使い方で分かれた黄金の行方
豊臣方は秀吉が遺した金銀を兵力に換え、徳川家康は全国で通用する貨幣制度を打ち立てました。同じ時代の金銀が、使い方によって正反対の結末を迎えるまでの道のりです。

東京・銀座の遺跡から、一枚の慶長小判が見つかっています。表面には茣蓙目と呼ばれる横線と桐紋、そして「壱両」「光次」の印。千六百一年に発行が始まったこの金貨は、日本の歴史でも屈指の、富の組み替えのさなかに生まれました。
土地という富の物差し
関ヶ原のあと、西軍についた大名や武将はおよそ百七十人、そのうち大名に戻れたのは十一人だけでした。没収された高は六百二十二万石余り、新しく生まれた大名は六十八人という集計があります。上杉景勝は百二十万石から三十万石へ、毛利輝元は百二十万五千石から二十九万八千石へ。豊臣秀頼も二百二十二万石から六十五万石余りへと縮みました。
一方で、黒田長政や福島正則は倍以上に増えます。信長は茶器で、秀吉は黄金で家臣に報いました。家康の恩賞は、土地に戻ります。そして土地の値は、太閤検地が敷いた石高という物差しで測られました。
兵力に変わった金銀
千六百十四年、大坂冬の陣が始まります。豊臣方は、秀吉が遺した金銀を使って全国から浪人を集めました。関ヶ原のあとの改易が生んだ大量の失業武士が、そのまま兵の供給元になります。前の戦の後始末が、次の戦の兵になったのです。
冬の陣で豊臣方はおよそ十万、徳川方はおよそ二十万。夏の陣では豊臣方が七万八千に減り、徳川方は十五万五千になります。真田信繁には黄金二百枚と銀三十貫が贈られたと伝わりますが、これは後の世の軍記の数で、同じ時代の文書では確かめられません。近くの百姓にも金で参陣を呼びかけたといいます。
制度に残った金銀
千六百十五年五月八日、大坂城が落ちます。焼けた蔵の跡からは金銀が掘り出されました。金一万八千枚と銀二万四千枚とする記録と、金二万八千六十枚とする記録が並びます。豊臣の蓄えは、焼け残りとして勝者に回収されました。
翌年、家康の死に際して作られた帳面には、遺産として金と銀を合わせて百九十三万一千百五十両があったと記されます。豊臣は金を兵に換えて負け、徳川は金を制度に換えて残した。同じ金銀が、使い方で正反対の結末になりました。
全国に通じる貨幣へ
家康は千六百一年に、新しい金銀貨を発行します。慶長小判、一分金、そして丁銀と豆板銀。全国どこでも通じる金貨と銀貨のはじまりです。
小判と一分金は枚数で数える貨幣、丁銀と豆板銀は天秤で量る貨幣でした。同じ国に、数える金と量る銀が並び立ちます。信長は値を決め、秀吉は金を見せ、家康は制度にした。順に手渡された仕事でした。小判の量目は四匁七分六厘、金の含みは八十四パーセント台と定められました。
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