1514年
フランスのお金に、初めて王の本当の横顔が載った
重い銀貨テストン。始めたのはルイ12世
フランスの貨幣に、初めて王の現実の横顔が載ります。一枚の銀貨から始まった王権の宣言は、やがて敗戦の身代金と、華やかな文化の財源へとつながっていきました。
3分でわかる 銀貨に顔を、金庫に金を
横に送って見られます
1514年
フランスのお金に、初めて王の本当の横顔が載った
重い銀貨テストン。始めたのはルイ12世
フランソワ一世の代
銀貨の王の顔の美しさが、頂点に達した
1525年2月24日
その王が戦いに敗れ、捕らわれた
1529年
人質の王子たちを返す値段が決まった
200万エキュ
太陽つきの金貨で数えた
1523年3月
ばらばらの収入を、一つの国の金庫にまとめた
そのころ
税、役職の売り買い、強制の貸付で金庫を満たした
15年ほど
その富で、城館を建て、また改めた
七つ
その底に
華やかな文化の財源の底には、庶民の負担があった
200万エキュ
人質の王子たちを返す値段(1529年)
7つ
15年ほどのあいだに建て、また改めた城館
クイズです。フランスのお金に、初めて王の本当の顔を載せたのは誰でしょう?
選んでみてください
よくそう語られますが、正しくありません。フランソワ一世の代には、その肖像の美が頂点に達したのです。
正解です。1514年、ルイ12世が勅令で重い銀貨テストンを入れ、王の横顔を載せました。イタリアの流行を持ち帰ったのです。
お金に王の顔を載せる。それは、このお金が誰のものかという宣言でした。

中世の長いあいだ、フランスの貨幣に刻まれた王は、玉座に座る定型の、様式化された姿でした。現実の、生身の顔ではありません。その伝統を破ったのが、テストンと呼ばれる重い銀貨です。名は、イタリア語で大きな頭を意味するテストーネから来ています。
千五百十四年、ルイ十二世が勅令で導入したこの銀貨の円盤には、王の現実の横顔が載っていました。千五百四年にミラノ公となった王が、イタリアで流行した肖像入りの様式を母国へ持ち帰ったのです。貨幣に王の顔を載せる。それは、この貨幣が誰のものかという、王権の宣言でもありました。
よく、フランソワ一世が初めて王の顔を刻んだ、と語られます。けれど、それは正しくありません。始めたのはルイ十二世。フランソワ一世の代に、その肖像の美が、頂きに達したのです。
肖像の美しさが頂点に達したころ、その顔の主であるフランソワ一世は、戦争に敗れます。千五百二十五年二月二十四日、パヴィアの戦い。イタリアをめぐる長い戦争の、決着の日でした。馬を撃たれた王は捕虜となり、マドリードに囚われます。王は母へ、名誉と、無事な命のほかは、すべて失われた、と書き送ったと伝わります。
やがて、父の代わりに二人の幼い王子が人質としてスペインへ送られ、千五百二十九年に和約が結ばれます。王子たちの返還の値段は、二百万エキュと定められました。このとき、王の身代金を数える単位となったのが、太陽つきの金エキュ、エキュ・ドール・オ・ソレイユです。千四百七十五年に生まれたこの金貨は、盾の上に小さな太陽を戴き、フランス金貨の基本の形でありつづけました。
敗戦と身代金の裏で、同じ王が、驚くほどの富を動かしていました。千五百二十三年三月、フランソワ一世は貯蓄府と呼ぶ国庫を創設します。それまで各地に散らばっていた王領の収益と税収を、単一の金庫にまとめる仕組みです。この金庫は千五百三十二年にルーヴル宮に置かれました。
金庫を満たしたのは、税だけではありません。官職の売り買い、教会からの上納、都市の献金、役人への強制の貸付。そしてその富は、壮麗な城館の建設へと注がれます。十五年ほどのあいだに、シャンボール、ブロワ、フォンテーヌブローなど七つの城館を建て、または改めました。イタリアから画家たちが招かれ、その中にはレオナルド・ダ・ヴィンチもいました。
銀貨に顔を、金庫に金を。ルネサンスの王権は、貨幣の見た目と流れの両面で、王こそが財政の中心だと目に見える形で示しました。
華やかな文化は、敗戦の借りを抱えた王の財布から生まれていたのです。その財源の底には、税や売官といった、庶民の負担がありました。
やがてその財布の中身が、誰も戦をせぬのに、海の向こうの銀によって、静かに薄まっていきます。
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