悪貨は、なぜ国境を越えて広がったのか。
キッパー・ウント・ヴィッパー 一六一九〜二三 / 1619〜1623 年 / 神聖ローマ帝国 / 貨幣制度の混乱
1618 年に始まった三十年戦争の最初の数年、神聖ローマ帝国の諸領邦と都市は小額の銀貨から銀を抜いて銅を増やし、良い貨幣を秤で選り分けて溶かし、その銀で悪い貨幣を打った。良貨の相場は 1622 年の初めに頂点を付け、1623 年に元の水準へ戻る。相場表と法と一枚刷りで数え直すと、「8 倍」「額面の 5 分の 1」型の数は出典に辿り着けず、残るのは地域ごとの良貨の相場と、額面と中身のずれが境界を越えて広がる仕組みである。
何が起きたか
1618 年に始まった三十年戦争の最初の数年、神聖ローマ帝国の諸領邦と都市は、小額の銀貨から銀を抜いて銅を増やし、良い貨幣を秤で選り分けて溶かし、その銀で悪い貨幣を打ちました。1619 年から 1623 年にかけて、良い貨幣の相場は各地で数倍に上がり、1622 年の初めに頂点を付け、1623 年には元の水準へ戻ります。同時代の人々はこの時代を、風刺歌の言葉で「キッパーとヴィッパーの時代」と呼びました。
出発点は 1559 年 8 月 19 日、アウクスブルクで皇帝フェルディナント 1 世と帝国の等族が定めた貨幣令です。ケルン・マルクの純銀を物差しに、60 クロイツァーのライヒスグルディナーは 1 マルクから 9 枚半、品位は 14 ロート 16 グレーンと決まり、10・5・2 分の 5・2・1 クロイツァーの小額貨まで、枚数と品位が条文に書かれました。5 クロイツァー未満の小額貨は 25 グルデンを超える支払いでは受け取る義務が無く、小額貨が「積み上がって高い貨幣を押し上げる」ことのないよう管区(クライス)が見張り、年に 2 回の試金集会で各領邦の貨幣を検め、造幣権を他人に貸すことも、造幣長と俸給以外の契約を結ぶことも禁じられました。1566 年の帝国議会は、多くの地方で契約がターラー建てになっている現実を認め、68 クロイツァーのターラーを帝国貨幣に加えます。
令には穴がありました。小額貨は一枚あたりの鋳造費が高く、条文どおりの銀を入れると造幣所は損をします。連邦銀行貨幣博物館の解説によれば、約 23 kg の銀をターラーに打てば 14 グルデン半を超える利益が出るのに、同じ銀を 3 プフェニヒ貨に打つと 46 グルデンを超える損失になりました。法に従う領邦は小額貨を打たず、監督の弱い造幣所が銀を減らして打ちます。1595 年の試金では 3 クロイツァー貨と半バッツェンが正規の価値に 15 から 25% 足りず、1596 年には 43%、1604 年には平均で 18 から 26%、1607 年のニュルンベルクの試金ではフランクフルト市の 6 クロイツァー貨が約 37% 足りませんでした。1609 年には悪鋳者の一覧が 20 を超えています。悪化は開戦の 20 年以上前から進んでいました。
開戦が合図になりました。1618 年 5 月にニュルンベルクへ集まった上部三管区は、極端な悪鋳の発生を防ぐことしか期待できないと述べ、1619 年に開かれた貨幣協定は 5 月の上ザクセン管区の一件だけです。造幣権を持つ領主は、悪貨と結びつけられないよう造幣所を請負人に貸し、ヴュルテンベルク公はベルクとテュービンゲンに新しい造幣所を設けました。帝国法が禁じた請負と、認可の無い「垣根の造幣所(ヘッケンミュンツェ)」が広がります。
良い貨幣の値上がりは、相場表に残っています。ハンブルクでは 1 ターラーが 1614 年 12 月に 37 シリング 6 ペニヒ、1619 年 10 月に 48 シリング、1621 年 3 月に 54 シリング 6 ペニヒでした。ブランデンブルクではライヒスターラーが 1620 年に 2 グルデン 4 クロイツァー、1621 年に 4 グルデン、1622 年に 10 グルデンです。帝国全体の表では、グルデンターラーが 1618 年 5 月の 1 グルデン 22 クロイツァーから 1620 年 11 月に 2 グルデン、1621 年 12 月に 5 グルデン 30 クロイツァー、1622 年 2 月に 8 グルデン 30 クロイツァーへ上がりました。アウクスブルクで刷られた一枚刷り『良い金の墓碑銘』は、ライヒスターラー 1 枚に 5 グルデン 30 クロイツァー、ドゥカートに 8 グルデン 30 クロイツァーを払う両替商の問答を載せています。
悪貨の中身は、バイエルンでは 1621 年に 1559 年令の規定の 10% まで下がり、最小の額面では銀を含まないものが多くなりました。ウルムの靴職人ハンス・ヘーベルレは 1622 年について、初めは純銀のように美しいが 3 週間から 8 週間で銅のように赤くなる貨幣だったと書き、人が暮らしに要るものは何もかも恐ろしく高かった、と記しています。1621 年の歌は、ビールとパンを買うためのグロッシェンを探し回り、20% を上乗せしなければ手に入らない、と歌いました。
収束は 1622 年から始まります。ハンブルクのターラーは 1621 年 5 月の 54 シリングから 1622 年 5 月に 48 シリングへ下がり、帝国全体の表のグルデンターラーは 1622 年 6 月 16 日に 2 グルデン 52 クロイツァー、1623 年 4 月に 1 グルデン 20 クロイツァーです。バイエルンは 1623 年に悪貨を減価して鋳造を帝国の基準へ戻し、諸領邦は 1623 年から 1624 年にかけてキッパー貨を無効として引き上げ、新しい貨幣を打ちました。回収の損失は領邦の国庫が負います。本校の実物、1624 年銘のヒルデスハイム市の四分の一ライヒスターラーは、その直後の一枚です。
- 1559
- 8 月 19 日アウクスブルクで帝国貨幣令。ライヒスグルディナー 60 クロイツァー、小額貨の受取義務は 25 グルデンまで、年 2 回の試金集会、造幣権の貸与と請負を禁止 皇帝フェルディナント 1 世と帝国等族 1559
- 1563
- 12 月 29 日皇帝の勅令が、多くの都市が貨幣令をまだ公布・施行していないと叱責 皇帝フェルディナント 1 世と帝国等族 1559
- 1566
- アウクスブルクの帝国議会がターラーを 68 クロイツァーで帝国貨幣に加える(1 マルクから 8 枚、14 ロート 4 グレーン) 皇帝フェルディナント 1 世と帝国等族 1559
- 1592
- 6 月 10 日ルドルフ 2 世がフランケン・バイエルン・シュヴァーベンの三管区へ勅書。不正な鋳造、良貨の搬出、外国の悪貨、物価の上昇を訴える
- 1595
- 試金で 3 クロイツァー貨と半バッツェンが正規の価値に 15〜25% 不足
- 1596
- 8 月 8 日皇帝の貨幣命令。この年の不足は 43%
- 1604
- 3 クロイツァー貨と半バッツェンの不足は平均 18〜26%
- 1607
- ニュルンベルクの試金でフランクフルト市の 6 クロイツァー貨が約 37% 不足。1609 年には悪鋳者の一覧が 20 を超える
- 1618
- 5 月ニュルンベルクの上部三管区の会議。極端な悪鋳の発生を防ぐことしか期待できないと述べる
- 三十年戦争が始まる。軍備支出が急増し、意識的に低品位で打つようになる Deutsche Bundesbank
- 1619
- 5 月上ザクセン管区の貨幣協定。この年に開かれた協定はこれだけ
- ハンブルク銀行の設立(ショーは事件の弊害に直接帰す)
- 10 月 20 日帝国全体の表でグルデンターラー 1 グルデン 36 クロイツァー(1618 年 5 月は 1 グルデン 22 クロイツァー)
- 1620
- 11 月 9 日グルデンターラー 2 グルデン。ブランデンブルクのライヒスターラーは 1620 年に 2 グルデン 4 クロイツァー
- 1621
- バイエルンで小額貨の銀含有が規定の 10% に。最小額面は銀を含まない Hubert Emmerig 2010
- 『貨幣たちの新しい対話』(Colloquium novum monetarum)が刷られる。ライヒスターラーは「5 ターラーと 4 分の 1 で通る」 「Vel Quasi」— Wikisource の翻刻 1621
- アウクスブルクで『良い金の墓碑銘』。両替商はライヒスターラー 1 枚に 5 グルデン 30 クロイツァーを払う Martin Wörle— Wikisource の翻刻 1621
- ニュルンベルク銀行の設立
- 3 月ハンブルクの 1 ターラーが 54 シリング 6 ペニヒ(1614 年 12 月は 37 シリング 6 ペニヒ)
- 12 月グルデンターラー 5 グルデン 30 クロイツァー。ブランデンブルクのライヒスターラーは 1621 年に 4 グルデン
- 1622
- 2 月グルデンターラー 8 グルデン 30 クロイツァー、金グルデン 12 グルデン(表の頂点)。ブランデンブルクのライヒスターラーは 1622 年に 10 グルデン
- 2 月マクデブルクで動揺(ショーが 1866 年の論文を引く)
- 『ユダヤ人のキッパーと両替商』が刷られる。ウルムのヘーベルレはこの年の貨幣が数週間で銅のように赤くなったと記す 作者不詳 1622
- 5 月ハンブルクの 1 ターラーが 48 シリングへ下がる
- 6 月 16 日帝国全体の表でグルデンターラー 2 グルデン 52 クロイツァー
- 1623
- バイエルンの改革。悪貨を減価し、鋳造を帝国の基準へ戻す。ヴュルテンベルクのヒルシュグルデン 1623 年銘 Hubert Emmerig 2010
- 4 月グルデンターラー 1 グルデン 20 クロイツァー、金グルデン 1 グルデン 42 クロイツァー
- 諸領邦が 1623〜1624 年に旧来の帝国貨幣令へ戻り、キッパー貨を無効として回収。損失は国庫が負う Deutsche Bundesbank
- 1624
- ヒルデスハイム市の四分の一ライヒスターラー(本校の実物 mark/reichstaler_1624)
お金はどう動いたか
仕組みは、額面と中身のずれにあります。同じ額面で通る二つの貨幣の銀が違えば、銀の少ない方を打って銀の多い方と交換し、良い方を溶かして再び銀の少ない貨幣に打つことで、鋳造費を引いた差額が残ります。ショーは 1895 年の論文で、この循環が止まるのは相場の改定で利幅が消えるか、良い貨幣が尽きるときだけだ、と書きました。1559 年の令もこの動きを知っており、外国の悪貨の流入と良貨の流出を 6 か月で止めよう、貨幣を「秤にかけて選り出す者」と「買い上げる者」を身体と財産で罰しよう、と定めています。
境界を越えたのは、この循環そのものでした。自分の領邦で悪鋳するより、隣の領邦へ悪貨を持ち込み、良貨を得て持ち帰り、また悪鋳する方が儲かります。持ち込まれた側は身を守るために自分の貨幣を悪くし、隣へ運びます。フォルカートはこれを「防衛的な悪鋳」と呼び、境界が貨幣の流れに対して多孔的だったこと、隣国の貨幣の劣った模造を出すことが悪鋳と同じ効果を持ったことを指摘しました。造幣所が増えるほど、銀の買い上げの競争が激しくなります。
良い貨幣は姿を消しました。1621 年の詩『貨幣たちの新しい対話』では、古いグロッシェンが「とうに火の中」、マリエングロッシェンは「銀の杯になった」と語り、ライヒスターラーは「5 ターラーと 4 分の 1 で通る」と語ります。相場表の数字は、食料の値段ではなく、良い貨幣を悪い貨幣で買うときの上乗せです。日々の買い物は悪貨で行われ、賃金も税も悪貨で払われました。
誰が払ったか。固定の給料や年金で暮らす人が、まず払いました。ヘーベルレは貧しい者が妻子と共に飢えを忍んだと書きます。悪貨は税や貢納として領主へ戻り、農民は減価した金で産物を渡すのを拒み、傭兵は良い金での支払いを求めました。鋳造の利益はこうして相殺され、1623 年からの回収では、キッパー貨を無効にして新しい貨幣に打ち直す損失を領邦の国庫が負いました。銀行の貸出も、紙の証券も、この事件には登場しません。動いたのは金属と秤と炉です。
何から分かるか
史料は三つの層に分かれます。第一に法です。1559 年の帝国貨幣令と 1566 年の帝国議会決議は、1747 年刊行の『帝国議会決議集』第 3 部でバイエルン州立図書館のデジタル画像から読めます。1563 年 12 月の勅令は、多くの都市が令をまだ公布していないと叱責しており、法と現実の距離を法の側が記録しています。
第二に相場表です。管区の貨幣協定と試金集会の記録はヒルシュの『帝国貨幣文書集』全 9 巻にまとめられ、ショーは 1895 年にそこから帝国全体のグルデンターラーと金グルデンの相場表を転載し、ブランデンブルク(フィディツィン)とハンブルク(ゼートベーア)の表を添えました。帝国全体の表には 1621 年 5 月から 1622 年 6 月にかけて同じ 2 グルデン 52 クロイツァーが 6 回現れ、ショーはその性格を説明していません。本ファイルの図は、この繰り返しの無いハンブルクとブランデンブルクの表から描いています。
第三に同時代の刊行物です。1621 年から 1622 年の一枚刷りと詩は VD17(17 世紀ドイツ語圏刊本目録)に登録され、ウィキソースに翻刻があります。『良い金の墓碑銘』(アウクスブルク、マルティン・ヴェルレ)、『貨幣たちの新しい対話』、両替商が神に罰せられる「新しい報せ」、『ユダヤ人のキッパーと両替商』を本ファイルは読みました。ショーはこのほかに 1621 年の歌 3 篇と大英博物館所蔵の題名を挙げ、ロッソーは 2001 年に刊行物としてのこの事件を一冊で扱っています(未読)。
研究の柱とされるキンドルバーガーの 1991 年の論文は有料で、本ファイルは書誌の確認に留まります。パース(2012 年)の一枚刷り集も未読です。教材が書く「食料はおよそ 8 倍」「小額貨は額面の 5 分の 1」は、2012 年のスミソニアン誌の記事に同じ数があり、その記事は出典を明示せずキンドルバーガーを主な典拠に挙げています。1888 年のマイヤー百科事典は「1621 年に良いターラー 1 枚が 7 から 8 ターラー、1623 年には 16 から 20 ターラー」と書き、これも出典を示しません。本ファイルは、実読で確かめた相場表の数だけを本文に置きました。
当時の記録
- Epitaphium oder Deß guten Geldes Grabschrifft(一枚刷り、アウクスブルク、1621/22 年)
- Colloquium novum monetarum, Das ist: Ein schönes newes Gespräch Von dem jetzigen Vnertreglichem Geldauffsteigen / vnd elenden Zustandt des MüntzWesens(1621 年)
- Ein Erschröckliche Newe Zeittung so sich begeben vnd zutragen In disem 1621 Jar mit eim Geldtwechßler(一枚刷り、1621 年)
- Der Jüdische Kipper und Auffwechßler(一枚刷り、1622 年)
機関の解説
研究
物価上昇の規模
総括の数字は無い
食料およそ 8 倍・1621 年に額面の 1/5
同じ数。出典を明示せず、Kindleberger 1991 を主な典拠に挙げる
Mike Dash 2012良いターラー 1 枚が 1621 年 7〜8、1623 年 16〜20 ターラー(出典なし)
Bibliographisches Institut, Leipzig 1887良貨のアジオは 1618 年 5 月 1 fl 22 kr → 1622 年 2 月 8 fl 30 kr。食料の物価ではない
W. A. Shaw 1895「ドイツ史上最初の大インフレ」という位置づけ
最初の大インフレ
神聖ローマ帝国の歴史のなかで最大のインフレ
Deutsche Bundesbank混乱の点で歴史に例が無い貨幣制度(1895 年の表現)
W. A. Shaw 1895名前の由来
どちらの語も速秤で良貨を選り分ける動作
Senta Herkle・Marius Wieandt 2022kippen=切り取る、wippen=秤の皿が沈むように投げ入れる
Bibliographisches Institut, Leipzig 1887両替商が見物人を惑わすために秤を揺らし続けた
Mike Dash 2012「国家そのものが偽金作りになった」
国家そのものが偽金作りになった
貨幣領主の違反は罰金(§31)、偽造者は身体刑(§160〜161)と分ける
皇帝フェルディナント 1 世と帝国等族 1559模造と悪鋳の境界は薄かった
Oliver Volckart 2017よく聞く説明を確かめる
「キッパーは縁を切る者、ヴィッパーは秤を揺らす者」。名前の説明は資料で分かれます。バーデン=ヴュルテンベルク州立文書館の解説と連邦銀行の解説は、どちらの語も速秤で良貨を選り分ける動作だとし、1888 年のマイヤー百科事典は kippen を「切り取る」、wippen を「秤の皿が沈むように投げ入れる」と説きます。レートリヒは、両替商が見物人を惑わすために秤を揺らし続けた手口だと説明しました。1559 年の令は「切る者」と「秤にかけて選り出す者」を別々の罪として並べており、手口は名前より 60 年余り古い。名前そのものは、1621 年の歌の「うちの村ではキッパーと呼び、隣のハンスはヴィッパーだと言う」という一節から広まったと、ショーは見ています。
「ユダヤ人が良い金を溶かした」。1621 年の『良い金の墓碑銘』と 1622 年の『ユダヤ人のキッパーと両替商』は、題名と本文でユダヤ人を名指しして責めました。同じ『墓碑銘』は「ここに来るキリスト教徒はもっと悪い」と、良貨を両替商へ持ち込むキリスト教徒も責め、1597 年のフランクフルトの帝国委員は悪いプフェニヒを押し込む者を「キリスト教徒とユダヤ人」と書いています。悪貨を打ったのは造幣権を持つ領主と都市、貸し出された造幣所の請負人で、1559 年の令が名宛人とするのもその人々です。一枚刷りの帰責は、史料に残る偏見であって、出来事の説明ではありません。
「子どもが悪貨を玩具にした」。本校の教材にあるこの光景は、2012 年のスミソニアン誌の記事が 1923 年との対比で書いた一文に見え、記事は出典を示していません。本ファイルが読んだ同時代の一枚刷り、ヘーベルレの年代記の引用、ショーが引く歌には、この光景はありません。出どころは未特定です。
「民衆は悪鋳した領主の人形を吊るした」。教材のこの一文の出どころも未特定です。騒擾そのものは記録があり、ショーは 1622 年のマクデブルクの動揺について 1866 年の論文を引き、スミソニアン誌の記事は同じ 1622 年 2 月のマクデブルクで 16 人が死に 200 人が負傷したと書きます(原典は示していません)。
「国家そのものが偽金作りになった」。1559 年の令は、貨幣領主が定めの外の貨幣を打てば金 50 マルクの罰金、偽造者は身体と生命で罰する、と両者を分けて書いています。フォルカートは、隣国の貨幣の劣った模造を出すことと悪鋳の境界が薄かったと指摘し、連邦銀行の解説は開戦後の悪鋳を「意識的に」行われたものと書き、州立文書館の解説は皇帝も貨幣投機に加わったと記します。法の上では区別があり、実務ではその区別が崩れた、というのがこの事件の要です。「偽造」の一語で片づけると、法が何を禁じ、誰が破ったかが見えなくなります。
「ドイツ史上最初の大インフレ」「食料は 8 倍」。連邦銀行貨幣博物館は「神聖ローマ帝国の歴史のなかで最大のインフレ」と書き、分母を帝国の歴史に置いています。「最初」については、本ファイルが読んだ資料に根拠がありません。「8 倍」「額面の 5 分の 1」は前節のとおり出典に辿り着けず、地域ごとに違う相場表があるだけです。
「キッパーは縁を切る者、ヴィッパーは秤を揺らす者」
争いあり出どころ: Meyers 1888 ほか 19 世紀の事典。教材 mark/clip_and_seesaw
Senta Herkle・Marius Wieandt 2022 Deutsche Bundesbank Bibliographisches Institut, Leipzig 1887 Mike Dash 2012 皇帝フェルディナント 1 世と帝国等族 1559
「ユダヤ人が良い金を溶かした」
裏付けなし出どころ: 1621〜1622 年の一枚刷り(Wörle・『ユダヤ人のキッパーと両替商』)
Martin Wörle— Wikisource の翻刻 1621 作者不詳 1622 W. A. Shaw 1895 皇帝フェルディナント 1 世と帝国等族 1559
「子どもが悪貨で遊んだ」
裏付けなし出どころ: Dash 2012(出典なし)→ 教材 mark/children_play_1622。同時代史料は未特定
Mike Dash 2012 Senta Herkle・Marius Wieandt 2022 W. A. Shaw 1895
「国家そのものが偽金作りになった」
争いあり出どころ: 教材 coin/de_kipper
皇帝フェルディナント 1 世と帝国等族 1559 Oliver Volckart 2017 Deutsche Bundesbank
「食料はおよそ 8 倍、小額貨は額面の 5 分の 1」
争いあり出どころ: Dash 2012(出典なし。文脈は Kindleberger 1991)→ 教材 coin/de_kipper
Mike Dash 2012 W. A. Shaw 1895 Bibliographisches Institut, Leipzig 1887
今とのつながり
この事件から今に残るのは、額面と中身のずれが境界を越えて広がる速さです。悪貨が入れば隣も悪貨を打ち、良貨は炉と銀器と長持ちの中へ消えます。1559 年の令が小額貨の受け取り義務に 25 グルデンの上限を置いたことは、現在の法定通貨の条文が硬貨の強制通用力に枚数の上限を置くことと同じ問いに答えています。額面だけの貨幣を、誰がどこまで受け取らねばならないか。
もう一つは、裏づけを読む習慣です。ヘーベルレが記した貨幣は、赤くなるまでの数週間は銀に見えました。品位は見ただけでは分からず、秤と試金石を持つ者だけが良貨を選び出せます。発行者が自分で品位を決め、自分で検査する仕組みを、1559 年の令は管区の試金集会で外から検めようとしました。今の貨幣で言えば、発行者の表明とは別に、第三者が中身を確かめる経路があるかどうかです。
比較の限界
この事件と並べられるのは、国家が自らの支払いのために貨幣の価値を動かした事件です。ジョン・ローの体系は、紙幣と株式で信用を動かしました。キッパー・ウント・ヴィッパーは、金属の含有を減らす物理の操作で、境界を越える悪貨によって伝播しました。並べて見えるのは「国家が貨幣の価値を動かす二つの方法」で、物価の記録が地域ごとに違い、総括の数字が無い以上、比較は仕組みの型に限られます。
資産の値上がりを扱う事件と並べてはいけません。悪鋳は発行者の意図的な減価で、担保や資金調達の取り付けとは仕組みが違います。「物価が上がった」という一点だけで 1980 年代の日本や 2007 年の危機と並べると、外形の似た点だけが先に立ちます。
史料
- Käysers Ferdinandi neue Münz-Ordnung samt Valvirung der gülden und silbern Müntzen, und darauf erfolgtem Kayserl. Edict zu Augspurg, alles im Jahr 1559 auffgericht und beschlossen(帝国貨幣令、アウクスブルク 1559 年 8 月 19 日) 皇帝フェルディナント 1 世と帝国等族 — 『Neue und vollständigere Sammlung der Reichs-Abschiede』第 3 部(Senckenberg・Schmauß 編、フランクフルト 1747 年)pp.186–200。Bayerische Staatsbibliothek(MDZ)bsb10492672 の OCR・1559-08-19・史料を開く
- Epitaphium oder Deß guten Geldes Grabschrifft(一枚刷り、アウクスブルク、1621/22 年) Martin Wörle(Brieffmaler, Augsburg)— Wikisource の翻刻(底本は Staats- und Stadtbibliothek Augsburg のデジタル画像。VD17 12:666426W)・1621・史料を開く
- Colloquium novum monetarum, Das ist: Ein schönes newes Gespräch Von dem jetzigen Vnertreglichem Geldauffsteigen / vnd elenden Zustandt des MüntzWesens(1621 年) 「Vel Quasi」(偽名)— Wikisource の翻刻(VD17 3:622624M。画像は Wikimedia Commons)・1621・史料を開く
- Ein Erschröckliche Newe Zeittung so sich begeben vnd zutragen In disem 1621 Jar mit eim Geldtwechßler(一枚刷り、1621 年) 作者不詳 — Wikisource の翻刻(底本: Deutsche Einblattholzschnitte 1500 bis 1700, Digitale Bibliothek, Berlin 2003)・1621・史料を開く
- Der Jüdische Kipper und Auffwechßler(一枚刷り、1622 年) 作者不詳 — Wikisource の翻刻(画像は Wikimedia Commons)・1622・史料を開く
- The Monetary Movements of 1600–1621 in Holland and Germany W. A. Shaw — Transactions of the Royal Historical Society, New Series 9 (1895), pp.189–213(Internet Archive の複製)・1895・史料を開く
- Premodern Debasement: A Messy Affair(LSE Economic History Working Papers No. 270/2017) Oliver Volckart — London School of Economics, Department of Economic History・2017-12・史料を開く
- Das besondere Objekt: Die Kipper- und Wipperzeit von 1618 bis 1623 Deutsche Bundesbank(貨幣博物館の展示解説、PDF 2 頁)・史料を開く
- Kipper- und Wipperzeit(テーマモジュール『Der Dreißigjährige Krieg』) Senta Herkle・Marius Wieandt — LEO-BW(Landesarchiv Baden-Württemberg)・2022-08-02・史料を開く
- Währung (bis 1800) Hubert Emmerig — Historisches Lexikon Bayerns(Bayerische Staatsbibliothek)・2010-11-23・史料を開く
- Kipper und Wipper — Meyers Konversations-Lexikon, 4. Auflage, Band 9 (1887), S. 745 Bibliographisches Institut, Leipzig — Wikisource の翻刻・1887・史料を開く
- “Kipper und Wipper”: Rogue Traders, Rogue Princes, Rogue Bishops and the German Financial Meltdown of 1621–23 Mike Dash — Smithsonian Magazine(2012-03-29)・2012-03-29・史料を開く
- The Economic Crisis of 1619 to 1623 Charles P. Kindleberger — Journal of Economic History 51(1)・1991-03・史料を開く
- The Kipper und Wipper Inflation, 1619–23: An Economic History with Contemporary German Broadsheets Martha White Paas(John Roger Paas, George C. Schoolfield と共著)— Yale University Press・2012・史料を開く
- Die Kipper und Wipper als publizistisches Ereignis (1620–1626) Ulrich Rosseaux — Duncker & Humblot(Schriften zur Wirtschafts- und Sozialgeschichte 67)・2001・史料を開く