三百十七年を生きた銭
千六百六十八年、江戸亀戸で生まれた一枚の銭が、渡来銭の時代を終わらせました。その銭は飢饉を越え、昭和の日本まで法律の上で通用し続けます。

千六百六十八年、江戸の亀戸村に銭座が開かれ、寛永通宝が大量に鋳られました。裏に「文」の一字があることから、文銭と呼ばれます。
静かな革命
新しく鋳られた文銭は、質がよく、量も十分にありました。そして千六百七十年、幕府は寛永通宝のほかの銭の通用を禁じます。
両替屋の銭箱では、役目を終えた永楽銭や宋の銭、そして鐚銭が、緡ごと脇へ退けられていきました。平安の末からつづいた、中国で作られた銭で暮らす時代が終わったのです。この一枚をもって、撰銭という争いの時代も決着しました。信長は比率を決めて裁こうとしましたが、幕府は良質で均質な銭を十分に配ることで、争いの種そのものを取り除きました。静かな革命でした。
銭が金属に戻る日
銭は暮らしの道具ですが、食べられません。
千七百八十二年から、空の色が変わりました。翌年には岩木山と浅間山が噴き、アイスランドのラキ火山の塵が北の半球を覆って日射しを弱めます。浅間の灰だけが原因ではなく、その前の年から稲は実っていませんでした。
弘前藩では餓死が十万二千人あまり、盛岡藩では七万五千人を超え、これは領民のおよそ四分の一にあたります。千七百八十年から千七百八十六年までに、この国の人口は九十二万人あまり減りました。地方の記録には、人が人を食べたことまで記されました。米のない年、銭は真っ先に、ただの金属へ戻ります。
手のひらの記憶
江戸の町の暮らしの値段は、銭で書かれていました。湯屋、髪結、蕎麦、木戸銭。人々が日々手にする寛永通宝には、銅の一文銭や鉄の一文銭、真鍮の四文銭、鉄の四文銭がありました。
元文のころから銅が足りなくなり、鉄の銭が大量に鋳られます。手のひらの中で、銅と鉄の重さが違いました。人はそれを、指で覚えていたはずです。地獄の沙汰も金次第という言葉も、この銭の時代に染みついたものです。
昭和の釣り銭
寛永通宝という銭そのものが鋳られ始めたのは、千六百三十六年です。それから三百十七年。この銭が法律の上で正式に使えなくなったのは、昭和二十八年のことでした。小額通貨整理法によってです。
江戸の銭が、昭和の日本でまだお金だったのです。ひとつの銭が、これほど長く生き続けた例はそうありません。昭和の駄菓子屋の釣り銭に、この銭が混じっていたという話も残っています。
今、この寛永通宝は数百円で手に入ります。けれど、その一枚には、鋳た職人の手と、使った人々の三百年が乗っています。文字が摩耗しているのは、数えきれない手のひらが撫でた跡です。
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