NOMISMA SCHOLA
READING A COIN

二十円金貨が定めた円の価値

新貨条例で定められた最高額面の旧二十円金貨。一円を純金一・五グラムと対応させたこの貨幣の価値は、明治三十年に半分になります。その背景には、ロンドンに置かれたままの賠償金がありました。

2026-09-09 葉山 満 実物を読む

一枚の金貨があります。旧二十円金貨。年銘は明治三年と刻まれています。しかし、この貨幣の額面や品位を定めた新貨条例が布かれたのは、その翌年の明治四年、一八七一年のことでした。

「円」という単位と文明開化

明治四年五月十日、新貨条例が布かれます。両、分、朱という四進法の数え方が終わり、円、銭、厘という十進法が始まりました。旧い一両が、新しい一円と等しいと定められます。

では、なぜ「円」と名づけられたのでしょうか。丸い形だからという説。香港で使われた一圓銀貨にならったという説。もともと両を円と呼ぶ習わしがあったという説。三つの説が並び立ったまま、今も定まっていません。大隈重信が指で丸を作ってみせた、という逸話も語られますが、出典はたしかではありません。

この新しい貨幣を作る工場は、大阪の川崎村に建てられました。造幣寮です。香港にあった造幣局が閉鎖されると、その機械を買い取って据え付けました。首長にはイギリス人のトーマス・ウィリアム・キンダーが招かれます。彼の月俸は千四十五円。太政大臣であった三条実美の八百円を上回る、破格の待遇でした。働く者は髷を落とし、洋服を着ることを義務づけられます。ここは文明開化の実験場でもあったのです。

純金一・五グラムの約束

新貨条例は、一円の価値を純金一・五グラムと対応させました。旧二十円金貨は、この決まりに基づいて作られた、最高額面の金貨です。表面に彫られた竜の図は、金工師の加納夏雄の作だと伝わります。

ただし、この金貨がそのまま国の価値の土台になったわけではありませんでした。開港場では銀貨が実際に使われつづけ、しばらくは金貨と銀貨の二本立てで経済が回っていきます。日本が、黄金だけを土台とする金本位の制度に立つのは、まだ先のことでした。

日本に渡らなかった黄金

金本位制が確立されるのは明治三十年のことです。その土台となったのは、日清戦争の賠償金でした。

明治二十八年、下関条約で清が日本へ払う賠償金は、庫平銀二億両に、遼東半島を返す代償の三千万両が加わりました。これは日本円でおよそ三億六千四百七万円になります。しかし、日本はこの賠償金を銀で受け取りませんでした。松方正義の提案により、清は金に換えられる英国ポンドで支払うことに同意します。銀の値下がりで、受け取った金の価値が目減りするのを防ぐためでした。

清はその金を持っていなかったため、露仏や英独の銀行から借金をして支払います。担保になったのは清国の海関税と塩税でした。そしてこの賠償金は、一度も日本へは運ばれていません。ロンドンの地で英貨のまま受け取られ、そのまま日本の正貨の備えとなったのです。

半分になった円の価値

明治三十年三月、新しい貨幣法が公布されます。ここで一円の価値は、純金の四分の三グラムと定められました。明治四年に決められた純金一・五グラムの、ちょうど半分です。

これは平価の切り下げというより、建前を実勢に合わせたのだ、という見方が通っています。では、金本位制とは何だったのでしょうか。国の威信を示すためではありません。海外からお金を借りるための「資格」でした。

明治三十二年、日本はロンドンで一千万ポンドの公債を募集します。しかし応募は伸びず、銀行家たちは日本が金本位を保てるのかを疑い続けていました。

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