1573〜1574年
ライデンの街は、2度も敵に囲まれた
包囲下のライデンでは銀が尽き、教会の書物から貨幣が打たれました。金属の裏づけを持たない紙を支えたのは、街が生き延びれば正貨で償うという、一つの約束だったのです。
3分でわかる ライデンの紙の貨幣
横に送って見られます
1573〜1574年
ライデンの街は、2度も敵に囲まれた
外からお金が入らず、兵の給料もパン代も払えない
多くの街は銀の皿や杯を溶かし、四角い貨幣を作った
王の顔はなく、街の印だけが信用の元
2度目の包囲
ライデンでは、溶かす銀そのものが尽きた
教会の本の表紙を固め、そこに貨幣の刻印を打った
銘は「これは、自由のために」
支えは約束。街が生き延びたら、本物のお金で返す
1574年10月3日
堤防を切り、水の上を船が渡って食料を届けた
街は救われ、今もこの日を祝う
お金の裏づけが、金属から約束へ移った瞬間だった
116年
1690年の紙幣より、ライデンの紙はこれだけ早い
囲まれたライデンで、あなたはパン屋です。兵が紙の貨幣で払おうとします。金属の裏づけはありません。どうしますか?
選んでみてください
この紙を支えたのは「街が持ちこたえたら、本物のお金で償う」という約束でした。1574年10月3日、食料が届き、街は解き放たれます。
でも、街にはもう溶かす銀がありませんでした。囲まれた街で信用を支えられたのは、金属ではなく約束だったのです。
翌1575年、この街には大学が立ちました。

教会の書物から表紙を剥がし、その紙を、幾重にも固める。そこへ、貨幣の刻印が打たれました。紙で打たれた貨幣です。千五百七十三年から翌年にかけて二度も囲まれた街、ライデンでの出来事でした。
包囲戦は、街の財布を締め上げます。城壁の外から正貨は入ってこず、傭兵の給料も、パンの代金も払えなくなります。囲まれた街は、貨幣を自分で作るしかありませんでした。
多くの街では、市中から銀器を集め、皿や杯を炉で潰して地金に戻し、緊急貨幣を作りました。多くは四角い形のまま刻印を押したもので、クリッペと呼ばれます。王の顔も品位の裏づけもなく、街の刻印だけが信用の根拠でした。この貨幣は、反乱側のハールレムにも、スペイン側の手にあったミデルブルフにも残っています。
しかしライデンは、二度目の包囲で銀そのものが尽きました。潰すべき銀器が、もう街にはなかったのです。
そこでライデンは、誰も見たことのない貨幣を作りました。それが、書物の表紙から作られた紙の貨幣です。
面には獅子が立ち、街の紋章である交差する鍵の盾が刻まれました。そして銘には、こうありました。ハエク・リベルタティス・エルゴ——これは、自由のために。同じ包囲のさなかに作られた貨幣には、PVGNO PRO PATRIA——祖国のために戦う、の銘も知られています。
紙のカネそのものは中国がはるかに先んじていました。けれど、囲まれた街が金属の裏づけなしに打ち出したこの紙は、ヨーロッパでは最初期の紙の貨幣とされています。
なぜ、この紙の貨幣は通用したのでしょうか。金属の裏づけはありません。支えていたのは、一つの約束でした。
街が持ちこたえたなら、この紙は、のちに正貨で償われる。そういう誓約の貨幣だったのです。銀が信用を支えるのではなく、約束が信用を支える。貨幣の裏づけが、金属から約束へと移る瞬間が、包囲戦の極限のなかに現れていました。
千五百七十四年十月三日、その約束が試される日は終わります。堤防が切られ、水びたしになった野を海乞食の平底船が渡り、飢えた街に食料を届けました。ライデンは解き放たれ、市は今もこの日を祝い続けています。
翌千五百七十五年、この街に大学が立ちました。籠城の褒美に、免税か大学かを選ばせたという逸話も伝わりますが、これは後世の伝承とされ、同時代の史料の裏づけを欠きます。
ドルの物語は、千六百九十年の紙幣を、戦争の子と呼びました。ライデンの紙は、それより百十六年も早いのです。
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