天保4年〜
大雨と冷えで飢饉。国の人口は5年で大きく減った
125万2000人
大坂で餓死者が出るさなか、幕府は財政を支えるため一枚の銀貨を鋳ます。この銀貨が持つ額面と中身の差が、やがて国の金を海の外へ流す扉を開けました。
3分でわかる 天保一分銀と小判の流出
横に送って見られます
天保4年〜
大雨と冷えで飢饉。国の人口は5年で大きく減った
125万2000人
天保8年2月19日
大塩平八郎が兵を挙げ、大坂の町の5分の1が焼けた
1837年〜
幕府はお金を作り替え、中身を減らした差で稼いだ
505万3403両
1842年までの差益。年の収入の3割超
1837年
天保一分銀ができた。銀なのに、金の単位で数えた
そのしくみ
一分銀4枚で小判1両。中身より額面で通るお金だった
安政5年
条約で、外国の銀貨と日本の銀貨を重さで換えると決めた
その結果
メキシコ銀貨1枚は、重さで一分銀3枚と換わった
開港のあと
額面と中身の差が、小判が海外へ出ていく入口になった
1対五
日本での金と銀の交換の比。外の世界は1対15だった
505万3403両
1837年から1842年までに、改鋳で幕府が得た差益
3389軒
大塩平八郎の乱で焼けた家の数
あなたは開港した港の両替商。外国の銀貨1枚が、一分銀3枚と換えられます。一分銀は4枚で小判1両になります。このしくみ、どこかおかしくありませんか?
選んでみてください
重さだけ見れば、理屈は通っています。でも一分銀は、中身より額面で通るお金でした。重さの世界と額面の世界を1本の線で結ぶと、境目に隙間ができます。
そこが入口でした。金と銀の比は、日本が1対五、外の世界は1対15。この開きを通って、小判が国の外へ流れ出しました。
隙間は、1人の悪意ではなく、しくみから生まれました。勘定奉行の水野忠徳だけが、それを見抜いて警めていました。

天保四年の大雨と冷えから始まった飢饉で、この国の人口は五年で、百二十五万二千人減りました。大坂では毎日、百五十人から二百人を超える餓死者が出ています。それでも東町奉行の跡部良弼は、翌年に控えた将軍宣下の入り用のために、大坂の米を江戸へ送り続けました。
町奉行所の元与力で、陽明学者の大塩平八郎は、救済の建議を退けられると、蔵書五万冊を売り払い、窮民一万人に金一朱ずつを配ります。渡したのは、金一朱と引き換えられる施行札でした。天保八年二月十九日の朝、門弟と百姓と町人およそ三百人で兵を挙げ、鴻池、三井、天王寺屋五兵衛といった豪商の蔵を襲います。半日で鎮められましたが、焼けた家は三千三百八十九軒、竈の数で一万二千五百七十八。大坂の町の、五分の一です。
物価が高いのは、株仲間が商いを独り占めしているからだ。そう考えた老中の水野忠邦は、千八百四十一年、株仲間の解散を命じます。結果は逆でした。流通の網が切れると、江戸へ入る品はかえって細り、景気は沈みます。
値を上げていたのは、独占ではありません。幕府自身が鋳た銭です。幕府は天保通宝を出し、小判と一分銀を作り替えて、五年あまりで五百万両を超える出目を得ていました。千八百三十七年に出された天保小判は、金の含みが五十六パーセント台、量目は三匁まで落ちています。同じ年に作られたのが天保一分銀でした。
この改鋳で得た出目は、千八百三十七年から千八百四十二年までで、五百五万三千四百三両。幕府の年の収入の、三割を超える額です。出目なしには、政が回らない。改革を進めた水野忠邦も、この仕組みは断てませんでした。
天保一分銀は、銀貨でありながら金の単位で数える計数銀貨でした。銀の品位は九十九パーセントに近いものの、一両あたりの銀量は九匁二分にとどまる名目貨幣です。
安政五年、日米修好通商条約が結ばれます。その第五条に、外国の貨幣と日本の貨幣は、同じ種類のものを同じ量で通用させるとありました。洋銀、つまりメキシコの銀貨一枚は、目方で測れば一分銀三枚にほぼ等しい。ならば三枚と換える。理屈は通っています。
けれど一分銀は、四枚で小判一両として通う名目の貨幣でした。目方の世界と、名目の世界。二つを一本の線で結べば、境目に隙間ができます。額面と中身の差が、そのまま小判の国外流出の入口になったのです。
総領事ハリスが両替で利を得ていたことは、日記や書簡の研究が指摘しています。ただ、一人の悪意に話を畳んでしまうと、何も見えません。世界が銀で回っていたこと、幕府に外の相場を知る術がなかったこと。隙間は、その構造から生まれました。
金と銀の交換の比は、日本が一対五、外の世界は一対十五。この開きが、次の時代の扉をこじ開けます。勘定奉行の水野忠徳だけが、それを見抜いて警めています。