チューリップ・バブルは、どこまで本当か。
チューリップ狂 一六三六〜三七 / 1636〜1637 年 / ネーデルラント連邦共和国 / 熱狂・バブル
1630 年代のホラント州で、球根の値が数年で何十倍にもなり、1637 年 2 月 3 日に酒場の先渡し契約の市場が止まった。参加者・損失・法の対応を史料で数え直すと、400 年語り継がれた逸話の多くは崩落直後の風刺に由来する。
何が起きたか
1630 年代のホラント州で、チューリップの球根の値が数年のうちに何十倍にもなり、1637 年 2 月の初めに買い手が消えました。取引の多くは、球根がまだ土の中にある冬のあいだに、酒場で結ばれた先渡しの契約でした。崩れたのは花の値段というより、その契約の山です。
花そのものの人気は、事件の 40 年前から続いていました。ライデンでは 1590 年にホーヘランデが庭で育て、1593 年から植物学者クルシウスが同地で殖やします。1614 年にはルーメル・フィッスヘルが「愚か者と金はすぐに別れる」という句を添えて、チューリップに散財する人々を風刺しました。年代記作者ワッセナールは 1623 年、センペル・アウグストゥス 1 球が 1,000 グルデンで売れ、10 球に 12,000 グルデンの申し出が断られた、と記します。翌年は 1 球 1,200 グルデン、1625 年には 2,000 と 3,000 の申し出を持ち主が断りました。この頃の買い手は、値段からして富裕な愛好家に限られます。
1633 年、ホールンの年代記は取引が「狂乱」になったと書きました。1634 年 12 月ごろから球根は重さで値付けされ、1 アース(20 分の 1 グラム)あたりの単価が品種ごとに決まります。公証人の記録では、ハウダという品種の 1 アースが 1634 年 12 月に 30 スタイフェル、1635 年から 1636 年の冬に 2 グルデン 2 スタイフェル、1636 年 5 月に 3 グルデン 15 スタイフェルでした。
1636 年の秋から冬にかけて、各地の酒場に「コレヘ」と呼ばれる寄り合いができ、球根を持たない人々も紙の契約を売り買いするようになります。それまで見向きもされなかった普通の品種が、ポンド単位や 1,000 アース単位でまとめ売りされました。スウィツァーという普通品種 1 ポンドの値は、公証人の記録で 1637 年 1 月 15 日に 120 グルデン(言い値、断られた)、1 月 23 日に 385、2 月 1 日に 1,400、2 月 2 日に 1,500 と動きます。
2 月 3 日、火曜日。ハールレムの酒場で、1 ポンドのクローネンかスウィツァーを引取金つきで売りに出した男が、1,250 グルデン、1,100、1,000 と値を下げながら 3 度落札されました。同じ日の出来事を目撃者が対話体のパンフレットに書き残しています。翌日、取引は止まり、「誰もが互いの顔を見た」と記されました。ところがその 2 日後の 2 月 5 日、アルクマールでは亡くなった射撃会館の館主の遺児のために競売が開かれ、約 70 球と 1,000 アース単位の 27 口が合計 90,000 グルデンで落札されます。この落札表は印刷され、投機を擁護する側と攻撃する側の両方が引用しました。2 月 9 日、スウィツァー 1 ポンドは 1,100 グルデンに戻っています。
その後の処理は、花商人・都市・州のあいだを行き来しました。2 月 7 日にユトレヒトの花商人 36 人が代表を選び、2 月 24 日にアムステルダムで 10 都市の代表が公証人の前で取り決めます。1636 年 11 月 30 日までの売買は履行し、それ以後の契約は買い手が代金の 1 割を払えば 3 月中に解約できる、という内容でした。アムステルダムの代表は署名せず、拘束力もありません。3 月 7 日、ハールレム市は風刺の歌と文書の販売を禁じ、同じ日に前年 10 月の植え付け以降の取引をすべて無効にするよう勧告しました。諸都市の請願を受けた州議会はホラント州裁判所に諮り、裁判所は 4 月 25 日、情報が足りないとして市当局に当事者の和解を委ね、その間は売り手が催告のうえ買い手の危険負担で球根を保持または売却してよい、契約はすべて停止する、と答申します。州議会は 4 月 27 日にそのまま決議しました。
争いの多くは当事者同士で、代金の 5 分ないし 1 割で片づきました。それでも残った紛争のために、ハールレム市は 1638 年 1 月に 5 人の委員会を置き、5 月 28 日にその裁定へ拘束力を与え、固定の解約金を契約価格の 3.5% と定めます。売り手は球根を手元に残しました。これが、風の商いに関する最後の公文書です。
- 1623
- ワッセナールの年代記: Semper Augustus 1 球が 1,000 グルデンで売れ、10 球に 12,000 グルデンの申出が断られる
- 1625
- Semper Augustus の持ち主が 1 球 2,000 と 3,000 グルデンの申出を断る
- 1633
- ホールンの年代記が、球根の取引が「狂乱」になったと記す
- 1634
- 12 月球根が重さ(aas)で値付けされるようになる
- 1636
- 11 月酒場の集会(コレヘ)に普通品種の先物市場が生まれる Peter M. Garber 1990
- 1637
- 1 月 23 日Switsers 1 ポンド 385 グルデン(公証人記録)
- 2 月 2 日Switsers 1 ポンド 1,500 グルデン
- 2 月 3 日火曜日、ハールレムの酒場で買い手が値を下げながら 3 度落札。翌日、取引が止まる
- 2 月 5 日アルクマールの遺児のための競売で合計 90,000 グルデン
- 2 月 7 日ユトレヒトの花商人 36 人が代表を選ぶ
- 2 月 24 日アムステルダムで 10 都市の代表が協定(11 月 30 日以降の契約は 10% で解約可・拘束力なし)
- 3 月 7 日ハールレム市が風刺文書を禁じ、前年 10 月以降の取引の無効化を勧告
- 3 月 17 日崩落後も 11,700 グルデンの球根売買が公正証書で結ばれる
- 4 月 25 日ホラント州裁判所が「市当局が当事者を和解させよ。契約は停止」と答申
- 4 月 27 日ホラント州議会が答申どおり決議
- 5 月 1 日ハールレム市が公証人の抗議書作成を禁じる(支払猶予)
- 1638
- 1 月ハールレム市が 5 人の紛争委員会を置く
- 5 月 28 日委員会の裁定に拘束力。固定解約金を契約価格の 3.5% と定める
お金はどう動いたか
売られたのは球根です。ただし冬のあいだ球根は土の中にあり、掘り上げて渡せるのは 5 月か 6 月でした。代金の授受もその時です。したがって 1636 年の夏以降に紙の上で買い、紙の上で売った人は、2 月に値が崩れても現金を失っていません。困ったのは、支払いを待つ側と、引き取りを約束したまま転売先を失った側でした。
高価な品種は 1 球ずつ、重さを申告して売られます。重さが値を決めるので、持っていない球根を売ることは難しい。しかし普通の品種はポンド単位、1,000 アース単位で売られ、この形なら現物の裏付けなしに契約だけを回せます。同時代の花商人自身が、この「アースとポンド売り」をやめよと嘆いた文書が残っています。
酒場の集会には 2 つの売り方がありました。買いたい品種を板に書いて仲裁人 2 人が値を決める「板で」の方式と、売り手が数スタイフェルの景品を輪の中に置いて競りにかける「輪の中で」の方式です。どちらでも、買い手は 1 グルデンにつき半スタイフェル、上限 3 グルデンの「酒代」を払います。この酒代が集会の飲食に消えました。書記も仲裁人も、売り手が本当に球根を持っているかは確かめません。織工から花商人になった対話体パンフレットの登場人物は、4 か月で 60,000 グルデンを儲けたと言い、受け取ったかと問われて「人々の手書きの証文だけ」と答えます。
銀行の貸出はこの市場に入っていません。代金の一部を牛や織物、銀の杯、馬車と馬で払う契約は公証人の記録にありますが、それは買い手が持っている物を売り手が欲しがった場合に限られます。アムステルダムの取引所も、東インド会社の株も、為替も、この事件では動いていません。
参加者を文書で数えたゴールドガーの調査では、300 グルデン以上を球根に使った人物は 37 人です。300 グルデンは親方職人の年収にあたります。最高値の球根は約 5,000 グルデンで、設備の整った家一軒分でした。買い手の連鎖は 5 人より長いものが見つからず、売り手は知り合いに売っています。クレラーヘは職業的な栽培者がごく少数だったこと、織工が目立ったことを記します。
値段の系列は乏しく、経済学者ガーバーは 1637 年 2 月 5 日を頂点として、その後の下落率を 18 世紀の高級球根の値下がりと比べました。1637 年から 1642 年の年平均下落率は 32%、18 世紀の球根は 28.5%。ガーバーはこの差から、崩落そのものの寄与は最大でも 16% の下落だと論じます。これは一つの解釈で、球根の値が新品種の宿命として下がるという前提に立っています。
何から分かるか
同時代の史料は 4 つの群に分かれます。第一に公証人の記録。ポストフムスが 1920 年代に抜粋を刊行し、1634 年から 1637 年の個々の契約と、崩落後の紛争処理が読めます。第二に 1637 年 2 月 5 日のアルクマール競売の印刷された落札表。第三に 1637 年 2 月から 5 月に出た 3 つの対話体パンフレット『ワールモントとハールフートの対話』と、風刺の歌と文書 40 篇余り。第四に市と州の公文書で、ハールレム市の 3 月 7 日の決議、州裁判所の 4 月 25 日の答申、州議会の 4 月 27 日の決議、1638 年 5 月 28 日の委員会規程が該当します。
これらには偏りがあります。パンフレットの大半は投機を攻撃する側が出したもので、擁護する側の文書『フローラの舞台』は少数です。公証人の記録は争いになった契約に偏ります。センペル・アウグストゥスは取引記録にほとんど現れず、伝えられる高値の多くは申し出であって成約ではありません。連続した相場表は存在せず、値段は品種と重さごとに散在しています。
研究は 3 つの立場に分かれます。ガーバー(1990)は希少品種の高値を市場の実勢で説明し、バブルと呼ぶことに反対します。トンプソン(2007)は先物契約が事後にオプションへ変えられた「契約上の人為物」と見ます。ゴールドガー(2007、2018)は公証人記録と破産記録から参加者を数え、非合理な熱狂という像を退けつつ、値上がりの事実と、供給過剰への懸念から崩れた経緯を認めます。3 者は同じ史料を読んで違う結論に達しており、このファイルはどれか一つを事実として採りません。
クレラーヘ(1942)は球根業者の側から書かれた最も詳しい通史で、品種、図帳、集会の仕組み、市と州の処理を一次資料に即して記します。本文の日付と金額の多くはこの書に拠ります。トンプソンの論文とゴールドガーの単行本は、このファイルの作成時点では書誌の確認に留まっています。
研究
通俗書
- Memoirs of Extraordinary Popular Delusions (vol. 1) 俗説の出どころとして扱う。証拠には使わない
バブルだったか
市場の実勢で説明可能。崩落の寄与は最大 16%
Peter M. Garber 1990先物がオプションへ変わった契約上の人為物
Earl A. Thompson 2006非合理ではない。ただし価格は上がり、最初の 5 週間の持続不能が崩落を招いた
Anne Goldgar— The Conversation 2018崩落の原因
素人の参入と恐慌
Charles Mackay 1841供給過剰の懸念と値上がりの持続不能
Anne Goldgar— The Conversation 2018ペストの役割
宿命論的な無関心が賭けへ向かわせた
Ernst Heinrich Krelage 1942最大の値上がりは流行の減退期で、説と合わない
Anne Goldgar— The Conversation 20183½% は誰の裁定か
ハールレム市委員会が 1638-05-28 に固定解約金として定めた。当事者間では 5〜10% が多かった
Ernst Heinrich Krelage 1942契約をオプションへ転換した措置と解釈(未読)
Earl A. Thompson 2006よく聞く説明を確かめる
チューリップ狂について語られる逸話の多くは、崩落直後の風刺から 18 世紀末のベックマン『発明の歴史』を経て、1841 年のマッケイ『異常な大衆の妄想』に集められました。マッケイの章は 20 世紀の金融の教科書やウェブサイトに写され続けています。以下、その主なものを史料と突き合わせます。
「1 球で家が買えた」。ゴールドガーが特定した最高値は約 5,000 グルデンで、設備の整った家一軒分に当たります。センペル・アウグストゥス 1 球が 4,600 グルデンと新しい馬車、馬 2 頭で売られた契約は公証人の記録にあり、マッケイもこれを伝えています。ただしそれは頂点の話で、300 グルデン以上を使った人は 37 人です。
「船乗りが球根を鰊のつまみに食べた」。マッケイはブランヴィルの旅行記から引いていますが、球根を玉葱と間違えた話は 1570 年ごろのアントウェルペンの商人についてクルシウスが伝えた古い逸話で、1637 年の出来事ではありません。
「小麦 2 ラスト、ライ麦 4 ラスト、牛 4 頭、豚 8 頭、羊 12 頭、ワイン 2 樽、ビール 4 樽、バター 2 樽、チーズ 1,000 ポンド、寝台、衣服、銀杯、合計 2,500 グルデン」。マッケイはムンティングを引いて、これがヴァイスロイ 1 球の代価として支払われたと書きます。しかしこの一覧は 1636 年のパンフレット『愚かさの明白な暴露』が「1 輪の花の値段でこれだけ買える」と示した例で、成立した取引ではありません。後の語り手がヴァイスロイの取引に結びつけました。
「煙突掃除から貴族まで誰もが参加した」。1637 年の風刺の歌には 80 ほどの職業が列挙されています。作者自身がそれを証明できたわけではない、とクレラーヘは注記します。マッケイの「船員、従僕、女中、煙突掃除、古着売り」はこの歌の系譜にあります。文書で確認できる大口の買い手は商人層と熟練職人で、多くは家族や宗派や近隣で結ばれていました。
「破産者が運河に身を投げた」。ゴールドガーは破産記録にチューリップ起因と特定できる破産者を見つけていません。損失の実例として文書に残るのは画家ヤン・ファン・ホイエンで、1637 年 1 月 27 日と 2 月 4 日に約 900 グルデン分の球根と絵画 2 点の引き渡しを約束し、1641 年になっても払い終えていませんでした。彼は家屋の投機も行っており、1656 年に破産状態で没しています。
「オランダ経済は壊滅し、回復に長年を要した」。マッケイはそう結びます。しかし 1637 年 3 月 17 日には 11,700 グルデンの球根売買が 3 回払いで公正証書に結ばれており、球根は無価値になっていません。クレラーヘは回復の速さを記し、ガーバーは同時代の史書がこの時期を黄金時代として扱うと述べ、ゴールドガーはオランダ経済が影響を受けなかったと結論します。
「同じ球根が 1 日に 10 回転売された」。クレラーヘもこの言い回しを受け継いでいますが、出典を示していません。ゴールドガーは 5 人を超える連鎖を見つけていません。
そもそも同時代人は、この出来事を「風の商い」と呼び、崩落を「フローラの死」と歌いました。バブルという語で語るのは後世です。
「一個の球根で家が一軒買えた」
一部は事実出どころ: 1637 年パンフレット → Mackay
「球根を食べてしまった船乗りがいた」
裏付けなし出どころ: 1570 年ごろの古典的な逸話(Clusius)→ Mackay
Ernst Heinrich Krelage 1942 Anne Goldgar— The Conversation 2018
「同じ球根が一日に 10 回転売された」
争いあり出どころ: Krelage も記す通説
Ernst Heinrich Krelage 1942 Anne Goldgar— The Conversation 2018
「一球のために小麦・牛・豚・羊・ワイン・ベッド・銀杯(合計 2,500 グルデン)が支払われた」
裏付けなし出どころ: 1636 年パンフレット『Clare ontdeckingh』の例示 → 後世が取引として転記 → Mackay
今とのつながり
この事件から今に残るのは、値段の記録より、物語の作られ方です。風刺として書かれた誇張が歴史として写され、教科書に載り、そのまま 400 年語り継がれました。史料に戻ると、参加者の数、損失の範囲、法の対応のどれもが伝承より小さく、また具体的です。
仕組みの面では、3 つの点が現代の市場を読むときの手がかりになります。現物の裏付けを要しない契約の形(ポンド売り)、売り手の持ち分を誰も確かめない取引の場、そして支払いが引き渡しまで延びることで損失が帳簿上に留まった決済の遅れです。値段の高さそのものより、これらの構造がどこにあるかを見る方が、比べる相手を選ぶときに役立ちます。
比較の限界
チューリップ狂は「バブルの代名詞」として、あらゆる相場の高騰に引き合いに出されます。しかしこの事件と比べられるのは、物語がどう作られたかと、参加者の層を記録で数える方法に限られます。銀行も国家財政も決済網も関わっておらず、信用やレバレッジの記録もほとんどありません。体系的な金融危機や、国家の負債と結びついた紙幣の実験と並べると、外形の似た点だけが先に立ちます。
1840 年代の英国の鉄道株については、投資家名簿から「素朴な投資家」像を退けた研究があり、方法の上で本件と対になります。ジョン・ローの体系は同じ 17 世紀と 18 世紀の低地諸国とフランスで、契約や株が実体から離れて値を持った点で近く、国家の中枢で起きた点で遠い。いずれも似ている点と違う点を並べたうえで、同一視を避けて読む必要があります。
史料
- Samen-spraeck tusschen Waermondt ende Gaergoedt, nopende de opkomste ende ondergangh van Flora 匿名(印刷: Adriaen Roman, Haarlem)— オランダ王立図書館のスキャン・1637・史料を開く
- Bloemenspeculatie in Nederland. De Tulpomanie van 1636-'37 en de Hyacintenhandel van 1720-'36 Ernst Heinrich Krelage — DBNL(デジタル・オランダ文学図書館)・1942・史料を開く
- The Tulip Mania in Holland in the Years 1636 and 1637 N. W. Posthumus — Journal of Economic and Business History 1(3)・1929-05・史料を開く
- Famous First Bubbles Peter M. Garber — Journal of Economic Perspectives 4(2)・1990-05-01・史料を開く
- The tulipmania: Fact or artifact? Earl A. Thompson — Public Choice 130(1–2)・2006-08-30・史料を開く
- Tulipmania: Money, Honor, and Knowledge in the Dutch Golden Age Anne Goldgar — University of Chicago Press・2007・史料を開く
- Tulip mania: the classic story of a Dutch financial bubble is mostly wrong Anne Goldgar(King's College London)— The Conversation・2018-02-12・史料を開く
- Memoirs of Extraordinary Popular Delusions (vol. 1) Charles Mackay — Internet Archive のスキャン・1841・史料を開く