銀貨に顔を、金庫に金を
フランスの貨幣に、初めて王の現実の横顔が載ります。一枚の銀貨から始まった王権の宣言は、やがて敗戦の身代金と、華やかな文化の財源へとつながっていきました。

王の顔が載った銀貨
中世の長いあいだ、フランスの貨幣に刻まれた王は、玉座に座る定型の、様式化された姿でした。現実の、生身の顔ではありません。その伝統を破ったのが、テストンと呼ばれる重い銀貨です。名は、イタリア語で大きな頭を意味するテストーネから来ています。
千五百十四年、ルイ十二世が勅令で導入したこの銀貨の円盤には、王の現実の横顔が載っていました。千五百四年にミラノ公となった王が、イタリアで流行した肖像入りの様式を母国へ持ち帰ったのです。貨幣に王の顔を載せる。それは、この貨幣が誰のものかという、王権の宣言でもありました。
よく、フランソワ一世が初めて王の顔を刻んだ、と語られます。けれど、それは正しくありません。始めたのはルイ十二世。フランソワ一世の代に、その肖像の美が、頂きに達したのです。
囚われた王と太陽の金貨
肖像の美しさが頂点に達したころ、その顔の主であるフランソワ一世は、戦争に敗れます。千五百二十五年二月二十四日、パヴィアの戦い。イタリアをめぐる長い戦争の、決着の日でした。馬を撃たれた王は捕虜となり、マドリードに囚われます。王は母へ、名誉と、無事な命のほかは、すべて失われた、と書き送ったと伝わります。
やがて、父の代わりに二人の幼い王子が人質としてスペインへ送られ、千五百二十九年に和約が結ばれます。王子たちの返還の値段は、二百万エキュと定められました。このとき、王の身代金を数える単位となったのが、太陽つきの金エキュ、エキュ・ドール・オ・ソレイユです。千四百七十五年に生まれたこの金貨は、盾の上に小さな太陽を戴き、フランス金貨の基本の形でありつづけました。
金庫と宮殿
敗戦と身代金の裏で、同じ王が、驚くほどの富を動かしていました。千五百二十三年三月、フランソワ一世は貯蓄府と呼ぶ国庫を創設します。それまで各地に散らばっていた王領の収益と税収を、単一の金庫にまとめる仕組みです。この金庫は千五百三十二年にルーヴル宮に置かれました。
金庫を満たしたのは、税だけではありません。官職の売り買い、教会からの上納、都市の献金、役人への強制の貸付。そしてその富は、壮麗な城館の建設へと注がれます。十五年ほどのあいだに、シャンボール、ブロワ、フォンテーヌブローなど七つの城館を建て、または改めました。イタリアから画家たちが招かれ、その中にはレオナルド・ダ・ヴィンチもいました。
見た目と流れの両面で
銀貨に顔を、金庫に金を。ルネサンスの王権は、貨幣の見た目と流れの両面で、王こそが財政の中心だと目に見える形で示しました。
華やかな文化は、敗戦の借りを抱えた王の財布から生まれていたのです。その財源の底には、税や売官といった、庶民の負担がありました。
やがてその財布の中身が、誰も戦をせぬのに、海の向こうの銀によって、静かに薄まっていきます。
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