日本語
ログイン 入学案内
NOMISMA SCHOLA
教本で読む 教本航路コラム映像・朗読
科目で深める 科目
実物で確かめる 実物調べる用語集史料室実技
構造で考える 構造事件
学校について はじめに教員窓口学問の地図
入学案内 ログイン

言語
CASE FILES

中央銀行がないとき、誰が最後に貸すのか。

一九〇七年恐慌 / 1907 年 10 月〜1908 年 1 月 / アメリカ合衆国(ニューヨーク) / 信用・流動性・金融危機

1907 年 10 月、ニューヨークの信託会社に取り付けが起きた。信託会社は州免許で、小切手決済の中心である清算所に加わらず、現金準備は預金の 5% 前後(国法銀行は 25%)だった。10 月 22 日に第 3 位の Knickerbocker Trust が 3 時間で 800 万ドルを払い出して営業を止め、コール金利は年率 9.5% から 70%、2 日後に 100% へ跳ねた。清算所は 10 月 26 日に貸付証書(総額 1 億 106 万ドル)の発行を決めると同時に預金の現金化を制限し、財務省は 10 月 19〜31 日に 3,600 万ドルを銀行へ預託し、11 月に 5,800 万ドルの金が輸入された。現金に上乗せが付いた 2 か月のあと、1908 年 1 月 1 日に現金の支払いが戻った。1908 年 5 月 30 日の Aldrich–Vreeland 法が国家通貨委員会を設け、1913 年 12 月 23 日に連邦準備法が成立した。

何が起きたか

1907 年の秋、ニューヨークの信託会社の窓口に列ができました。信託会社は州の免許で営み、銀行と預金を奪い合いながら、小切手決済の中心である手形交換所(ニューヨーク清算所)には加わっていません。決済の量が少ないことを理由に、預金に対する現金の準備は 5% 前後で、国法銀行の 25% とは開きがありました。1890 年に市の国法銀行の半分だった信託会社の貸出は、1906 年には同じ規模に育っています。信託会社は株式仲買人に担保なしの日中貸付を行い、仲買人はその日に買った株を担保に国法銀行から翌日物のコールローンを借りて返す。信託会社は株式市場の最初の流動性の出し手でした。

10 月 16 日、鉱山会社 United Copper の株の買い占めが失敗し、仕掛けた Heinze と Morse に関係する銀行から預金が逃げ始めます。清算所は会員行を検査し、10 月 20 日に支払能力を公表して、経営陣の退陣を条件に支援しました。関係した会員 5 行の預金は 10 月 12 日で 5,600 万ドル、会員行は 1,000 万ドルの基金を用意し、10 月 21 日には整理が済んでいます。Sprague はこの銅の賭けを「通常なら公的な重要性を持たない」出来事と書き、この時点まで危機と呼べるものは無かった、と記しました。

危機は非会員から始まりました。預金 6,200 万ドルで市内第 3 位の Knickerbocker Trust の社長が Morse の仲間だと 10 月 18 日に報じられ、10 月 21 日、清算代行を務めていた National Bank of Commerce が翌日からの打切りを発表します。同じ日、清算所は非会員への融資を断り、J. P. Morgan も、Benjamin Strong の短時間の帳簿調査では支払能力を判定できないとして支援を断りました。取締役会は社長を解任します。22 日火曜、3 時間の取り付けで 800 万ドルを払い出したあと、Knickerbocker は営業を止めました。

翌 23 日、預金 6,400 万ドルで第 2 位の Trust Company of America に取り付けが向かい、この日 1,200 万ドル、翌日 900 万ドル、2 週間で 3,400 万ドルが引き出されます。木曜からは Lincoln Trust にも列ができました。コール金利は 22 日に年率 9.5% から 70% へ、24 日に 100% へ跳ね、その金利でも貸し手がいない時間がありました。Morgan は考えを変え、24 日に 2,500 万ドルの資金を集めて取引所の貸付窓口へ届け、25 日にも 1,000 万ドルを集めます。23 日には信託会社の社長 5 人の委員会ができ、信託会社が持ち寄った債券を国法銀行に渡し、それを担保に国法銀行が政府の預金を受けて、日ごとに資金を回しました。11 月 6 日、両社の株の過半が委員会の管理下に入り、営業を続ける財務上の手当てができたと発表されて、列は解けました。

清算所が動いたのは 10 月 26 日土曜です。この日の正午に貸付委員会が任命され、非常時に備えて保管してあった白紙の貸付証書で発行が始まりました。同じ日、清算所の銀行は預金の現金化を制限し、個別の銀行の統計の公表も止めます。清算所の会長は後に、証書を出せば全国の現金支払いが止まると分かっていたので日ごとに先送りし、準備が 5,300 万ドルの不足を示してから踏み切った、と弁明しました。Sprague は火曜までに証書を出さなかったことを、この危機で最も重大な誤りと評しています。

28 日月曜、各地の清算所が追随します。人口 2 万 5 千以上の 145 都市のうち 71 で貸付証書や小切手の代用物が使われ、およそ 3 分の 2 の都市で現金の支払いが制限されました。ネバダ州知事は 24 日から、オレゴン州知事は 28 日から法定休日を宣言し、カリフォルニアでは 10 月 31 日から 12 月 21 日まで 7 週間を超えて債務の支払いが止まります。清算所証書を出したのは 106 の清算所のうち 50 都市、総額 2 億 4,828 万ドル、ニューヨークだけで 1 億 106 万ドルでした。

10 月 31 日、ニューヨークで現金に上乗せが付きます。現金 1 ドルを手に入れるのに認証小切手で 1 ドル以上を払うという状態が 2 か月続き、上乗せは最高 4% に達しました。同じ 11 月、為替相場は金の輸出点を超えていたのに 6,300 万ドルを超える金が輸入されます。商品の輸出が 2 か月で 4 億 1,160 万ドルに膨らみ、その手形が金を呼びました。イングランド銀行は公定歩合を 7% へ上げます。上乗せは 12 月 28 日に消え、1908 年 1 月 1 日に現金の支払いが戻り、1 月 30 日に最後の証書が出て、3 月 28 日にすべて償却されました。

信託会社の預金は 8 月 22 日から 12 月 19 日までに 36% を超えて減り、国法銀行の預金は増えています。Knickerbocker は 1908 年 3 月に 240 万ドルの増資で再開しました。1908 年の鉱工業生産は 17%、実質 GNP は 12% 減り、回復は 1 年余りでした。1908 年 5 月 30 日、議会は Aldrich–Vreeland 法で証券を担保にした緊急の銀行券と国家通貨委員会を設け、1913 年 12 月 23 日に連邦準備法が成立します。

出来事の順 出所: O. M. W. Sprague 1910
  1. 1903
    • 清算所が会員経由で清算する信託会社に準備の積み増しを求め、ほぼ全ての信託会社が清算特権を返上(Knickerbocker を除く)
  2. 1906
  3. 1907
    • 5 月NBER の景気の山 Carola Frydman, Eric Hilt, Lily Y. Zhou 2012
    • 8 月 22 日通貨監督官への報告日。国法銀行の現金 7 億 160 万ドル。Knickerbocker の準備 474 万 5,000 ドル
    • 10 月 16 日United Copper 株の買い占めが失敗。Mercantile National に取り付け Federal Reserve History 2015
    • 10 月 19 日Morse 系 2 行が清算所に支援を要請。清算所の検査
    • 10 月 20 日清算所が Heinze–Morse 系会員行の支払能力を公表し、経営陣を追放 Federal Reserve History 2015
    • 10 月 21 日Mercantile が新経営陣で再開。National Bank of Commerce が Knickerbocker の清算代行打切りを発表、清算所と Morgan が支援を断り、社長解任
    • 10 月 22 日Knickerbocker が 3 時間で 800 万ドルを払い出して営業停止。コール金利 9.5% → 70%
    • 10 月 23 日Trust Company of America に取り付け(1,200 万ドル)。信託会社社長 5 人の委員会
    • 10 月 24 日Trust Company of America 900 万ドル。Morgan の 2,500 万ドルの資金プール。財務省が 2,500 万ドルを預託。コール金利 100%。ネバダ州が法定休日(〜11 月 4 日)
    • 10 月 25 日1,000 万ドルの第二のプール。First National Bank of Brooklyn が閉鎖
    • 10 月 26 日清算所が貸付証書の発行を決め、現金化を制限。個別行の統計公表を停止 Gary Gorton, Ellis W. Tallman 2016
    • 10 月 28 日各地の清算所が追随。オレゴン州が法定休日 A. Piatt Andrew 1908
    • 10 月 31 日現金の上乗せが始まる(〜12 月 31 日)。カリフォルニア州が法定休日(〜12 月 21 日) A. Piatt Andrew 1908
    • 11 月 2 日清算所の銀行の準備不足 3,800 万ドル
    • 11 月 4 日信託会社への取り付けが沈静 Gary Gorton, Ellis W. Tallman 2016
    • 11 月 6 日Trust Company of America と Lincoln Trust の株の過半が委員会の管理下に
    • 11 月 19 日財務省がパナマ債 5,000 万ドルと 3% 証書 1 億ドルを募集
    • 12 月 3 日通貨監督官への報告日。公金預託 2 億 2,311 万ドル。貸付証書が報告に現れる Office of the Comptroller of the Currency, U.S. Treasury Department 1908
    • 12 月 19 日信託会社の預金が 8 月 22 日から 36% 超減 Federal Reserve History 2015
    • 12 月 28 日現金の上乗せが 0 に Gary Gorton, Ellis W. Tallman 2016
  4. 1908
  5. 1913
  6. 1914

お金はどう動いたか

動いたのは現金でした。信託会社の預金は要求払いで、預金者はいつでも現金を求められます。準備が 5% 前後ということは、預金の 5% が引き出されれば手元の現金が尽きるという意味です。銀行なら清算所から貸付証書を受け、証書で清算尻を払って現金を温存できます。信託会社にはその仕組みも、互いに助け合う組織もありませんでした。Knickerbocker は 1903 年に清算所が信託会社へ準備の積み増しを求めたとき、清算特権を返上しなかった一社でしたが、それでも非会員でした。

現金を出したのは、まず財務省です。10 月 24 日木曜に 2,500 万ドルがニューヨークの銀行へ預託され、10 月 19 日から 31 日までに 3,600 万ドル、うち 3,070 万ドルが大手 6 行に入りました。11 月 2 日までの 2 週間に銀行が払い出した現金の半分は政府から来た、と Sprague は数えています。8 月から 12 月までの政府預金の純増は 7,200 万ドル、12 月 3 日の国法銀行の公金預託の残高は 2 億 2,311 万ドルでした。国法銀行法には恐慌時の指針が無く、財務省は明文の規定なしに長官の判断で動いています。11 月 19 日には 2% のパナマ債 5,000 万ドルと 3% の証書 1 億ドルを募集して銀行券の担保に充てようとしましたが、受理は債券 2,463 万ドル、証書 1,544 万ドルに留まりました。

次に清算所の証書です。会員行が商業手形や証券を委員会に預け、証書を受け取って清算尻の支払いに使う。証書は会員全体の連帯債務で、金利は 6%、担保は 4 億 5,300 万ドル(商業手形 3 億 3,000 万ドル・証券 1 億 2,300 万ドル)に及びました。発行は 1 億 106 万ドル、残高の頂点は 8,842 万ドルで、52 行のうち 32 行が使っています。10 月の最後の 5 日で清算尻の 84%、11 月は 96% が証書で決済されました。証書は市中に出ず、銀行の間で現金の移動を省くだけです。その分、銀行は貸出を増やせました。清算所の銀行の貸出は 3 週間で 1 億 1,000 万ドルを超えて増え、信託会社と地方銀行が引き揚げたコールローンを肩代わりします。

第三に金です。11 月に 5,800 万ドル、12 月に 3,800 万ドルの金がニューヨークに着き、8 月末から 12 月初めの金の増加 9,000 万ドルのうち 7,000 万ドルが輸入でした。金は借りたのではなく、輸出の増加で得た手形と引き換えに来ています。第四に現金の代用物です。清算所小切手、出納係小切手、給与小切手が各地で刷られ、記録のあるものだけで 3 億 3,400 万ドル、Andrew は未報告分を含めて 5 億ドルを超えると見積もりました。ピッツバーグでは 1 ドル札と 2 ドル札の形の給与小切手が 4,700 万ドル出ています。その大半は国法銀行法が禁じる私製の紙幣で、州法銀行券への 10% の税も掛からず、誰も訴追しませんでした。

現金はどこへ行ったか。8 月 22 日から 12 月 3 日までに、ニューヨーク市の国法銀行の現金は 4,300 万ドル減り、他の国法銀行は 200 万ドル増えています。政府預金・金輸入・銀行券の増発を合わせて、少なくとも 2 億 3,300 万ドルの通貨が銀行から姿を消しました。貸金庫は 10 月 22 日から 25 日の 4 日で市内 33 社に 789 箱貸し出され、通常の 6 倍でした。借りたのは小口の預金者ではなく給与を現金で払う事業者だった、と貸金庫会社は答えています。南部と西部の銀行は法定の 2 倍を超える現金を抱え込み、中央準備都市の銀行が 5,800 万ドルを失う裏で、地方銀行は 4,700 万ドルを積み増しました。最後に払ったのは、信託会社と結びついた企業です。被害の大きい信託会社と取締役を共有する小さな企業は、株価が 10.4 ポイント下がり、投資率は半分近くに落ちて、その減少は 1908 年の法人投資の減少 7 億ドルの 18.4% を占めました。

清算所貸付証書の残高(週末)(百万ドル)044871.310/1916.6110/26発行開始57.23511/280.18511/1684.59511/3087.3212/1486.49512/2868.3451/1124.121/185.5552/1
Gorton–Tallman の表 5 の週次の値から隔週を置く。発行の初日は 10 月 26 日、最終償却は 1908 年 3 月 28 日。 出所: Gary Gorton, Ellis W. Tallman 2016 表 5
ニューヨークの純金輸入の累計(百万ドル)0521035.50811/926.61911/1639.03211/2355.57811/3069.38912/778.85612/1484.5612/2188.67512/2897.7631/4101.391/11103.0952/1
Gorton–Tallman の表 5。10 月 26 日週と 11 月 2 日週は純輸出(−1.285・−1.765)で図には置かない。 出所: Gary Gorton, Ellis W. Tallman 2016 表 5
現金の上乗せ(週の高値)(%)024010/26311/210 月 31 日に始まる411/9411/163.511/231.7511/30212/71.512/141.2512/211.2512/280.3751/401/11再開後
Gorton–Tallman の表 5。Andrew の日次表では 11 月 6 日・12 日・13 日に 4%、12 月 31 日に「上乗せなし」。 出所: Gary Gorton, Ellis W. Tallman 2016 表 5
コールマネー金利(週の高値・年率)(%)0631251010/1912510/2622 日に 70%・24 日に 100%(Fed History)7511/22511/91511/161211/302512/142512/2891/1131/25
Gorton–Tallman の表 5。Fed History の図 1 は日次で 10 月 22 日 70%、24 日 100% と記す。 出所: Gary Gorton, Ellis W. Tallman 2016 表 5
約 5%(国法銀行 25%)%信託会社の現金準備率1907・分母 預金Federal Reserve History 2015 本文
15%(うち 3 分の 1 が現金)%州法の信託会社準備義務1906 年〜・分母 預金Carola Frydman, Eric Hilt, Lily Y. Zhou 2012 注 11
6,200 万ドルKnickerbocker の預金1907-10・名目O. M. W. Sprague 1910 p. 251
800 万(3 時間)ドルKnickerbocker からの引出し1907-10-22・名目 Fed History は「800 万ドル近く」O. M. W. Sprague 1910 p. 251
預金 6,400 万・2 週間で 3,400 万ドルTrust Company of America の預金と引出し1907-10-23 〜・名目O. M. W. Sprague 1910 p. 253
9.5% → 70% → 100%年率 %コール金利1907-10-22 → 10-24 Gorton–Tallman 表 5 の 10 月 26 日週の高値は 125%Federal Reserve History 2015 本文・図 1
3,600 万(うち 10 月 24 日に 2,500 万)ドル財務省の預託1907-10-19 → 10-31・名目O. M. W. Sprague 1910 pp. 262–265(Senate Doc. 208)
7,200 万ドル政府預金の純増1907-08-22 → 12-03・名目A. Piatt Andrew 1908 p. 293
2 億 2,311 万 7,082.61ドル国法銀行の公金預託残高1907-12-03・名目Office of the Comptroller of the Currency, U.S. Treasury Department 1908 p. 5
発行 1 億 106 万・最大残高 8,842 万ドル清算所貸付証書(ニューヨーク)1907-10-26 → 1908-03-28・名目Office of the Comptroller of the Currency, U.S. Treasury Department 1908 pp. 64–65
2 億 4,827 万 9,700ドル清算所証書(全国 50 都市)1907-10 → 1908-01・名目Office of the Comptroller of the Currency, U.S. Treasury Department 1908 p. 64
3 億 3,400 万ドル現金の代用物(記録あり)1907-10 → 1908-01・名目 未報告分を含めれば 5 億超と Andrew は見積もるA. Piatt Andrew 1908 p. 515
最高 4%%現金の上乗せ1907-10-31 → 12-31・分母 現金 1 ドルA. Piatt Andrew 1908 pp. 290–293
11 月 5,800 万・12 月 3,800 万ドル金輸入1907-11 → 12・名目 Andrew は 11 月に 6,300 万超O. M. W. Sprague 1910 p. 283
2 億 3,300 万ドル銀行から消えた通貨1907-08 → 12・名目A. Piatt Andrew 1908 p. 293
36% 超%信託会社預金の減少1907-08-22 → 12-19・分母 ニューヨーク市の信託会社預金・名目Federal Reserve History 2015 注 12
平均 32.1%(関係あり 11 社 53.4%・無し 27 社 23.4%)%信託会社預金の減少(38 社)1907-08-22 → 12-19・分母 各社の預金・名目Carola Frydman, Eric Hilt, Lily Y. Zhou 2012 表 1
鉱工業生産 −17%、実質 GNP −12%%実体経済1908・分母 前年比・実質 Frydman らの注 1 は −16%・−11%。原典未読Federal Reserve History 2015 注 16(Tallman 2013)
240 万ドルKnickerbocker の増資1908-03・名目Federal Reserve History 2015 注 5
1 億 5,000 万(受理 2,463 万+1,544 万)ドル財務省の証券募集1907-11-19・名目O. M. W. Sprague 1910 p. 316
1 億 2,850 万(法人投資の減少 7 億の 18.4%)ドル投資減少への寄与1908・分母 非金融法人の投資減少・名目Carola Frydman, Eric Hilt, Lily Y. Zhou 2012 要旨・§5

何から分かるか

史料は四つの層に分かれます。第一に法です。1908 年 5 月 30 日の Aldrich–Vreeland 法(35 Stat. 546)は全 20 条を、1913 年 12 月 23 日の連邦準備法(38 Stat. 251)は第 1 頁を、政府出版局の govinfo の写しで読みました。第二に公文書です。通貨監督官の 1907 年と 1908 年の年次報告は、貸付証書の沿革と 1907 年の発行統計、公金預託の残高、監督官自身の所見を載せています。第三に同時代の研究で、国家通貨委員会のために書かれた Sprague の『国法銀行制度下の恐慌史』(1910 年)の 1907 年の章と、Andrew が 1908 年に『季刊経済学』に載せた二つの論文(買い溜めと現金の代用物)です。第四に現代の研究で、Federal Reserve History の解説(Moen と Tallman)、Frydman・Hilt・Zhou の信託会社の研究(NBER 草稿)、Gorton と Tallman の清算所の研究(NBER 草稿)を読みました。

これらには偏りと限界があります。Sprague は清算所の遅れと支払停止を厳しく批判する立場で書いており、清算所会長の弁明はその引用で読んでいます。Andrew の表は各都市への照会の回答で、「額は入手できず」の欄が多く、OCR の崩れもあるため、本文の数は本文の記述と合計欄で確かめたものに限りました。財務省の預託の一次資料(財務長官の上院への回答、Senate Doc. 208)と財務長官の年次報告の本文は開いていません。archive.org の年次報告の写しには長官の本文(第 1〜68 頁)が無く、FRASER には接続できませんでした。清算所の議事録、当時の新聞、Moen と Tallman の 1992 年の論文、Frydman らの査読版は未読で、Odell と Weidenmier の 1906 年地震説、Bruner と Carr の通史も書誌の確認に留まります。

研究者の見方は三つの点で分かれます。取り付けの原因について、Frydman らは 38 社の預金の減り方を Morse らとの人的な関係で説明し、関係のある 11 社は 53.4%、無い 27 社は 23.4% の減少で、企業顧客とは無関係だったと示します。Federal Reserve History は Fohlin らとともに「主に噂による」と要約し、Odell と Weidenmier は 1906 年のサンフランシスコ地震後の金の流出に遠因を求めています。清算所の 5 日の遅れについて、Sprague は最も重大な誤りと呼び、会長は全国の支払停止を避けようとしたと弁明し、Gorton と Tallman は清算所には危機が来るのが見えていたと書きます。支払停止の必要については、Sprague が準備は尽きていなかったと数え、Frydman らは停止が 1930 年代型の連鎖破綻を防いだ可能性を挙げます。このファイルはどれか一つを事実として採りません。

何から分かるか — 史料の層

取り付けの原因は噂か実体か

Frydman–Hilt–Zhou 2012/2015

預金の減り方は Morse らとの人的関係で説明でき、企業顧客とは無関係(関係あり −53.4%・無し −23.4%)

Carola Frydman, Eric Hilt, Lily Y. Zhou 2012
Fohlin–Gehrig–Haas 2015(未読)

主に噂による(Fed History 注 8 の要約)

Federal Reserve History 2015
Odell–Weidenmier 2004(未読)

1906 年サンフランシスコ地震後の金流出(Fed History 注 13)

Federal Reserve History 2015
Sprague 1910

初発は「公的な重要性を持たない」銅の賭け。一般の経済状態は不健全でなかった

O. M. W. Sprague 1910

清算所の 5 日の遅れ

Sprague 1910

火曜までに証書を出さなかったのは「最も重大な誤り」

O. M. W. Sprague 1910
清算所会長(Sprague が引く)

証書を出せば全国の支払停止を招くので日ごとに先送りした

O. M. W. Sprague 1910
Fed History

異例の遅れ

Federal Reserve History 2015
Gorton–Tallman 2016

清算所には危機が来るのが見えていた。1907 年は証書と停止が同時

Gary Gorton, Ellis W. Tallman 2016

現金化の制限は必要だったか

Sprague 1910

準備は尽きておらず、本気の努力が無かったから

O. M. W. Sprague 1910
Frydman–Hilt–Zhou

停止は 1930〜33 年型の連鎖破綻を防いだ可能性(Friedman–Schwartz)

Carola Frydman, Eric Hilt, Lily Y. Zhou 2012
Gorton–Tallman 2016

停止と証書は預金者の信念を変える情報管理

Gary Gorton, Ellis W. Tallman 2016

よく聞く説明を確かめる

「モルガンが一人で恐慌を止めた」。Morgan の影響力が無ければ統一行動は何も取られなかった、と Sprague は書きます。ただし止めた資金の出所は一人ではありません。信託会社の委員会が持ち寄った債券、それを担保に入った政府の預金、清算所の貸付証書、そして輸出手形が呼んだ金です。Frydman らは救済を「Morgan が主導し、財務省が一部を賄った」と記し、Federal Reserve History は取引所への現金の運び込みを「伝説的な行動」と呼びつつ、清算所と財務省の役割を並べて書いています。

「モルガンが銀行家を書斎に閉じ込めて救済を決めさせた」。本校の教材にもあるこの光景は、このファイルが読んだ史料には出てきません。Sprague も Andrew も通貨監督官も、書斎には触れていません。Frydman らが読み物として挙げる Strouse(1999 年)、Carosso(1987 年)、Bruner と Carr(2007 年)が語り手と見られますが、未読です。出どころは未特定です。

「Heinze の銅の買い占めが原因だった」。買い占めの失敗は 10 月 16 日の引き金で、清算所は 21 日までに関係する会員行の整理を終えています。Sprague はこの賭けを「通常なら公的な重要性を持たない」と書き、Frydman らは取り付けの引き金が信託会社の企業顧客と無関係だった点を研究の出発点にしました。Gorton と Tallman は恐慌の開始日そのものに議論があり、Wicker は Knickerbocker の停止した 22 日を開始と見る、と注記します。原因を一つの賭けに求めると、準備 5% の信託会社が清算所の外にいたという構造が見えなくなります。

「政府は消火の道具を何一つ持っていなかった」。本校の教材の一文です。恐慌時の指針を持つ法は無く、私製の紙幣はすべて違法でした。その意味では道具は無い。しかし財務省は 10 月 24 日に 2,500 万ドル、10 月中に 3,600 万ドルを銀行へ預託し、8 月から 12 月に 7,200 万ドルの公金を積み増し、11 月 19 日には 1 億 5,000 万ドルの証券を募集しています。Federal Reserve History は、財務省が明文の規定ではなく長官の判断で介入した、と注記します。道具が無かったのではなく、法に書かれた道具が無かった、というのが史料の側から見える形です。

「Knickerbocker は破綻して消えた」。Knickerbocker は営業停止であって破綻ではなく、1908 年 3 月に 240 万ドルの増資と、預金者と株主の再建案で再開しました。Federal Reserve History は、通俗的な記述にこの点の事実誤認があると注記しています。ニューヨークとブルックリンで恐慌の間に閉じた 15 の機関(国法銀行 3・州法銀行 8・信託会社 4)の預金者は 1 ドルも失わなかった、と 1908 年 10 月の Wall Street Journal は報じました。

「1907 年恐慌が連邦準備制度を生んだ」。Federal Reserve History は、この恐慌が通貨改革運動を促し、清算所の外で起きた危機が清算所の銀行家に中央銀行の価値を認めさせた、と書きます。ただし道のりは 6 年あり、1908 年の法は緊急発行と調査委員会を設け、1913 年の法が準備銀行を設けました。通貨監督官は 1907 年 12 月の報告で、発券と準備の中央銀行が無いことをこの恐慌が全国へ広がった直接の原因に挙げています。一つの恐慌が一つの制度を生んだ、と言い切ることはできません。

最上級の言葉には分母が要ります。Federal Reserve History の「20 世紀最初の世界的な金融危機」は 20 世紀を分母に、Andrew の「国法銀行制度の成立以来、最も広範で長い信用機構の崩壊」は 1863 年以降を分母に、Sprague の「どの危機より大きい金の輸入」は合衆国の恐慌史を分母にした言葉です。清算所の会員 53 行のうち、危機のあいだに名簿から消えたのは 4 行、破綻と数えられるのは 2 行でした。

「モルガンが一人で恐慌を止めた」

誇張出どころ: 通俗史(出どころは未特定)。教材 dollar/morgan_library「事実上の中央銀行」

O. M. W. Sprague 1910 Carola Frydman, Eric Hilt, Lily Y. Zhou 2012 Federal Reserve History 2015

「モルガンが銀行家を書斎に閉じ込めて救済を決めさせた」

裏付けなし出どころ: 教材 dollar/morgan_library。読んだ史料に無い。Strouse 1999・Carosso 1987・Bruner–Carr 2007(未読)が語り手と見られる。出どころは未特定

O. M. W. Sprague 1910 Carola Frydman, Eric Hilt, Lily Y. Zhou 2012

「Heinze の銅の買い占めが恐慌の原因だった」

一部は事実出どころ: 通俗(出どころは未特定)

O. M. W. Sprague 1910 Carola Frydman, Eric Hilt, Lily Y. Zhou 2012 Gary Gorton, Ellis W. Tallman 2016

「政府は消火の道具を何一つ持っていなかった」

誇張出どころ: 教材 dollar/knickerbocker

O. M. W. Sprague 1910 A. Piatt Andrew 1908 Federal Reserve History 2015 Office of the Comptroller of the Currency, U.S. Treasury Department 1908

「Knickerbocker は破綻して消えた」

裏付けなし出どころ: 通俗的な記述(Fed History 注 5 が事実誤認を指摘する Woods 2011 など)

Federal Reserve History 2015 O. M. W. Sprague 1910 Gary Gorton, Ellis W. Tallman 2016

「1907 年恐慌が連邦準備制度を生んだ」

一部は事実出どころ: 教材 dollar/next_time_question・通俗

Federal Reserve History 2015 United States Congress 1908 United States Congress 1913 Office of the Comptroller of the Currency, U.S. Treasury Department 1907

今とのつながり

この事件から今に残るのは、最後の貸し手の外側という問いです。清算所は会員行を検査し、貸付証書で一つの主体になり、会員の危機を止めました。止まらなかったのは非会員の信託会社で、そこには預金が国法銀行と同じ規模で集まっていました。Moen と Tallman は 1907 年の信託会社を 2007〜09 年の影の銀行に重ね、両方の危機が決済の中心の外から始まったと書いています。これは解釈であって同一視ではなく、Knickerbocker が営業停止から再開したのに対し Lehman Brothers は破綻した、という違いも同じ文章に書かれています。

もう一つは、危機の終わり方です。Gorton と Tallman は、清算所が個別の銀行の情報を隠し、代わりに清算所全体の準備の過不足だけを公表し、認証小切手の市場に付いた上乗せが清算所そのものの危険の値段になった、と読みます。上乗せは金の輸入とともに下がり、1908 年 1 月に準備の流入が正に転じて 0 になりました。現代のお金の科目では「銀行外の仲介者」「短く借りて長く持つ」「銀行が倒れるとき」「準備の義務」「システムが止まりかけたとき」の停で、この構造を扱います。

比較の限界

2007〜09 年の世界金融危機とは、決済の中心の外にいた仲介者に取り付けが向かった点で並べられます。違うのは仕組みの場所です。1907 年は金本位と私的な清算所、2007 年は中央銀行と証券化・レポの市場でした。証書の額と Fed の貸付制度の額を比べることはしません。

1980 年代の日本の資産バブルとは並べません。数年の資産価格の上昇と、数週間の取り付けでは時間の尺が違います。マドフの詐欺とは、欺瞞の型ではないので並べません。チューリップ狂とは、銀行も決済網も関わらない点で仕組みに共通項が無く、並べません。1873 年と 1893 年の恐慌は同じ清算所が同じ証書で応じた事件で、Sprague と Gorton・Tallman はそれらと 1907 年を並べていますが、本校の事件簿には登録簿の名だけがあります。

史料

事件の一覧へ