1616年
4万石の大名が島原へ。城を建て、身の丈を超えて使った
乱の始まりは、刀ではなく帳面でした。四万石の土地を十万石と届け出たと伝えられる大名の元で、税率は倍になります。税を払えない者の身体は拷問の対象となり、やがて起きた一揆を鎮めるため、海からは異国の砲弾が撃ち込まれました。
3分でわかる 島原の乱とお金
横に送って見られます
1616年
4万石の大名が島原へ。城を建て、身の丈を超えて使った
そのころ
4万石ほどの土地を、帳面に10万石と届けたと伝わる
帳面の数が倍になった日、税の率も倍になった
凶作の年も
税を払えない人は、ひどい罰を受けた。体が税の担保に
寛永14年10月25日
村の人々が代官所を襲った。乱の始まり
その後
人々は壊れた城に立てこもった。幕府は食べ物を断った
3万7000人ほど
幕府の軍は12万を超えた
籠城の最中
オランダの船が、海から城へ砲弾を撃ちこんだ
効き目は限られ、幕府の中でも異論が出た
その代金
砲弾の代金は、生糸を商う権利で支払われた
1639年
ポルトガルの船が来るのを禁じた
1641年、オランダの商館は出島へ
4万 → 10万石
実際の土地と、帳面に届けたと伝わる石高
1130 〜 5712
乱で死んだ人の数。記録によって、まるで違う
あなたは幕府の大将です。3万7000人ほどが古い城に立てこもっています。前の大将は総攻めで戦死しました。どうしますか?
選んでみてください
前の大将の板倉重昌は、総攻めをかけて戦死しました。力ずくでは落ちませんでした。
代わった松平信綱は、こちらを選びました。戦いの核心は兵站でした。3か月の籠城ののち、2月28日に城は落ちます。
乱の始まりは刀ではなく帳面、そして終わりは食べ物でした。

乱の始まりは、刀ではありません。帳面です。千六百十六年、松倉重政が四万石で島原へ入りました。しかし重政は、四層の天守をもつ島原城を新しく築き、江戸城の普請を手伝い、ルソンへ攻め入る支度まで進めます。四万石の大名の身の丈を超えた費えは、年貢と夫役になって領民にかかりました。
重政は、実際には四万石ほどの土地を、十万石として届け出たと伝えられます。天草も同じで、決められた石高は、現実の半分ほどだったといいます。検地帳そのものは残っていません。それでも、帳面の数が倍に書かれた日、税の率は倍になりました。
松倉の家は、凶作の年にも年貢を緩めませんでした。納められない者は水牢に入れられ、冬の水に首まで浸けられます。藁の蓑を着せて火を放つ拷問を、人は蓑踊りと呼びました。この情景を書き残したのは、長崎にいたポルトガル人のドゥアルテ・コレアです。
細かいところは食い違いますが、苛政の記述はオランダ商館長クーケバッケルの日記や『鍋島勝茂公譜』にも残ります。系統の違う記録が揃って伝えているのは、年貢の未納を身体で払わせたという事実です。税を払えない者の身体が、税の担保になりました。幕府が国産の寛永通宝を鋳はじめたのは、この乱の前の年のことです。
寛永十四年十月二十五日、有馬村の信徒たちが代官所を襲い、代官を斬りました。総大将には益田四郎時貞、天草四郎と呼ばれる十六歳ほどの少年が担がれます。軍を実際に動かしたのは、小西家や有馬家の旧臣である牢人衆と庄屋たちでした。この乱は、信仰だけでも年貢だけでも説明がつかず、いまは百姓の一揆と見る説のほうが強く語られています。
三万七千人ほどが籠もったのは、原城の廃墟でした。一国一城令で元和二年ごろには壊されていた城です。幕府は十二万を超える軍を送り、上使の板倉重昌は総攻めをかけて戦死します。代わった松平信綱は攻めるのをやめ、兵糧攻めを選びました。戦いの核心は、兵站でした。
幕府の陣に、思わぬ助けが来ます。長崎奉行に頼まれたオランダ商館長クーケバッケルが、デ・ライプ号を島原の沖へ回し、原城へ砲弾を撃ち込みました。プロテスタントのオランダにとって、カトリックのポルトガルとスペインを日本の市場から追い出す機会でした。
信仰を鎮めるための砲弾の代金は、生糸の商いの権利で支払われます。翌千六百三十九年にポルトガル船の来航が禁じられ、千六百四十一年にはオランダ商館が出島へ移りました。ただ、この砲撃が城を落としたわけではありません。効き目は限られ、異国に加勢を頼むとは恥ではないかと嘲られたとも伝わり、幕府の中にも異論が出て取りやめになりました。三か月の籠城ののち、二月二十八日に城は落ちます。死んだ人の数は史料でまるで違い、『島原記』は千百三十、『有馬一件』は二千八百、オランダ商館長の日記は、五千七百十二と記します。
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