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天下の富と、一握りの土

「天下の富は朕が有つ」と宣言した詔は、そのすぐ後で「一握りの土でもよい」と続きます。疫病と乱で国が疲弊した時代に、大仏を造るための銅が集められました。

2026-10-30 葉山 満 お金の話
日本 大仏を鋳た銅/大宰府と平城京

疫病と乱が国を揺るがした

七百三十五年、大宰府の管内で疫病が起こります。いったん収まったかに見えましたが、七百三十七年の四月に再び燃え上がり、七月には平城京と畿内から東へ広がりました。死者は当時の人口の二割五分から三割五分、百万人から百五十万人にのぼるという推計があります。ただし人口そのものも後の世の推計です。

税は人の頭数にかかります。人が死ねば、国庫は縮みます。銭で経済が成り立っていた都が、いちばん強く打たれました。この年、政権を担っていた藤原の四兄弟も相次いで世を去ります。

政権が橘諸兄へ移ると、藤原広嗣が大宰少弐へ移されます。七百四十年の九月、広嗣は兵を挙げました。朝廷が動員した軍は一万七千人、広嗣の側は一万余と伝わりますが、いずれも実数は確かめられません。広嗣は九州の税をまるごと握る財政拠点、大宰府を軍資としていましたが、ひと月で乱は鎮圧されました。

さまよう都と私有された土地

広嗣の乱の報を受けた聖武天皇は、平城京を出ます。七百四十年の十二月に恭仁京へ移り、その後も難波宮、紫香楽宮と、五年で四たび都を動かしました。都を造る費用は、そのたびに国庫と、民の労役から出ていきます。

その途中の七百四十三年五月、墾田永年私財法が出されました。位階に応じて、開墾した土地の永久の私有を認めるというものです。国家が土地の私有を認めたことで、公地公民という建前は実質を失います。有力な貴族と大きな寺社が墾田を集め、初期の荘園が生まれました。

富を宣言し、助けを乞うた詔

同じ年の十月十五日、紫香楽宮で大仏造立の詔が発せられます。盧舎那仏の金銅の像を、一つ造る。詔は、こう始まりました。「天下の富を有つ者は朕なり。天下の勢を有つ者も朕なり。この富と勢とをもって、この尊い像を造る。」

ところが、そのすぐ後にこう続きます。「もし、一枝の草、一握りの土を持って像を造るのを、助けたいと願う者があれば、そのまま許せ。」富を持つと宣言した直後に、一握りの土でもよいと言う。国庫だけでは足りないことを、詔そのものが認めているのです。

銭では払えぬ規模

造像はまず紫香楽の甲賀寺で始まり、都が平城京へ戻るとともに、東大寺で起こし直されました。東大寺要録は、その材料を書き残しています。銅はおよそ五百トンとされますが、これは鋳造に投じた総量です。金は換算に説があり、およそ百五十キログラムから四百四十キログラムまで、二倍以上のひらきがあります。

銅は長門の長登から来ました。金は、七百四十九年に陸奥で産出された国産のものです。この事業に動員されたのは、延べ二百六十万人余りと伝わります。平城京造営の労賃に充てられたとする見方もある和同開珎が発行されたのは、この時代より前のことでした。日当が一文から十文の世に、延べ二百六十万人。銭で払える規模ではありませんでした。

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