, John D. Turner 2012
    • 7 月 10 日商務省鉄道部の権限が廃止される。この年、預託は 10% へ戻される John Francis 1851
    • 8 月 8 日鉄道株指数が 1,984 で頂点 Gareth Campbell, John D. Turner 2012
    • 9 月登録 457 社(年初からの累計 1,035)
    • 10 月登録 363 社。エイトンの風刺「グレンマッチキン鉄道」がブラックウッズ誌に載る
    • 10 月 16 日銀行が公定歩合を 3.0% へ。週末に株式市場の恐慌が始まる Bank of England
    • 11 月 6 日公定歩合 3.5% Bank of England
    • 11 月 17 日タイムズがスパックマンの表(新計画 1,263 社・資本 5 億 6,320 万ポンド)を掲げる
    • 11 月 30 日図面の提出期限。商務省に 815 件(イングランド 606・スコットランド 121・アイルランド 83) House of Commons 1846
  6. 1846
  7. 1847
    • 1 月払込請求 615 万ポンド。公定歩合は 14 日に 3.5%、21 日に 4.0%
    • 4 月 8 日公定歩合 5.0%。金塊は 4 月 24 日に 920 万ポンド Thomas Tooke 1848
    • 7 月払込請求 530 万ポンド(英国線 430 万・外国線 100 万)
    • 8 月 5 日公定歩合 5.5% Bank of England
    • 10 月 1 日銀行が公債担保の貸付を止める。全面的な恐慌
    • 10 月 25 日政府書簡。銀行は最低割引率 8% で貸し出す House of Commons 1847
    • 11 月 30 日大蔵大臣ウッドが下院で書簡の理由と原因(穀物と鉄道への資本の吸収)を説明 House of Commons 1847
  8. 1848
  9. 1849
    • 配当の削減とハドソンの会計の露見。オドリズコの指数は 10 月に 60.5 の底 Andrew Odlyzko 2010
  10. 1850

お金はどう動いたか

動いたのは、払い込まれた金より、払い込む約束でした。新会社の株は分割払込で、申込人が最初に払う預託は額面の 10% 未満です。それでも株の値動きは額面全体に掛かります。1844 年から 1845 年の好況の間、新鉄道株の市場価格は払い込まれた額の平均 2 倍以上で、1845 年に認可された会社の price/par 比率は頂点で 4.36 に達しました。全額を払い込んだ株に換算すると 1.24 です。同じ会社の全額払込株と分割払込株は、未払込の額を割り引くと先物の関係で値付けされていました。値段そのものより梃子が収益を膨らませていた、というのがキャンベルの読みです。

申込から法成立後の最初の払込請求までの収益は、分割払込で平均 33.7%、全額払込なら 9.1% でした。1844 年に認可された会社では 57.5% と 16.6%、1847 年に認可された会社では −19.6% と −2.7% です。既存の会社も同じ市場にいました。グレート・ウェスタン鉄道の総収益指数は 1843 年 2 月の 1,000 から 1845 年 2 月の 1,817 へ上がり、1848 年 3 月に 979 まで戻っています。1845 年の配当は 8% でした。

誰が払い込んだのか。議会の名簿を数えたキャンベルとターナーによれば、1845 年の名簿は 24,844 人で 8,320 万ポンド、1846 年の名簿(2,000 ポンド超)は 12,533 人で 1 億 2,140 万ポンドです。資本の 30.7% を商人が、34.3% を紳士・軍人・貴族が、7.8% を法律家が、7.8% を金融業者が出しました。聖職者と女性は 1.2%、労働者階級は 0.1% です。上位 4 パーセンタイルが資本の半分を、上位 1% の 342 人が 31.3% を出し、上昇期と頂点の両方に投資した 3,248 人が 46.6% を出しています。スコットランドの申込人の 30.6% は銀行の株主でもありました。

預託金は現金で、大法官府の会計総監の名義でイングランド銀行に置かれました。引出しには約 10 日の予告が要ります。1846 年 1 月、この払込がシティの割引を止め、ハドソンは大蔵省証券や公債で預けさせればよいと提案しました。春の預託法の改正がそれを認めています。

払込請求は建設中に続きます。1847 年の請求は月に 140 万から 615 万ポンドで、同じ年に輸入穀物の代金は 15 か月で 3,356 万 3,476 ポンドに達しました。大蔵大臣は 11 月 30 日に、鉄道の支出が 1846 年上半期の 981 万 5,000 ポンドから下半期の 2,667 万ポンド、1847 年上半期の 2,577 万ポンドへ増え、同じ勢いなら下半期は 3,800 万ポンドに達したと述べ、穀物と鉄道で 15 か月に 8,000 万から 9,000 万ポンドが吸われた、と説明しました。損失の根は、オドリズコによれば、建設費が見積より約 50% 高く、営業費が収入の 4 割でなく約 5 割、収入が見積より 30 から 40% 低かったことにあります。公式の見込利益は 1830 年代の 10 から 15% に対し、資本の約 7% に過ぎませんでした。

イングランド銀行の公定歩合(1844〜1848 年)(%)0482.51844/931845/10/16株式市場の恐慌3.511/631846/83.51847/1/1441/2154/85.58/569/30810/25政府書簡711/22612/2512/2341848/1
イングランド銀行の公式の表(HISTORICAL SINCE 1694)。1844 年 9 月 7 日の 2.5% から 1847 年 10 月 25 日の 8.0% まで。各点は変更の日。 出所: Bank of England シート HISTORICAL SINCE 1694、1844〜1848 年の行
鉄道株指数(1844 年 1 月=1,000)(指数)09921,9841,0001844/1基準1,9841845/8/8頂点1,6231845/11 末6731850/4/19
Campbell–Turner の全鉄道指数(Railway Times の日次価格から算出、時価総額加重)。1845 年 8 月 8 日の 1,984 から 1850 年 4 月 19 日の 673 へ、66.1% の下落。 出所: Gareth Campbell, John D. Turner 2012 p.4, Fig.1(下落率は Campbell 2013 p.8)
1847 年の鉄道の払込請求(月)(百万ポンド)0366.151 月1.42 月3.5083 月3.26 月5.37 月2.288 月4.169 月3.7610 月政府書簡2.0411 月
エヴァンズが月ごとに記す英国線と外国線の払込請求。4・5 月は記述に無い。1 月の 615 万ポンドのうち英国線は 450 万。 出所: D. Morier Evans 1848 pp.54–56, 64–65, 71, 74, 98
議会が会期ごとに認可した鉄道の延長(マイル)02,2694,53891184380518442,70018454,53818461,35418473711848
オドリズコの年表による。1846 年は Return of Railway Acts 1844–47 では 4,593 マイル(株式資本 9,546 万ポンド)。認可の約 6 割が 1852 年までに建設された。 出所: Andrew Odlyzko 2010 pp.77–78, 注 215
英国の鉄道の累積投資資本と営業中の延長(百万ポンド)012324667.5184377.5184488.51845126.31846167.31847204.41848234.41849245.81850
オドリズコの Table 2。営業中の延長は 1843 年 2,044 マイル、1845 年 2,441、1847 年 3,945、1850 年 6,621。投資の年額は 1847 年に約 4,400 万ポンドで頂点。 出所: Andrew Odlyzko 2010 p.34, Table 2
63 → 199 → 562鉄道法案の申請件数1843 → 1844 → 1845 末・分母 議会への申請 原資料未読Gareth Campbell, John D. Turner 2012 p.4 注 11(Railway Times 経由)
1,263新計画の数(スパックマンの表)1845-11-17・分母 申請に至らないものを含む CT 注 12・Odlyzko p.141 と一致D. Morier Evans 1848 pp.21–22
5 億 6,320 万 3,000 / 5,913 万 6,300ポンド新計画の資本と要預託(スパックマンの表)1845-11-17・分母 1,263 社・額面 タイムズ社説は 1,428 線・7 億 124 万 3,208 ポンドD. Morier Evans 1848 p.22
815(606・121・83)11 月 30 日までに商務省へ提出された図面1845-11-30・分母 提出 ダルハウジーは「800 超」(Evans p.41)House of Commons 1846 c.190
1,984 → 1,623 → 673指数(1844-01=1,000)鉄道株指数1845-08-08 → 1845-11 末 → 1850-04-19・分母 著者の指数・時価 下落率 66.1%(Campbell 2013 p.8)Gareth Campbell, John D. Turner 2012 p.4 Fig.1
2.5 → 3.0 → 3.5 → 3.0 → … → 8.0 → 4.0%公定歩合1844-09-07 → 1845-10-16 → 11-06 → 1846-08-27 → … → 1847-10-25 → 1848-01-27・分母 Bank RateBank of England HISTORICAL SINCE 1694
900 万(見込)/ 800 万〜1,000 万 / 600 万〜700 万ポンド1846 年 1〜2 月の預託金の払込1846-01・分母 議会への預託・現金 議員の見積が三つ並ぶ。決算の数は未取得House of Commons 1846 cc.371, 374(H0123 c.131)
1845 年 118 本・5,600 万超 / 1846 年 9,546 万ポンド1845〜46 年の認可資本1845 / 1846・分母 議会認可・額面 1846 年の数は Return of Railway Acts 1844–47 を Odlyzko が引くHouse of Commons 1846 c.189(1846 年は Odlyzko 注 215)
615 万・140 万・350 万 8,000・320 万・530 万・228 万・416 万・376 万・204 万ポンド1847 年の払込請求(月)1847-01・02・03・06・07・08・09・10・11・分母 英国線と外国線・請求額 4・5 月は記述に無いD. Morier Evans 1848 pp.54–56, 64–65, 71, 74, 98
6,750 万 → 8,850 万 → 1 億 6,730 万 → 2 億 4,580 万ポンド累積投資資本(Odlyzko Table 2)1843 → 1845 → 1847 → 1850・分母 英国の鉄道 原統計は未読Andrew Odlyzko 2010 p.34 Table 2

何から分かるか

史料は 4 つの群に分かれます。第一に議会の記録。1846 年 1 月 23 日・26 日・29 日の下院の討論と 1847 年 11 月 30 日の大蔵大臣の演説、1844 年の鉄道規制法、1846 年の解散法と鉄道委員の法は、Hansard と legislation.gov.uk の原本で読みました。第二にイングランド銀行の公定歩合の公式の表。第三に同時代の刊行物で、エヴァンズ(1848)の『商業恐慌 1847〜1848』、トゥック(1848)の『物価史』第 4 巻、フランシス(1851)の『イギリス鉄道史』第 2 巻は、1845 年から 1847 年の節を読んでいます。第四に研究で、キャンベルとターナー(2012)とキャンベル(2013)は全文を、オドリズコ(2010)は序論・年表・結論と表を読みました。マッケイの 1852 年版は伝説の出どころとして読んでいます。

欠けているものもあります。申込人の数と職業は議会の名簿を数えたキャンベルとターナーに拠り、名簿の原本は読んでいません。株価指数は Railway Times の日次価格から著者らが作ったもので、原表は未読です。タイムズ 1845 年 11 月 17 日の表はエヴァンズとオドリズコが写したものを読みました。1846 年から 1848 年の払込請求の総額、損失の総額、破産の件数を数えた統計は、このファイルでは見つけていません。

研究の立場は分かれます。キャンベルとターナーは名簿から、資本の大部分を出したのは経験ある投資家で、内部者の投資は他より良い成績ではなかった、と結論します。キャンベルは、熱狂の中でも似た資産は整合的に値付けされており、収益を膨らませたのは分割払込の梃子だった、と見ます。オドリズコは、需要が期待収益に足りないことを示す量的な指標があったのに投資家が無視した「集団的幻想」を見て、市場は大いに非効率だったと論じます。1847 年の恐慌についても、大蔵大臣は穀物と鉄道への資本の吸収を主因とし、ラッセル卿は払込請求を重く見ず、反対派は 1844 年法と 4 月の銀行の締め付けを責め、トゥックは 1844 年 9 月からの低利が投機を助けたと評価し、オドリズコは恐慌が鉄道投資にほとんど影響しなかったとします。五つの見方は、いまも並んだままです。

なぜ多くの人が、事後に見て割の悪い鉄道株に投資したのかも、開いた問いです。キャンベルとターナーは、国債が増えず貯蓄の出口が乏しかったこと、上がる間に売り抜ける「バブルに乗る」行動、新技術の採用の確率が上がるにつれて将来の収益が高い率で割り引かれたこと、議会が 1845 年の秋に計画を絞らなかった政治の失敗を候補に挙げ、どれとも決めていません。

数の出どころは揃えています。公定歩合はイングランド銀行の表、認可延長と累積投資はオドリズコの表と年表、払込請求の月額はエヴァンズ、預託金の見積は下院の討論です。同じ出来事でも、公定歩合の 1847 年 9 月 30 日の 6%(銀行の表)と、9 月 23 日・10 月 1 日の告示(トゥックの 13 回の一覧)のように、告示の日と効力の日で記述が違います。本文では銀行の表の日付を使い、トゥックの一覧は年表に残しました。

何から分かるか — 史料の層

通俗書

参加者は素人か

Campbell–Turner 2012

経験ある投資家が資本の大部分。聖職者と女性は 1.2%

Gareth Campbell, John D. Turner 2012
Odlyzko 2010

「大半が株式市場の新参者」だった投資家が集団的幻想に囚われた

Andrew Odlyzko 2010
風刺と同時代の記述(Thackeray・Francis 1851)

未亡人・聖職者・召使い・中産階級

John Francis 1851

市場は非効率だったか

Odlyzko 2010

需要の量的指標があったのに無視された。大いに非効率

Andrew Odlyzko 2010
Campbell 2013

似た資産は整合的に値付けされ、収益は梃子で膨らんだ(近視眼的合理性)

Gareth Campbell 2013

1847 年恐慌の原因

大蔵大臣ウッド(1847-11-30)

穀物と鉄道への資本の吸収が不健全な信用の上に働いた

House of Commons 1847
反対討論(ケイリーほか)

ラッセル卿は払込請求を重視しない。原因は 1844 年法と 4 月の締め付け

House of Commons 1847
Tooke 1848

1844 年法の下で銀行が低利にしたことが投機を助けた

Thomas Tooke 1848
Odlyzko 2010

恐慌は鉄道投資にほとんど影響しなかった

Andrew Odlyzko 2010

よく聞く説明を確かめる

鉄道狂の逸話は、崩落の直後から作られました。サッカレーの風刺詩「投機家たち」と風刺紙、1848 年のエヴァンズ、1851 年のフランシスがその出どころで、マッケイは 1852 年の第 2 版で南海計画の章の末尾に注を足し、「南海計画は 1845 年まで商業的賭博への熱中の英国史上で最大の例であった。初版はその年と翌年の大鉄道狂の発生のしばらく前に刊行された」と書きました。

「未亡人と聖職者、貧しい素人が財産を失った」。フランシスは、息子が寡婦の母の金で賭け、商人が幼い娘の名で申し込み、召使いが貯蓄銀行から金を引き出した、と描きます。クランリカード侯が上院で挙げた、年 54 ポンドの半給将校が 4 万 1,500 ポンドを、ケントの助任司祭が 2 万 5,000 ポンドを申し込んだ例も、その像を裏書きしました。議会の名簿で数えると、聖職者と女性が出した資本は 1.2%、労働者階級は 0.1% です。ただしグレート・ウェスタン鉄道の名簿では、女性と未経験者は 1845 年から 1848 年の間に敗者になりやすく、商人と実業家は勝者になりやすい、という違いも数えられています。

「中産階級が総崩れになった」。出どころはフランシスの「他のどの恐慌もこれほど中産階級に致命的ではなかった、というのが事情に通じた人々の確信だ」と、エヴァンズの「貴族から農民まで、無傷で逃れた者はほとんどいない」です。数えられるのは、専門職と事務職が投資家の約 10%、資本の約 6% だったことまでで、損失の総額と破産の件数を数えた統計は見つかっていません。

「ブロンテ姉妹とダーウィンも損をした」。出どころはシャーロット・ブロンテの書簡で、1849 年の末に、額面 50 ポンドのヨーク・アンド・ノース・ミッドランド株が一時 120 に上がり数年 10% の配当を払ったが、いまは 20 だ、と書いています。ダーウィンの主な持株はロンドン・アンド・ノース・ウェスタンで、同じ時期に頂点から約 55% 下がっていました。書簡はオドリズコ経由で、原文は未読です。

「鉄道王ハドソンが一人で作り、一人で壊した」。ハドソンは 1832 年にヨーク市の保健委員、1837 年に市長となり、1845 年には記念金に約 2 万ポンドが申し込まれました。1849 年の告発は、1845 年 12 月に受け取った土地代 3 万 1,000 ポンドを自分の口座に入れたことなどを問い、フランシスは「彼と同僚がした行いのために、一人の名だけが晒された」と書きます。オドリズコは、1849 年の会計の露見で株価が底に達したとしつつ、損失の根は建設費と収入の見込違いにあり、一人を責めることは問題を隠す、と論じます。

「歴史上で最も大きなバブル」。マッケイの注、1856 年版の記述、エコノミストの 2008 年の記事がその系譜です。分母付きで言えるのは、1847 年の鉄道投資が約 4,400 万ポンドで国の予算に並び、GDP の 6.7% に当たったことまでです。

「内部者が素人を収奪した」「鉄道は泡だった」。前者について、キャンベルとターナーは内部者の投資が実業家や中産階級より良い成績ではなかったことを示し、収奪の証拠を見つけていません。後者について、認可の約 6 割は 1852 年までに建設され、営業中の鉄道は 1850 年に 6,621 マイルになっています。値段は崩れ、線路は残りました。

「未亡人と聖職者、貧しい素人が財産を失った」

誇張出どころ: サッカレー「投機家たち」・風刺紙・Francis 1851(寡婦の母の金・幼い娘・クランリカード侯の例)

Gareth Campbell, John D. Turner 2012 John Francis 1851

「中産階級が総崩れになった」

誇張出どころ: Francis 1851 p.195「他のどの恐慌もこれほど中産階級に致命的ではなかった」・Evans 1848 p.52・Bryer 1991

Gareth Campbell, John D. Turner 2012 John Francis 1851 D. Morier Evans 1848

「ブロンテ姉妹とダーウィンも損をした」

一部は事実出どころ: シャーロット・ブロンテの書簡(Odlyzko 経由)

Andrew Odlyzko 2010

「鉄道王ハドソンが一人で作り、一人で壊した」

誇張出どころ: 1849 年の告発と新聞、Yorkshireman 紙の小冊子(Odlyzko 注)、Francis 1851 第 7〜8 章

John Francis 1851 Andrew Odlyzko 2010 Gareth Campbell 2013

「歴史上で最も大きなバブル」

争いあり出どころ: Mackay 1852(注)・1856 年版、Economist 2008

Charles Mackay 1852 Gareth Campbell, John D. Turner 2012 Gareth Campbell 2013 Andrew Odlyzko 2010

「鉄道は泡だった」

一部は事実出どころ: 通説

Andrew Odlyzko 2010 Gareth Campbell 2013

「内部者が素人を収奪した」

裏付けなし出どころ: Bryer 1991・Thompson–Hickson 2004(CT 注 7)

Gareth Campbell, John D. Turner 2012

今とのつながり

この事件から今に残るのは、値段より構造です。額面の 1 割に満たない預託で額面全体の値動きに曝される分割払込の梃子、期限までに現金を集めさせる預託の規則、そして建設中に続く払込請求。値が上がる間は梃子が収益を膨らませ、金利が上がると同じ梃子が逆に回りました。これは繰り返す構造の頁の「信用には、何を差し出すのか」と「時間に値段をつける」で扱います。

新しい技術に投じられた資金が、どの時点で、誰に、どの手順で請求されるかは、制度ごとに違います。鉄道をドットコムや AI と一枚の絵に重ねると、この違いが先に消えます。

比較の限界

チューリップ狂とは、後世が語った「素人の熱狂」の像を一次記録が退けた点で並べられます。ゴールドガーが公証人の記録で参加者を数えたように、キャンベルとターナーは議会の申込人名簿で数えました。違うのは制度の場所です。鉄道株は議会の認可、預託、上場という制度の中にあり、球根の先渡し契約は酒場と公証人の外にありました。価格の資料も違い、球根には連続した相場表がありません。

1907 年の恐慌とは、信用が止まった場所に最後の貸し手の手が届かず、法の外側で手当てされた点で結べます。1847 年は政府の書簡で条例からの逸脱が認められ、1907 年は清算所の外にいた信託会社が委員会と財務省の預託で支えられました。仕組みも数も違うので、比較はこの構造に限ります。

1980 年代の日本の資産バブルとは並べません。土地と鉄道株は供給の伸び方が違います。マドフとも並べません。鉄道会社は実在の路線を建設しました。

史料

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