1475年
盾の上に太陽をのせた金貨が生まれた。王の輝きの印
王権の輝きを宣言するために生まれた一枚の金貨。やがてその金貨は、囚われた王の身代金を数える単位にもなりました。ある金貨が映し出す、栄光と敗戦の二つの場面をたどります。
3分でわかる 身代金を数えた太陽の金貨
横に送って見られます
1475年
盾の上に太陽をのせた金貨が生まれた。王の輝きの印
1494年
次の王がイタリアへ攻め込む。数えたのは太陽の金貨
1525年2月24日
パヴィアの戦いで負け、フランソワ一世が捕まった
そのあと
王の代わりに、幼い王子2人が人質に送られた
1529年
王子を返す値が決まった。数えたのは太陽の金貨
200万エキュ
同じころ
同じ王は、15年ほどで七つの城館を建てたり改めたりした
その財源
華やかな文化を支えたのは、庶民の負担だった
200万エキュ
1529年、人質の王子2人を返す値として決まった身代金
7つ
敗戦の裏で、同じ王が15年ほどで建てたり改めたりした城館
あなたは王の家来。身代金の支払いで国の財布は苦しいはず。そんなとき、王が新しい宮殿を建てると言いました。お金はどこから出ると思いますか?
選んでみてください
そうではありませんでした。宮殿の光の財源は、敗戦の借りを払ったのと同じ王の財布から出ていました。
そのとおりです。華やかな文化は、税と、役職の売り買いと、国の借金というかたちで、庶民の負担に支えられていました。
栄光の印として生まれた金貨は、敗戦の値を数える単位にもなりました。

金貨の盾の上に、一つの小さな太陽が載っています。エキュ・ドール・オ・ソレイユ、太陽つきの金エキュです。ルイ十一世が一四七五年に創始したこの金貨は、王冠を戴く三つの百合の盾の上に太陽を載せた意匠をしています。これは、回復した王権の輝きを宣言する印でした。
父ルイ十一世が遺したのは、集権され、資金の潤沢な王冠でした。その息子シャルル八世は千四百九十四年、イタリアへ軍を進めます。そのとき数えられた金貨こそ、父が創った太陽の金貨でした。この金貨の基本の形は、フランソワ一世の代まで打たれつづけ、一六四〇年にルイドールが取って代わるまで、フランス金貨の基本でありつづけます。
栄光の象徴であった金貨は、やがて敗戦の代償を数えることになります。千五百二十五年二月二十四日、パヴィアの戦いでフランスは敗れました。王フランソワ一世は捕虜となり、マドリードに囚われます。王は母へ、名誉と、無事な命のほかは、すべて失われた、と書き送ったと伝わります。
やがて、父の代わりに二人の幼い王子が人質としてスペインへ送られました。そして千五百二十九年、二人の女性が取りまとめた和約が、王子たちの返還の値を定めます。二百万エキュ。それは、あの太陽の金貨で数えられた、王の身代金でした。
身代金の支払いがあったその裏で、同じ王が驚くほどの富を積み上げていました。フランソワ一世は、十五年ほどのあいだに、七つもの城館を建て、または改めたのです。その一つフォンテーヌブローは、千五百二十八年ごろから、中世の狩りの館がルネサンスの宮殿へと姿を変えていきました。
壁には王の紋章サラマンドルが刻まれ、イタリアから画家たちが招かれます。レオナルド・ダ・ヴィンチも招かれ、その手になる一枚が、この国へ渡ってきました。この光の財源は、あの敗戦の借りを支払ったのと同じ王の財布から出ていました。華やかな文化は、税と、売官と、公債というかたちで、庶民の負担に支えられていたのです。
やがてその財布の中身は、誰も戦をせぬのに、海の向こうの銀によって、静かに薄まっていきます。
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