NOMISMA
歴史を読む

偽札を刷りながら、戦争が終わるのを待った

ナチスの強制収容所で、英国のポンド札を刷らされた印刷工アドルフ・ブルガー。ベルンハルト作戦の内側を、本人の証言と、博物館や研究の記録でたどります。

2026-10-26 NOMISMA お金の話

囚人番号64401が、所長の部屋に呼び出された。

アウシュヴィッツ=ビルケナウの点呼で、その番号が読み上げられたのは前の日のことだった。翌朝、所長のもとへ出頭せよという命令だった。後年の聞き取りで、アドルフ・ブルガーはこう語っている。自分は英雄ではなかった。チフスも、選別も、いつも恐ろしかった。その夜も一晩じゅう、何のために呼ばれたのかと恐れていた、と。

朝、収容所でただ一つの建物の二階へ上がり、扉を叩いた。気をつけの姿勢で「64401、出頭しました」と叫んだ。名前は言わない。番号で名乗るのが決まりだった。

ところが、部屋で聞かされたのは、思いがけない呼び方だった。

「あなたがブルガーさんですか」

番号ではなく、名前。しかも、敬称がついていた。

ブルガーは2007年の二度の聞き取りで、この場面を語っている。囚人の自分が「さん」をつけて呼ばれた。それほど、この場所では異様な出来事だった。

植字工かと尋ねられ、そうだと答えた。すると、明日ベルリンへ行き、印刷の工場で働くことになる、と告げられた。本人の回想では、「自由な人間としてまた働ける」という言葉まで添えられていた。

ブルガーは、一言も信じられなかったという。

彼の技術が必要とされていた。

ただし、そこで刷るものを選ぶ権利は、彼にはなかった。

最初に偽造したのは、お金ではなかった

戦争前、ブルガーは植字工だった。

文字を組み、紙に刷る。誰かが書いた言葉を、別の誰かが読める形にする。その仕事が、彼の暮らすスロバキアで、別の意味を持ち始める。

ユダヤ人の強制移送が始まっていた。移送から逃れさせようとする地下の組織が、彼の技術を必要とした。

作ったのは、偽の書類だった。本人は、偽の出生証明書や、1938年の時点でカトリック教徒だったことを示す書類を刷ったと語っている。世界ユダヤ人会議の訃報も、彼が偽の洗礼の記録を作ったことを伝えている。

紙の上にある名前や記載は、人の命を守るために使われた。

ここでの偽造は、他人の財布から金を奪うためのものではなかった。本当の身元を知られることが危険な時代に、その人を隠すためのものだった。

1942年8月、組織は露見し、ブルガーと妻のギゼラは逮捕される。本人によれば、その日は彼の25歳の誕生日の前日、8月11日だった。彼はアウシュヴィッツへ送られ、ギゼラはアウシュヴィッツ=ビルケナウで殺害された。

書類を作る技術は、人を助けるために使ったものだった。それでも、自分たち夫婦を守ることはできなかった。

やがて、その技術を欲しがる者が再び現れる。

今度は、彼を収容所に閉じ込めた側だった。

英国を攻撃するために、英国のお金を作る

ブルガーの新しい行き先は、ベルリン近郊のザクセンハウゼン強制収容所だった。着いたのは1944年の春である。

そこで進められていたのが、ベルンハルト作戦だった。指揮したのは、親衛隊の少佐ベルンハルト・クリューガー。作戦の名は、彼の名から取られている。

ナチス側は、英国のポンド紙幣を大量に偽造しようとしていた。英国の経済を混乱させる構想に加え、偽札を諜報活動の資金に使う目的があった。実際に、工作員や情報提供者への支払いや、戦争に必要な物資の買い付けに使われた。

兵器の工場を壊す。船を沈める。補給路を断つ。

戦争には、それとは別に、相手がお金を使う仕組みを攻撃する方法もあった。

支払いで渡された札が本物か分からない。受け取った札を、次の相手が受け取ってくれるかも分からない。疑いが広がれば、買う側だけでなく、売る側にも確かめる手間と危険が生まれる。

ナチス側が利用しようとしたのは、英国のお金が広く信用されているという事実だった。

ポンドとして通れば、ドイツで刷った紙で、相手から物や情報を受け取れる。英国の信用を傷つけるための偽札が、英国の信用に頼って使われる。この作戦には、そのねじれがあった。

クリーブランド連邦準備銀行の解説によれば、作戦はポンドへの信用を崩すには至らず、やがて英国の外での秘密活動の資金へ重心を移した。解説は、その転換は最初の狙いが実現しなかったからこそ可能だった、と指摘している。

偽造の計画そのものは、ブルガーが来るずっと前から動いていた。ザクセンハウゼン記念館の説明によれば、前身の計画は1939年に「アンドレアス作戦」の名で始まった。紙の組成や、紙幣の偽造を防ぐ仕掛け、番号の仕組みが調べられた。出来を試すため、刷った偽札を工作員がスイスへ持ち込むと、イングランド銀行は番号を照らしたうえで本物と認めたという。記念館は、この試験の後に、大量生産のための印刷機を収容所の中に置いた、という順で説明している。

その大量生産のために集められたのが、ブルガーたちだった。

自分たちを迫害する国家が、戦争を続けるために使うお金だった。

食事が増えても、自由にはならなかった

秘密工場は、収容所の中の二つのバラックに置かれ、周囲の区画から隔てられた。クリューガーは各地の収容所から、印刷や紙、図案などの技能を持つユダヤ人の囚人を探させた。ザクセンハウゼン記念館とイングランド銀行博物館は、その数を142人としている。ブルガー本人も、世界中から集められた142人の植字工、と語っている。

そこでは、ほかの囚人より多くの食事が与えられ、私服を着たり、髪を伸ばしたりすることも認められた。

仕事をさせるためには、働ける体でいてもらう必要があった。

しかし、それは、彼らの命が尊重されるようになったことを意味しなかった。工場で見聞きしたことは、外へ持ち出してはいけない秘密だった。

ブルガーは2007年のラジオ番組で、窓が塗りつぶされ、外から中を見られないようになっていたと語っている。週に一度、体を洗いに連れて行かれるときには、収容所じゅうの囚人と親衛隊員が屋内に入らされた。自分たちの姿を見ることは、収容所の所長にさえ許されなかったという。

仕事の間だけ、待遇が変わる。

では、仕事が終わったらどうなるのか。

記念館の説明では、彼らは、病気になること、仕事に失敗すること、作戦が終わることが、どれも自分の死を意味すると知っていた。フィッツウィリアム美術館の展示は、彼らが自分たちを「休暇中の死者」と考えていたと紹介している。ブルガー自身も後に、アウシュヴィッツは何とか生き延びられると思ったが、ザクセンハウゼンでは自分は死んだも同然だと確信していた、と語った。

紙幣を上手に作れば、ナチスの役に立つ。

作れなければ、必要とされなくなる。

自由な職人なら、依頼を断ることも、職場を去ることもできる。しかし、ここでは、その前提がなかった。食事が増えたとしても、生活の行き先を決める権利は戻っていなかった。

最初に名前を呼ばれたときの敬意は、彼が引き受ける仕事を自由に選べるという約束ではなかったのである。

偽物には、使い古された跡まで必要だった

米国ホロコースト記念博物館に、一枚の5ポンド札が残っている。上に「Bank of England(イングランド銀行)」の名、中ほどに「the Sum of Five Pounds(5ポンドの金額)」、左下に「£ Five」とある。右下には「Chief Cashier(出納長)」の署名がある。券の左上と右上、それに右下の三か所に、同じ番号「A/294 47084」が刷られている。

資料写真
白い紙に黒一色で刷られた5ポンド札。上にBank of England、中央にFive Pounds、左上と右上と右下に同じ番号A/294 47084、右下に出納長の署名。
当時の偽札の写真。ザクセンハウゼンで作られた偽の5ポンド札。写真であることは、正規に発行された紙幣であることを示さない。米国ホロコースト記念博物館所蔵(資料番号2015.586.9、Alec Tulkoff 寄贈)。利用条件「No restrictions on use.」。クレジット: United States Holocaust Memorial Museum Collection, Gift of Alec Tulkoff。縮小のみで、補正はしていない。 出典のページ
資料写真
札の上部の拡大。左に「A 294 47084」、右にも同じ「A 294 47084」。
上の写真の枠の部分を拡大。左上と右上に、同じ番号「A/294 47084」が刷られている。同じ資料(資料番号2015.586.9)の写真から上部を切り出して縮小した。補正はしていない。所蔵・利用条件・クレジットは上の写真と同じ。 出典のページ

この札は、英国の中央銀行が発行したものではない。博物館の目録は、ザクセンハウゼンで作られた偽札として記録している。

当時の英国の紙幣は、白い紙の片面に黒一色で刷られた、簡素な意匠だった。簡素だから真似しやすい、というわけではなかった。イングランド銀行博物館によれば、本物の券には、偽造を見破るために、わざと小さな傷がいくつも入れてあった。額面ごとに違う、意図して入れた欠けや乱れである。囚人たちは本物の券を大量に調べ、そうした印を150ほど見つけ出し、5、10、20、50ポンドの版を作った。

偽造を防ぐために銀行が仕込んだ傷が、偽造する側の手本になった。

紙にも、透かしと独特の手触りがあった。ナチス側は試作を重ね、見た目も手触りも本物と同じ紙を作り出した。仕上げには、汚れた手の囚人たちが、刷った札を繰り返しこすり、折り曲げ、使われた跡をつけた。こうしてできた札は、目では本物と見分けられなかったと、同館は説明している。

きれいに仕上げた紙を、わざと傷める。

初めて人の手に渡る紙に、すでに何人もの手を渡ってきたような過去を持たせる。紙幣の模様に加えて、その札が歩いてきたはずの道のりまで偽る仕事だった。

この札は、パン屋で受け取られたものなのか。銀行の窓口から出たものなのか。それとも、収容所の中で作られたものなのか。

紙の上には、その答えが書かれていない。

お金を受け取る人が見ているのは、ふつう、その場で渡された一枚である。その一枚に、銀行が発行したことも、ほかの誰かが受け取ってきたことも、まとめて期待する。

偽造する側は、その期待に合う外見を用意していた。

そして、本物らしくなればなるほど、工場で働く囚人たちの手は、ナチスにとって価値を持った。

仲間は、仕事を終わらせない道を探した

次に求められたのは、米ドルだった。

ブルガーは後年、作業班で彼の上に立っていたオランダ出身のヤコブソンについて語っている。ヤコブソンは、ドルを渡せば戦争を長引かせることになる、と言っていた。写真製版に使うゼラチンを任されていた彼は、それをわざと悪く作った。ネガはよくできていても、刷り上がったドルは使い物にならなかった。ブルガーは、それが工場で行われた唯一の妨害だったと語っている。

工場を壊して逃げた、という話ではない。

働いているように見える場所で、完成を遅らせる。監視する側には技術上の問題と見えるようにしながら、求められた成果を出さない。それが、彼らに残された抵抗の形だった。

技術を持つ人には、うまく作るだけでなく、どこで作業が行き詰まるかを知っているという力もある。彼らは、その知識を使って時間を稼ごうとした。

ただし、時間は彼らだけのものではなかった。

ナチス側は、いつまでも待たなかった。ブルガーの証言によれば、クリューガーがヒムラーの言葉を伝えに来た。数週間のうちにドルができなければ、全員を撃つ、と。

ここでは、失敗の責任を自分一人で引き受ければ済むわけではない。隣で働く囚人の命も、同じ命令に結びつけられていた。

抵抗を続ければ、仲間が殺されるかもしれない。要求に応じれば、自分たちを閉じ込める側が使う資金になる。

「正しい側を選べばよい」と言える場所ではなかった。

ブルガーの回想では、この脅しの後、ヤコブソンはまともなゼラチンを作り始めた。だが、もう遅かった。ソ連軍はベルリンから150キロのところまで来ていた、と彼は語っている。ドルの偽造は、量産までは進まなかった。

彼らが待っていたのは、完成した紙幣に対する評価ではなかった。

自分たちを働かせる命令そのものが、力を失う時だった。

本物と同じ番号を持つ札

ここで、秘密工場の外に目を移す。

ブルガーがザクセンハウゼンへ移される前年の1943年、モロッコの英国系の銀行を経た一枚の偽札が、イングランド銀行で見つかっていた。

イングランド銀行博物館の説明によれば、手掛かりは番号だった。当時、流通から引き揚げた券の番号は、革装の台帳に記録されていた。目の前の札の番号は、すでに「支払い済み」になっていた。同じ番号の札が、もう一度現れたのである。

偽造する側は、紙も版も作り上げたが、紙幣の番号の仕組みは解ききれず、本物の番号を使い回していた。

番号を照らして本物と認められた札と、番号の重複で見破られた札。どちらも、同じ使い回しの結果だった。一枚だけを照らせば、番号は本物と合う。同じ番号が二度、銀行へ戻ってきたとき、初めて矛盾が現れる。

紙の手触りも、印刷も、本物と見分けられなかった。

しかし、その札には、本物として説明できる経歴がなかった。

どれだけ姿を似せても、すでに回収された一枚が、別の場所から再び支払いに現れる矛盾までは消せない。

1943年、イングランド銀行は番号の重複から偽札を見つけた。10ポンド以上の券は新しく発行されなくなり、1945年には法貨でなくなった。偽造の脅威も、その理由の一つとされている。

同じ番号の札が二枚、という手掛かりは、別の事件にも現れる。1925年のポルトガルでは、正規の印刷会社が本物の版で刷った紙幣が、発行の権限のないまま持ち込まれた。同じ通し番号の二枚の話である。そこでは紙も版も正規の物で、欠けていたのは発行の権限だった。ブルガーたちの札は逆に、紙も版も作り物で、番号だけが本物から借りられていた。違う作り方をした二つの偽札が、同じ番号という一点で記録と食い違った。

見慣れた名前が書かれていることと、本当にその相手が出したことは、同じではない。この違いは、今の暮らしにもある。実在する企業の名を名乗るメールでも、表示された送信元だけで真偽を判断することは難しい、と警察庁は注意している。勧められているのは、メールの中のリンクではなく、あらかじめ登録した公式サイトや公式アプリから確かめることだ。ただし、1943年の偽札は国家が作らせたもので、狙われたのは一つの国の通貨だった。今の詐欺と同じ犯罪だと言いたいのではない。共通しているのは、外見の外にある記録と突き合わせて初めて分かる、という一点である。名前を借りる手口の今の形は、講座「詐欺の手口と身を守る方法」の第2節で扱っている。

1943年の偽札も、紙の表面だけでは見えない記録と突き合わせたところで、矛盾が現れた。

ただ、それで秘密工場が止まったわけではなかった。

英国側が券の切り替えを進める間も、囚人たちに、自分の仕事をやめる自由はなかった。

一枚の書類が届いても、門は開かなかった

1944年、ブルガーには、もう一つの紙が関わってくる。

今度は、彼自身を救い出そうとする書類だった。

スロバキアのユダヤ人の救援に動く人々は、パレスチナへの移住許可を使って、アウシュヴィッツにいる人を救えないかと働きかけていた。ジュネーヴのパレスチナ事務所のハイム・ポズナーは、1944年8月25日付で、ブルガーの名の移住許可の確認書を送った。宛先は「ノイベルン近郊、ビルケナウ労働収容所」だった。

その時、彼はすでにザクセンハウゼンにいた。書類は、移された先まで転送された。

彼は収容所の政治部に呼び出され、短い取り調べの後、書類を受け取ったという紙に署名した。取り調べが終わると、親衛隊員は、収容所から出ることなど問題にならない、と告げたという。

歴史家イェホシュア・ビュヒラーの研究は、ブルガーの証言と、彼の手元に残った確認書から、この経緯をたどっている。アウシュヴィッツへ送られた確認書で、これまでに見つかっているのはこの一通だけである。

ビュヒラーは、もう一つの事実も書き留めている。ザクセンハウゼンの印刷所は、偽札のほかに、ヘブライ語とドイツ語で「ジュネーヴのパレスチナ事務所」と刷った便箋も作っていた。ビュヒラーは、その意匠は、ポズナーがベルゲン・ベルゼンへ、あるいはアウシュヴィッツへも送った確認書から写されたものだろう、と見ている。ブルガーによれば、ナチスの側の人間は戦後、その用紙を使って追及から逃れた。

かつて彼は、人を逃がすために偽の証明書を作った。

今度は、彼を助けようとして送られた書類が、その手に届いた。同じ工房では、その書類を出した事務所の名を刷った用紙が作られていた。

だが、正規の書類が届くことと、相手がその効力を認めることは別だった。収容所を支配している者が門を開けなければ、紙を持っているだけでは外へ出られない。

偽のお金は、工場の外で支払いに使われる。

一方で、自分を助けるための本当の書類は、目の前の門を開けない。

紙に何が書かれているかだけでは、決まらないことがあった。

その紙を受け入れるのは誰か。拒む権力を持っているのは誰か。その違いが、彼の身体を収容所の中にとどめていた。

ブルガーは、その確認書を手放さなかった。ザクセンハウゼンでも、その後の収容所でも持ち続けた。

戦争が終わっても、紙は残った

戦争末期、偽造に関わった囚人たちは、ドイツからオーストリアへ移された。ザクセンハウゼン記念館の説明では、1945年2月にまずマウトハウゼンへ、次いでレードル=ツィップフの支所へ送られた。オーストリアで印刷を続ける予定はあったが、生産は再開されなかった。最後に移されたのは、エーベンゼーの収容所だった。

図
中欧の位置図。ブラチスラヴァからアウシュヴィッツ、ザクセンハウゼン、マウトハウゼン、レードル=ツィップフ、エーベンゼーへ矢印が続き、解放後のプラハへ点線の矢印。トプリッツ湖に四角の印。

図は横に動かすと全体を見られます。

地図。アドルフ・ブルガーが移された収容所の位置(1942〜1945年)。実線の矢印は収容所の間の移送で、数字は移送の年。点線の矢印は、解放後に本人がプラハへ戻った移動(経路は不明)。四角はトプリッツ湖(偽札と機材が沈められた湖)。ザクセンハウゼンはベルリン近郊。線は実際の経路ではなく、出発地と到着地を直線で結んだもの。国境と鉄道は描いていない。制作: NOMISMA。位置は Wikidata の座標(2026-10-26 取得、CC0)。地名の表記は本文に合わせた(本文に出ないブラチスラヴァは Wikidata の名による)。北緯49.5度を基準にした正距円筒図法。 出典のページ

秘密を知る者として、彼らは殺される予定だった、と複数の資料が伝えている。

ブルガーの記憶では、1945年5月5日の午前10時30分、作業班はエーベンゼーの収容所の門の中へ入った。門にいた武装した囚人は、髪があり、清潔な服と靴の一団を見て、囚人だと信じなかった。仲間が前へ出て袖を見せ、自分たちはアウシュヴィッツの囚人で、ザクセンハウゼンの特別作業班だと訴えた。門が開くと、皆で収容所の奥まで走った。「アメリカ人はまだ来ていなかったが、それが私たちの解放だった」と彼は語っている。

米軍がエーベンゼーを解放したのは、翌5月6日である。

戦争を生き延びても、ギゼラは戻らなかった。捕まる前の二人の暮らしに、そのまま帰れるわけではなかった。

一方、秘密工場で作られた物は、彼らが解放された瞬間に消えたわけではない。

1945年、オーストリアのトプリッツ湖には、偽札の箱や印刷の機材が沈められた。湖からは1959年以降、偽札や版が引き揚げられた。国際スパイ博物館には、湖から引き揚げられた10ポンド札の印刷版が残っている。現存が知られる、ただ一つの版である。

水の底に沈められた物と、工場から生きて出てきた人。

秘密だった作戦をたどるための手掛かりは、その両方に残った。

1945年5月の終わり、プラハへ戻ったブルガーが最初に向かったのは、警察署だったという。自分たちが収容所で何をさせられていたかを届け出た。警官たちは、初めは信じなかった。

やがて、国立銀行の幹部たちにも、偽造の話をすることになった。

本人の回想によれば、話し終えると、銀行の人々は大きな赤い帳面を持ってきた。そこには、偽札を作り手に返したのはこれが初めてだ、と書かれ、彼は署名した。そして、一枚の偽札を手渡された。彼はその札を、後年まで持っていた。

かつてその札は、作られた場所を隠すために、本物そっくりでなければならなかった。

今度は、作られた場所を語る人の手に渡った。

お金としては偽物でも、その人が経験したことを伝える証拠にはなった。

戦後、ブルガーはプラハで再び印刷の仕事をした。解放の年に出た最初の本の題は、『番号64401は語る』だった。後に彼は記者となり、作戦の全体を、自分の名で『悪魔の工房』という本に書いた。ドイツの学校を訪ね、生徒たちに語り続けた。

最初に彼が作った偽の書類は、人を迫害から逃がすためのものだった。

収容所で作らされた偽のお金は、迫害する側が使うためのものだった。

戦後に印刷された彼の言葉は、その二つの間で何が起きたのかを、後の世代へ渡すためのものになった。

同じ印刷工の仕事でも、何を刷るかを決める者が変われば、その手が引き受けさせられる役割も変わる。

所長の部屋で、彼は番号で名乗らなければならなかった。解放の年の本にも、まだ番号が題として残っていた。

ブルガーは、生き延びた後、再び自分で伝える内容を選べる場所へ戻った。

今度は、自分の名前で。

この話の前と後

この作戦を、国家による偽造の歴史の中で読むなら、講座「偽金と偽札の歴史」の第3節がある。王が自分の貨幣の品位を落とすことと、よその国の紙幣を写して流すことは、どちらも額面と中身の差を使う。けれど前者は発行の権限の内側で、後者はその外側の行為だった。ブルガーたちが刷らされたのは、後者だった。

コイン編の章「偽金の歴史」には、この作戦を扱った話「収容所で刷られた偽のポンド札」がある(申し込むと読める章)。

出典と編集上の注記

人物の会話・様子は、確認できた後年の証言を帰属つきで用いた。記録にない会話、天候、物音、当日の心中は加えていない。証言は、出来事から60年あまり後の聞き取り(2007年)が中心で、日付・人数・期限などの細部は、ほかの記録と照らせた範囲で書いた。資料によって食い違う人数・総額・期限の週数(本人の聞き取りでは5週間、同じ年のラジオ番組の要約では6週間)、紙幣に穴を開けたなどとされる抵抗の逸話は採用していない。証言中の個別の説明すべてを、独立して確定した事実として扱うものではない。映画『ヒトラーの贋札』は、出来事の根拠に使っていない。

  • 本人の聞き取り(2007年1月12日、プラハ): Memory of Nations「Adolf Burger (1917–2016)」。所長室の場面・ヤコブソンの妨害と期限・エーベンゼーの門の場面は、このページの英訳の抜粋による。
  • 本人への取材(2007年4月初回放送・2008年再放送): Radio Prague International「Ambitious Nazi counterfeiting plot recalled by Holocaust survivor」。偽の書類の種類・逮捕の日・窓の塗りつぶし・ヤコブソンの出身。
  • 本人の回想(銀行での返還): Memory of Nations Sites「One Third of the Money Was Counterfeit」。「三分の一」という数量と、彼がいなければ世界に知られなかったとの評価は採用していない。
  • 訃報: Mauthausen Memorial「Obituary for Adolf Burger」(2016年)。解放年の原文「1645」は誤記で、1945年はイングランド銀行博物館などで照合した。World Jewish Congress「Last Holocaust survivor forced to counterfeit banknotes for Nazis dies at 99」(2016年)。洗礼の記録・ザクセンハウゼンについての発言(JTA、2008年)・最初の本の題。
  • 研究: Yehoshua Büchler「“Certificates” for Auschwitz」Yad Vashem Studies XXX(2002)。公開版の21〜23ページ。
  • 展示・解説: ザクセンハウゼン記念館「A Genuine Forgery」。イングランド銀行博物館「Operation Bernhard」(2024年)。フィッツウィリアム美術館「Defaced! Money, Conflict, Protest」展の大活字ラベル(PDFの134ページ)。国際スパイ博物館「Operation Bernhard Printing Plate」。ドイツスパイ博物館「10 Pfund-Banknote Operation Bernhard」(待遇のみ参照)。
  • 発行停止: イングランド銀行の冊子『Security by Design』(2007年)の年表「1943年、偽造の脅威に対処するため5ポンドを超える券の発行を停止」(当時は5ポンドの次が10ポンド券だったため、本文の「10ポンド以上」と同じ券を指す)。
  • 経済の解説: David E. Altig, Federal Reserve Bank of Cleveland, “Why Is Stable Money Such a Big Deal?”(2002年)。作戦の結果と転換の指摘のみを参照し、概算額は採用していない。
  • 現代との比較: 警察庁「フィッシング対策」。比較は編集部によるもので、犯罪や被害の同一性を主張していない。
  • 偽札の写真: 米国ホロコースト記念博物館 所蔵品2015.586.9(Alec Tulkoff 寄贈。目録の利用条件「No restrictions on use」)。

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