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ジョン・ローは、何を作ろうとしたのか。

ジョン・ローとミシシッピ体系 / 1716〜1720 年 / フランス(パリ) / 複合(複数の型が本質的に混在)

1716 年に私人の銀行として始まったローの体系は、1719 年に国の負債・徴税・造幣・海外貿易を一つの会社に束ね、株価を 20 倍にした。1720 年 3 月に株を 9,000 リーヴルの券と同じものにした瞬間、券の残高は 3 か月で倍になり、5 月 21 日の減額令で信用は崩れた。1721 年のヴィザで紙は再び国債になり、負債は体系の前と大きく変わらない水準に戻った。

何が起きたか

1716 年 5 月 2 日、スコットランド生まれのジョン・ローと彼の会社に、パリで銀行を開く 20 年の特権が与えられました。特許状の前文には、ローが最初に出した「王の資金で王の名において運営する銀行」の案が財務会議で退けられ、代わりに自分と会社の資金で開く銀行を願い出た経緯が書かれています。券は「その日の重さと品位のエキュ」建てで、資本は 1 株 5,000 リーヴルの 1,200 株、その大半は値崩れした国債で払い込まれました。当初の現金は 1 株 690 リーヴルで足りています。1718 年 12 月 4 日、王はこの銀行の株を額面で買い取り、王立銀行にしました。

券が広まった仕組みは、王の受け取り側にありました。1716 年 10 月 7 日の決定で徴税官は券を現金に換える義務を負い、1717 年 4 月 10 日には税の支払いで券が法貨になります。1718 年 6 月 1 日には、改鋳で目減りした旧エキュに対して券が 1 エキュ 6 リーヴルで受け入れられ、券を持つ方が硬貨を持つより得になりました。会社の出納係だったデュトは後に、王が自分の証券を自分で受け取ったこの時を「体系と銀行券の始まり」と呼びます。

1717 年 8 月、勅令の形式による特許状が「西方会社」を設けます。ルイジアナは永代に会社へ下付され、25 年の商業独占とカナダの海狸皮が付きました。王が留保したのは臣従礼と、代替わりごとの重さ 30 マールの金の冠だけです。資本 1 億リーヴルは 1 株 500 リーヴルの 20 万株で、払込は国債の額面によります。応募は遅く 1718 年末に締まり、4 割は王が持ちました。会社は 1718 年 8 月にタバコ専売、12 月にセネガル会社、1719 年 5 月に東インド会社と中国会社を合わせて「インド会社」となり、7 月 25 日に造幣、8 月 27 日に総徴税請負(年 5,200 万リーヴル)、8 月末に直接税の徴収を引き受けます。

1719 年 8 月 27 日から始まる公債の借換が、この体系の中心です。会社は王に 12 億、のちに 16 億リーヴルを年 3% で貸し、王はそれで永久年金・官職・国債を強制的に償還しました。会社は資金を 1 株 5,000 リーヴルの新株 30 万株で集め(9 月 12 日・26 日、10 月 2 日)、払込は分割で、国債の償還証書でも払えました。株価は 5 月 10 日の 500 リーヴルから 7 月中旬に 1,000、8 月 26 日に 3,600、9 月 9 日に 5,350 と上がり、頂点はおよそ 10,000 リーヴルです。会社は 10 月から自社株を 5,000 で買い支え、12 月末には毎日の値を掲げる売買窓口を開き、12 月 29 日には 1 株 200 リーヴルの配当を公告しました。1720 年 1 月 5 日、ローは財務総監になります。

券の発行は株の発行と歩調を合わせて増えました。1718 年 12 月に約 4,000 万リーヴルだった残高は、1719 年 12 月末に 7 億 6,900 万、1720 年 2 月末に 10 億 6,970 万、5 月末に 22 億 3,510 万になります。同時代の推計で王国の正貨は約 12 億でした。金属を紙に置き換えるため、1719 年 12 月 21 日に銀 10 リーヴル・金 300 リーヴルを超える支払いが禁じられ、1720 年 1 月 28 日に券は全国の法貨になり、2 月 27 日には 500 リーヴルを超える正貨の保有が禁じられ、3 月 11 日には金銀の廃貨が予告されます。

1720 年 2 月 22 日、銀行は会社に合併され、株の買い支えはいったん止まります。株は 9,925 から 3 月 1 日に 8,500 へ落ちました。3 月 5 日の国務会議決定は方向を戻します。第 2 条で株を 1 株 9,000 リーヴルに固定し、第 5 条で 3 月 20 日から銀行に窓口を開いて、株を券に、券を株に、持ち主の望みどおり換えると定めました。株が 9,000 リーヴルの券と同じものになった瞬間です。3 月 25 日から 5 月 1 日までに 3 億・3 億 9,000 万・4 億 3,800 万・3 億 6,200 万リーヴルの券が増発され、会社は 3 月から 5 月に 12 億 1,350 万リーヴルで自社株の 27% を買い戻しました。

5 月 21 日の決定は、この釘付けを解く試みでした。株は公布の日に 8,000、以後月ごとに下げて 12 月 1 日に 5,000 へ。券も 1 万リーヴル券を 8,000 として受け入れ、12 月 1 日に 5,000 に固定する、という日程です。税の支払いだけは 1721 年 1 月 1 日まで額面どおりとされました。翌 22 日、銀行は減額後の値で券を払い、25 日には支払いの遅れに群衆が投石し、27 日に高等法院が臨時に集まります。同じ 27 日、王は決定を撤回し、券は前と同じ価値で流通すると定めました。ローは 5 月 28 日に罷免され(ビュヴァの日記では 29 日夜に辞任)、6 月 1 日に正貨の保有は自由に戻り、6 月 2 日には減額後の値で受け取った券の差額を返せという決定が出ます。6 月初め、ローは閣議に戻りました。

それでも券は戻りませんでした。6 月には 2.5% の年金 10 億リーヴルが券で買えるようになり、7 月 13 日には大口決済専用の銀行口座が設けられ、券は年金・口座・株へ吸い上げられていきます。銀行の窓口は 6 月 3 日、7 月 5 日、7 月 12 日から 13 日に圧死者を出し、7 月 17 日には 12 人から 15 人が押し潰されて、同日、支払いは止まりました。8 月 15 日に廃貨の日程(高額券は 10 月 1 日、小額券は翌年 5 月 1 日)が公示され、10 月 10 日には 11 月 1 日へ前倒しされます。ローは 12 月初めにフランスを離れました。

1721 年 1 月、体系のすべての紙を提出させる「ヴィザ」が命じられます。提出された 22 億 1,120 万リーヴルは 17 億の元本と年 4,700 万の年金に減らされ、証書は 1722 年に額面の 25% で売買されました。500 リーヴル以下の請求は減らされず、それは人数の半分、金額の 4 割にあたります。残り 6 割の金額は平均 39% 減りました。株は 12 万 5,000 が 5 万 5,735 になります。1724 年の王の負債は元本 25 億 4,140 万、利払 8,670 万で、体系の前の 1717 年(23 億 2,170 万、9,370 万)と大きく変わっていません。

出来事の順 出所: François R. Velde 2003
  1. 1705
  2. 1715
    • 9 月ルイ 14 世没。負債 28 億リーヴル、利払 8,650 万は基礎収支 4,800 万を超える
  3. 1716
  4. 1717
  5. 1718
    • 6 月 1 日旧エキュ建ての券を 1 エキュ 6 リーヴルで受入(券の持ち主に改鋳の損を免除)
    • 8 月 1 日会社がタバコ専売を取得(年 402 万)
    • 12 月 4 日宣言: 一般銀行を王立銀行に。王が株主を額面で買取 Louis XV— BnF Gallica 1718
  6. 1719
    • 5 月東インド会社・中国会社を西方会社に合併(インド会社) Barthélemy Marmont du Hautchamp— Google Books のスキャン 1739
    • 7 月 25 日造幣の請負(9 年で 5,000 万)。以後、株の発行と券の発行の許可が対になる
    • 8 月 27 日総徴税請負(年 5,200 万)と公債借換の開始(王への 12 億の貸付)
    • 9 月 12 日5,000 リーヴルの新株 30 万株の発行(9 月 12 日・26 日、10 月 2 日)
    • 10 月 9 日会社が 5,000 で自社株の買取を開始
    • 12 月 21 日銀 10・金 300 リーヴルを超える支払いを禁止
    • 12 月 29 日1 株 200 リーヴルの配当を公告。12 月末に毎日値を掲げる売買窓口
  7. 1720
  8. 1721
    • 1 月ヴィザ: 体系の紙をすべて提出させる
  9. 1722
    • 9 月ヴィザ完了。提出 22 億 1,120 万 → 17 億の国債
  10. 1726
    • 銀の法定価格が固定され 1795 年まで不変

お金はどう動いたか

動いたのは国の借金です。ルイ 14 世が残した負債は 1715 年に 28 億リーヴルで、利払は歳入 1 億 6,600 万に対し 8,650 万を超えていました。1717 年の西方会社は、値崩れした国債を額面で株に換える器でした。持ち主から見れば 4% の債券が、同じ債券とルイジアナを資産に持つ会社の株に変わります。国から見れば負債は同じままで、それまで何も生まなかった植民地を手放しただけです。

1719 年 8 月からは、それが国の負債の全体に広がります。会社が王の債権者になり、王への年 4,800 万の支払いは総徴税請負の上納金から差し引かれ、会社は税を集めて残りを配当に回す。ヴェルドはこれを「公債を政府の株式のようなものに変える」操作と呼びます。旧債権者は固定の利子の債券を、配当の変わる株に持ち替えました。株価が高いほど借換は国に有利で、逆に株価が下がれば分割払込の応募者は払込をやめて手を引けます。そのため、株価を高く保つことが体系の条件でした。

買い支えは 1719 年 10 月に 5,000 リーヴルで始まり、12 月末の窓口で 8 億リーヴル分(発行株の 16%)を買い、3 月 5 日からは 9,000 で券と換えました。株が券になり、券は法貨で、正貨は禁じられている。券の残高は 3 月 5 日の 10 億 8,990 万から 5 月末の 22 億 3,510 万へ、3 か月で倍になりました。

物価は同じ速さでは動いていません。パリの商品物価指数(ハミルトン)は 1719 年 7 月の 116.1 から 1720 年 9 月の 203.7 へ上がり、1720 年 1 月だけで 25% 上がっています。為替はもっと早く、1720 年 1 月末にはロンドン建てのリーヴルが銀の平価を割り、3 月・4 月・7 月の正貨切下げは紙のリーヴルの下落を後追いするものでした。

崩れた後の流れは逆向きです。券は年金・銀行口座・株に吸い上げられ、残りはヴィザで再び国債になりました。28 億の券のうち 22 億が提出され、17 億の債務に置き換わります。券の持ち主が 1722 年 3 月に手にしたのは、ヴェルドの計算で額面の約 20% で、これは 1720 年 11 月初めの市場価格と同じ水準です。最後に誰が払ったか、と問えば、まず 500 リーヴルを超える券と株の持ち主、次に 1719 年から 1720 年に儲けた 200 人(1 億 9,000 万の課税)、そして正貨を券に換えた人々でした。

インド会社の株価(リーヴル/株)05,00010,0005001719/5額面1,8001719/73,0001719/1010,00010 月末9,0001720/3/5固定2,0001720/91,0001720/125001721/9
ガーバーの図 1 の水準。額面 500 から 1719 年 10 月末の 10,000 へ、1720 年 3 月 5 日に 9,000 で固定、1721 年 9 月に 500。ヴェルドは頂点を 1720 年 1 月とする。 出所: Peter M. Garber 1990 pp.42–46・図 1
王立銀行の券の発行残高(百万リーヴル)01,1802,359381719/4159.97380.68769121,069.71720/21,261.532,05442,235.152,35962,001.792,069.11721/1廃貨後の未焼却
ヴェルドの表 4(発行から焼却分を除いた残高)。1720 年 3 月 5 日の釘付けから 5 月末までの 3 か月で倍になった。同時代のデュトの表も 2〜5 月で同じ値。 出所: François R. Velde 2003 表 4 p.25
パリの商品物価指数(ハミルトン 1936)(指数)0102204116.11719/7203.71720/9164.21720/12
ガーバーが引くハミルトンの指数。1720 年 1 月だけで 25% 上がった(ヴェルド)。 出所: Peter M. Garber 1990 p.45
500 → 1,000 → 3,600 → 5,350 → 約 10,000 → 9,000(固定)→ 4,200 → 4,500 → 2,000 → 1,000 → 500リーヴル・トゥルノワ/株Compagnie 株価1719-05-10 → 07 中旬 → 08-26 → 09-09 → 頂点 → 1720-03-05 → 06-12 → 07-15〜17 → 09 → 12 → 1721-09・分母 額面 500・時価 頂点の時期: Garber 1719 年 10 月/Velde 1720 年 1 月François R. Velde 2003 pp.18, 29, 40, 44・図 4(4,200・4,500 は Buvat pp.99, 108、2,000・1,000・500 は Garber p.46)
7 億 6,900 万 → 10 億 6,970 万 → 12 億 6,150 万 → 20 億 5,400 万 → 22 億 3,510 万 → 23 億 5,900 万 → 20 億 170 万リーヴルBanque Royale 券の発行残高1719-12-31 → 1720-02-29 → 03-31 → 04-30 → 05-31 → 06-30 → 09-30・額面(焼却分を除く) Dutot T.II pp.363–365 の月末の券は 2〜5 月で一致。印刷総額は 28 億 2,230 万(表 7)François R. Velde 2003 表 4 p.25
7 億 6,900 万 → 7 億 9,052 万 → 10 億 6,972 万 7,990 → 12 億 6,153 万 150 → 20 億 5,400 万 4,870 → 22 億 3,508 万 3,590 → 23 億 8,006 万 7,660 → 21 億 274 万 5,470 → 20 億 1,780 万 8,880 → 20 億 2,276 万 2,610リーヴル券の月末残高(同時代の表)1719-12 → 1720-01 → 02 → 03 → 04 → 05 → 06 → 07 → 08 → 09・額面 会社の出納係だった著者の表。OCR で読み、Velde 表 4 と突き合わせたNicolas Dutot— Google Books のスキャン 1738 T.II pp.363–365
116.1 → 203.7 → 164.2指数パリの物価指数1719-07 → 1720-09 → 1720-12・名目 原典未読。Velde 図 9 も同じ系列Peter M. Garber 1990 p.45(Hamilton 1936)
12 億 → 16 億(3%)リーヴル公債借換の額面1719-08-27 → 09-17・10-10・分母 1715 年の負債 28 億・額面 8 月 31 日に償還を命じた分は 14 億 9,984 万。Garber は 15 億François R. Velde 2003 pp.19–20・表 3
600 万=5,000 × 1,200 株リーヴルBanque Générale の資本1716・額面 教材の値と一致。大半は billets d'État で払込、当初の現金は 1 株 690。原本の資本条項は未読François R. Velde 2003 p.10
1 億=500 × 20 万株リーヴルCompagnie d'Occident の資本1717〜1718-12-31・額面 教材の値と一致。billets d'État の額面払込。4 割は王の保有François R. Velde 2003 p.17
2〜5 倍株価の過大評価1720 頂点・分母 著者の基礎価値推計(収益 7,550 万 × 倍率 15 = 1 株 1,875)・時価/推計François R. Velde 2003 pp.2, 47–48
9,000リーヴル/株1720-03-05 の固定価格1720-03-05・額面 第 5 条で 3 月 20 日から株と券の相互転換Conseil d'État du Roi— BnF Gallica 1720 第 2 条(f4)
8,000 → 7,500 → 7,000 → 6,500 → 6,000 → 5,500 → 5,000リーヴル/株1720-05-21 の減額の日程(株)公布日 → 07-01 → 08-01 → 09-01 → 10-01 → 11-01 → 12-01・分母 固定価格 9,000・額面 券は 1 万リーヴル券を 8,000 → 5,000 に同じ比率で(第 2 条)。5 月 27 日に撤回Barthélemy Marmont du Hautchamp— Google Books のスキャン 1739 Pièce LXXXI 第 1 条 pp.98
3 億・3 億 9,000 万・4 億 3,800 万・3 億 6,200 万リーヴル釘付け期間の券の増発1720-03-25・04-05・04-19・05-01・額面 Velde: 3〜5 月に 12 億 1,350 万で自社株の 27% を買戻し(Hautchamp 1:121 経由)Peter M. Garber 1990 p.45
約 12 億リーヴル正貨総額の同時代推計1720-02-27(勅令の記述)・銀 1 マール 60 リーヴル Garber は Harsin 1928 経由で同じ 12 億François R. Velde 2003 注 28 p.24
22 億 1,120 万 → 17 億(年金 4,700 万)リーヴルヴィザの提出額と再建額1721-01 → 1724-01・分母 券の印刷総額 28 億 2,230 万・額面 500 リーヴル以下は減額なし(人数の半分・金額の 4 割)。残りは平均 39% 減François R. Velde 2003 pp.36–37・表 7
4 → 5 → 数人 → 12〜15圧死者1720-06-03 → 07-05 → 07-12〜13 → 07-17・同時代の日記 Mackay は 7 月 17 日に 15 人Jean Buvat— Internet Archive のスキャン 1720 pp.97, 105–110
元本 25 億 4,140 万・利払 8,670 万リーヴル1724 年の負債1724-10・分母 1717 年 6 月: 23 億 2,170 万・9,370 万・額面 体系の間の増加は約 1 億 5,000 万(p.39)François R. Velde 2003 表 2 p.8

何から分かるか

史料は 4 つの群に分かれます。第一に公文書。1716 年 5 月 2 日の特許状、1717 年 8 月の勅令、1718 年 12 月 4 日の宣言、1720 年 3 月 5 日と 6 月 2 日の国務会議決定は、フランス国立図書館の画像で表題・前文・条文の一部を読みました。5 月 21 日の減額令と 27 日の撤回の本文は、1739 年にハーグで刊行されたデュ・オーシャンの『財政体系史』に翻刻されたものを読んでいます。第二に同時代の記録。王立図書館の筆耕ビュヴァの日記は 1720 年 5 月から 7 月の毎日を伝え、会社の出納係だったデュトの 1738 年の書は券の月末残高の表を載せています。第三に研究。ガーバー(1990)の概説とヴェルド(2003)の全文を読み、ヴェルド(2007)・マーフィ(1997)・ハミルトン(1936)は書誌の確認に留まります。第四に通俗書。マッケイ(1841)は伝説の出どころとして読みました。

これらには偏りと欠落があります。体系の帳簿は 1727 年に、ヴィザの帳簿は 1722 年に公開で焼かれ、数の多くは 1730 年代の論争(デュト対パリ=デュヴェルネ)から来ています。デュトは体系を擁護する側の人です。ビュヴァは噂も書き、自分で「と言われていた」と断っています。株価の日次系列は 1719 年 8 月以降だけで、それ以前は散発です。ヴェルドが証券の一覧と価格を載せた付録は別冊で、このファイルの作成時点では入手できていません。ハミルトンの物価指数はパリの病院の購入記録に基づきます。

研究の立場は分かれます。ガーバーは、値上がりが体系の実現の段階を追い、下落が株の貨幣化とロー自身のデフレ策で説明できるとして、現代の意味でのバブルと呼ぶことに反対します。ヴェルドは、株価が頂点で 2 倍から 5 倍過大評価されていたと計算したうえで、それをローの価格支持策に帰し、負債が元の水準に再建された以上、債務不履行と呼ぶなら 5 から 10% で、詐欺でもないと結論します。フォールは 1720 年 7 月 17 日の支払停止を「ローの破産」の日とし、マリオンは「もう一つの債務不履行」と書きました。この二人はヴェルド経由で、未読です。頂点の時期も、ガーバーの 1719 年 10 月とヴェルドの 1720 年 1 月で違います。このファイルはどれか一つを事実として採りません。

ローの理論は 1705 年の『貨幣と交易』で読めます。「国内の交易は貨幣に依存する。より多くの量はより多くの人を働かせる」。提案は、議会が任命し議会に責任を負う委員会が、土地を担保に紙幣を出すというものでした。ヴェルドが指摘するとおり、1715 年以降ローは書いておらず、公債の株式化の理屈は 1715 年以前の著作にありません。なぜ 9,000 という高い値に釘付けたのかは、誤算か、初期の内部者の利益か、いまも開いた問いです。

何から分かるか — 史料の層

バブルか、貨幣実験の失敗か

Mackay 1841

国民全体の貪欲な熱狂。ロー自身は「欺いたより欺かれた」

Charles Mackay 1841
Garber 1990

ファンダメンタルズで説明可能。現代の意味のバブルではない

Peter M. Garber 1990
Velde 2003

価格支持策による 2〜5 倍の過大評価。市場価格は 1719 年末以降ローの政策そのもの

François R. Velde 2003

崩壊の主因

教材

兌換できる金属を超えて刷った

Garber

株の貨幣化(3 月 5 日の釘付け)と、ロー自身のデフレ策(5 月 21 日)

Peter M. Garber 1990
Velde

価格支持が券の増発を招き、正貨の禁止でも為替の下落を止められず、5 月に後退した時に秩序ある退却は不可能だった

François R. Velde 2003

1719 年 8 月 27 日の計画は債券か株か

Faure 1977(Velde 経由)

8 月の計画は債券で、9 月の株式発行は「狂った計画」への転換

François R. Velde 2003
Murphy 1997(Velde 経由)

最初から株。語の不正確さにすぎない

François R. Velde 2003

株価の頂点の時期

Garber 1990

1719 年 10 月に 10,000

Peter M. Garber 1990
Velde 2003

1720 年 1 月に頂点 10,000。1 月末には下落が始まる

François R. Velde 2003

債務不履行だったか

Marion 1914(Velde 経由)

もう一つの債務不履行

François R. Velde 2003
Velde 2003

1724 年の負債は 1717 年と大きく変わらず、不履行と呼ぶなら 5〜10%

François R. Velde 2003

よく聞く説明を確かめる

ミシシッピの逸話の多くは、マッケイ『異常な大衆の妄想』(1841)第 1 章に集められました。せむし男が背中を書き物台に貸して稼いだ、貴婦人が馬車をわざと転覆させてローに会った、医師が患者の脈を取りながら「落ちる、落ちる」と株のことを口走った。マッケイは当時の回想録から取ったと言いながら、多くに出典を示していません。

「召使いや御者が株で成り上がった」。出どころはマッケイの 34 ページで、ローの御者が馬車を持てるほど儲けて暇を取り、料理女中や従僕も時に同じ幸運に恵まれた、とあります。今回読んだ同時代の日記に、職業を特定した成り上がりの記事はありません。

「ミリオネールの語がこの時に生まれた」。出どころは未特定です。今回読んだ同時代の史料と研究に、この語の記述はありません。

「銀行への殺到で圧死者が出た」。これは同時代の日記で確かめられます。ビュヴァは 6 月 3 日に男 2 人と女 2 人、7 月 5 日に女 3 人と男 2 人、7 月 12 日から 13 日に数人、7 月 17 日に 12 人から 15 人が圧死したと記し、自分も 17 日に危うかったと書いています。マッケイの「15 人」は同じ 7 月 17 日の出来事です。

「支払える額の 3 倍の券を刷った」。出どころは未特定です。マッケイは 1720 年 5 月初めの会議で券 26 億に対し正貨は「その半分に満たない」と書き、これは 2 倍です。ヴェルドの表では 5 月末の券 22 億 3,510 万に対し、正貨の同時代推計は約 12 億でした。銀行の準備そのものの数は残っていません。

「フランスは 100 年間、紙幣を信じず、銀行という語を避けた」。ヴェルドは、紙幣による正貨の置換が「その後長く悪評の中にあり」、ローの評価が戻るのは 1930 年代だと書き、1790 年のアッシニアを「二度目の実験」と呼びます。銀の法定価格が 1726 年から 1795 年まで動かなかったことも確かです。しかし「100 年」「銀行という語」の出どころは未特定で、このファイルでは通説として扱います。

「世界初の紙幣とバブルの崩壊」。ヴェルドは先行する不換紙幣の実験を挙げています。分母の無い最上級は使いません。

「ローは国家を騙した詐欺師だった」。同時代の風刺歌は彼を「サタンの長男」と歌い、マッケイはその歌詞をオルレアン公妃の書簡から引いています。マッケイ自身は「悪党でも狂人でもなく、欺いたより欺かれた」と書き、ヴェルドは会社が実業を営み、ローが 950 万リーヴル以上をフランスの不動産に投じて出国したことを挙げます。判断は分かれたままです。

「召使いや御者が株で成り上がった」

裏付けなし出どころ: Mackay 1841 p.34(ローの御者・料理女中・従僕。典拠なし)

Charles Mackay 1841 Jean Buvat— Internet Archive のスキャン 1720

「「ミリオネール」の語がこの時に生まれた」

争いあり出どころ: 教材 franc/rue_quincampoix。出どころは未特定

Jean Buvat— Internet Archive のスキャン 1720 François R. Velde 2003

「銀行への殺到で圧死者が出た」

一部は事実出どころ: 同時代の日記(Buvat 1720 年 6〜7 月)→ Mackay

Jean Buvat— Internet Archive のスキャン 1720 Charles Mackay 1841

「支払える額の 3 倍の券を刷った」

裏付けなし出どころ: 教材 franc/effondrement_1720。出どころは未特定(Mackay は 2 倍)

Charles Mackay 1841 François R. Velde 2003

「フランスは 100 年間、紙幣を信じず銀行という語を避けた」

争いあり出どころ: 通説(教材 franc/heritage_papier_maudit・coin/fr_law)

François R. Velde 2003

「世界初の紙幣とバブルの崩壊」

争いあり出どころ: 教材 coin/fr_law

François R. Velde 2003

「ローは国家を騙した詐欺師だった」

争いあり出どころ: 同時代の風刺歌「サタンの長男」(Mackay がオルレアン公妃の書簡から引く)→ 通俗書

Charles Mackay 1841 François R. Velde 2003

今とのつながり

この事件から今に残るのは、金額より構造です。公債と徴税と紙幣を一つの会社に束ねる設計、株を持ち主の望みどおり法貨に換える窓口、正貨の保有を法で禁じる措置。この 3 つが同時に動いた時、株価と紙幣の価値は一つになり、片方の下落がもう片方を引き倒しました。

「紙幣増発は量的緩和と同じ」という同一視は、このファイルでは行いません。比べるなら、兌換の約束が何で裏付けられていたか、担保が何だったか、という構造に限ります。それは繰り返す構造の頁と現代のお金の科目の仕事です。

比較の限界

チューリップ狂とは、同時代人も後世も並べて語りました。似ているのは、契約や株が実体から離れて値を持った点です。違うのは、球根の先渡し契約が酒場と公証人の外部市場にあり、ローの体系が国家の負債・徴税・紙幣と一体で国家の中枢にあった点です。規模も帰結も桁が違い、並べても「似ている」は物語の外形に留まります。

キッパー・ウント・ヴィッパー(1619〜23)とは、国家が自らの支払いのために貨幣の価値を動かした点で結べます。あちらは金属の減価、こちらは紙幣と株式による信用の操作で、比較は仕組みの型に限ります。

同じ 1720 年の南海泡沫は、同じ公債借換の型で、ガーバーはその節に「ローの影」と題を付けています。1790 年のアッシニアは、ヴェルドが「二度目の実験」と呼ぶ不換紙幣です。どちらも登録簿にあるだけで、本文はまだありません。

史料

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