1815年6月18日(日)
ワーテルローで戦いがあった
ウェリントン公の公報は、翌19日付で書かれた
1846年、パリで30サンチームの小冊子が売られました。そこには、ネイサン・ロスチャイルドがワーテルローの結果を公式の知らせより24時間早く知り、一撃で二千万を得た、と書かれていました。

3分でわかる ワーテルローの噂
横に送って見られます
1815年6月18日(日)
ワーテルローで戦いがあった
ウェリントン公の公報は、翌19日付で書かれた
6月21日(水)の朝
ドーヴァーから来た男が、ロンドンで勝利を話した
誰でも聞ける話で、正午までに新聞に刷られた
6月21日の日中
ネイサン・ロスチャイルドには、手紙で知らせが届いた
使者ではなく、ヘントからの手紙
6月21日の夜
公式の知らせが届き、翌日の官報に載った
Percy 少佐が公報を運んだ
1815年6月
国債の値は、16日の底から毎日上がっていた
53¾ → 56½
3% の国債の終値(6月16日 → 22日)
1815年7月27日
早く知って「うまくやった」と聞いた、という手紙が一通ある
相場を操った証拠は無い
1846年 パリ
31年後の小冊子が「24時間早く知り、一撃で2000万」と書いた
30サンチーム
小冊子の値段。2000万の通貨の単位は書かれていない
1887年〜1913年
後の本が、嵐の海峡や伝書鳩の話を書き足した
1815年の英国に、伝書鳩を組織だって使った記録は無い
1940年
噂は宣伝映画の下敷きになり、いまも出回っている
噂が作られた年と刷り物から、書いた側の狙いが見える
56½(額面100に対する価格)
官報が出た6月22日の、3% の国債の終値。暴落は相場表に無い
3つの知らせ
同じ21日に重なった知らせ(朝に男の話・日中に手紙・夜に公報)
1,800万ポンド近く
1814年の春から、家が大陸で払った額。実際の商いは軍資金と補助金だった
1815年6月21日の朝、あなたはロンドンのシティにいます。ドーヴァーから来た男が「勝った」と話しています。公式の知らせはまだです。どうしますか?
選んでみてください
その話は、朝からシティで誰でも聞けるものでした。正午までに新聞にも刷られています。早い知らせは、1人だけのものではありませんでした。
公報はその夜に届き、翌22日の官報に載りました。国債の値は16日の底から毎日上がっていて、21日55½、22日56½。暴落はどこにもありません。
「24時間早く」「一撃で2000万」は、1815年の記録のどこにもありません。この話は31年後、1846年の小冊子で作られ、本や辞典に写されながら大きくなっていきました。
1846年 パリ
小冊子の題は『サタンによる、ユダヤ人の王ロスチャイルド一世の教訓的で奇妙な物語』。ユダヤ人を敵として描く、反ユダヤの刷り物です。読める写しは第4版で、値段は30サンチーム、全35ページでした。
11〜12ページにはこうあります。ネイサンはベルギーでワーテルローの戦いを見つめ、オステンドまで馬を継がせ、嵐の中を金の力で小舟で渡り、知らせの到着より24時間早くロンドンに着いて、一撃で二千万を得た。二千万の通貨の単位は、どこにも書かれていません。
この年の7月8日、ロスチャイルド家が主導したフランス北部の鉄道で、列車が沼に落ちる事故が起きていました。小冊子は30ページで、ワーテルローの死体で投機した者は、鉄道の犠牲者の死体でも投機できる、と結びます。
では、1815年6月の記録には、何が残っているのか。戦いの日から順に見ていきます。
1815年6月18日(日)〜21日(水)
ワーテルローの戦いは、1815年6月18日の日曜でした。ウェリントン公の公報は、翌19日付で書かれます。
最初にロンドンへ知らせを運んだのは、その週の新聞に「ドーヴァーの C 氏」と書かれた人物でした。19日の月曜にヘントで、ルイ18世に届いた勝利の手紙の場に居合わせ、火曜から水曜にかけての夜にロンドンへ着き、21日水曜の朝にはシティで公然と語っています。正午までに、そのことは印刷されて報じられました。
ネイサン・ロスチャイルドのもとには、使者ではなく、ヘントからの手紙が届きました。同じ21日の水曜です。家の文書館の論考は、その到着を午後と読んでいます。使者だったと言われる社員の Roworth は、文書館に残る手紙によれば、19日の月曜にはロンドンにいました。
公式の知らせは、その夜でした。Percy 少佐が公報をダウニング街へ運んだのは21日の夜で、翌22日の官報に「昨夜到着した」と載っています。
1815年6月18日
ワーテルローの戦い(日曜)
1815年6月19日
公爵が公報を書く。ヘントで C 氏が勝利の手紙の場に居合わせる
なぜ重要かRoworth はロンドンにいた(6月20日付の手紙)
1815年6月21日
朝に C 氏がシティで語る。日中にネイサンへヘントからの手紙。夜に公報が届く
なぜ重要か3つの知らせが同じ水曜に重なる
1815年6月22日
官報に公報が載る
なぜ重要か3% の国債の終値56½
1815年6月27日
オムニウム13プレミアム
なぜ重要か3% の国債の終値59⅛
The Gentleman's Magazine。表は Richardson, Goodluck, & Co., Bank Buildings の作成1815
この図で分かること公式の知らせ(21日の夜)より前に、C 氏の話(21日の朝)とネイサンへの手紙(21日の日中)があり、どれも1846年の「24時間早い」とは合わないことが分かります。
記録の上で、公式の知らせより早かったのは C 氏の話で、それは21日の朝からシティで誰もが聞けるものでした。ネイサンの手紙は、同じ日の日中です。「24時間早い」は C 氏についてなら言えても、C 氏は知らせを惜しみなく人に分けています。
1815年6月
小冊子より後の本には、ネイサンが敗北の噂を流して相場を暴落させ、底で買い占めた、という筋書きもあります。その月の相場表と並べてみます。
雑誌に載った6月の相場表では、3% の国債(減債年金)の終値は、6月1日の58¼ から下がり、16日に53¾ で月の底を付けます。そこから19日54⅛、20日54⅝、21日55½、22日56½ と、毎日上がっていました。
Gentleman's Magazine 1815年6月号 p. 576の日々の相場表から。3% コンソルは6月3日から帳簿が閉じて相場が無い。戦いは18日(日曜)、公報の到着は21日夜。
この図で分かること国債の値が6月16日の底から毎日上がっていて、暴落させて買い占めたという動きが表に無いことが分かります。
出所: The Gentleman's Magazine。表は Richardson, Goodluck, & Co., Bank Buildings の作成1815 p. 576(ページ画像で読んだ)
21日の新聞が伝える公債の引受証(オムニウム)は、始値4¾ のプレミアムで、日中に6近くまで上がり、終値は4¾ でした。始値はその日までの最高値で、始値を割っていません。暴落させて底で買い占めた、という動きは、相場表には現れていません。
1814年〜1815年
早い情報で得をしたことを示す手紙は、一通あります。1815年7月27日に Roworth がパリから書いた手紙の追伸で、ワーテルローの勝利を早く知ったことで「うまくやった」と聞いた、とあります。
家の文書館の論考は、水曜の午後に引受証を5前後で買い、翌日8以上で売れたなら、一晩の収益として「うまくやった」に値すると見ます。ただし、額面で公債を引き受けた人々の利益には及ばず、相場を操った証拠は無く、兄弟との手紙にも生前の新聞にも、大もうけの話は出てきません。数週間後には、政府が申し出た騎士の位を辞退しています。論考の結びは、早い情報を持ち、それで利益を得たようだ、残りは作り話、です。この論考は家の文書館が出したもので、引かれた手紙の原本はまだ読めていません。
実際の商いは、別のところにありました。1814年1月11日の手紙で、ネイサンは英国政府の代理人に任じられます。ウェリントン軍のための金貨の買い付けと輸送を請け負い、勝利の後には同盟国への補助金の支払いを請け負いました。政府の報告によれば、家は1814年の春から大陸で1,800万ポンド近くを支払っています。
1887年〜1957年
1846年の話は、後の本で細部を増やしていきます。1887年のリーヴズの伝記では、ネイサンは高い所から戦いを見物し、オステンドで漁師に500、600、800フランと断られ、2,000フランで嵐の海峡を渡らせ、翌日は取引所の柱の前に青ざめて立ち、「百万ポンド近く」を得たことになります。1913年のバラの本では、漁師の値段が500、800、1,000フランの後に2,000フランになっています。
辞典も話を写しました。1897年の英国人名辞典は、ロスチャイルド自身が知らせを運んで独占的に取引したという話を「作り話」としながら、Roworth が6月20日の早朝に最初の知らせを届けたと留保つきで書きます。けれども、Roworth が19日にロンドンにいたという手紙と合いません。1911年のブリタニカ百科事典は、伝書鳩と自前の快速船を加えました。
1815年の英国には、伝書鳩を組織だって使った記録はありません。快速船を待たせていたという説の裏づけとされた日記は、1957年に、19世紀の末に作られた偽物だと示されました。
1846年
パリの小冊子(第4版・30サンチーム)
なぜ重要か24時間早く、一撃で二千万
1887年
リーヴズの伝記
なぜ重要か戦場の見物・2,000フランの漁師・取引所の柱・「百万ポンド近く」
1897年
英国人名辞典
なぜ重要か「作り話」としつつ、Roworth の6月20日早朝の到着を書く
1911年
ブリタニカ百科事典 第11版
なぜ重要か伝書鳩と快速船
1913年
バラの本
なぜ重要か漁師の値段が版によって変わる
1940年
ナチの宣伝映画
なぜ重要かいまも反ユダヤ主義のサイトで出回る
この図で分かること1846年の小冊子から、伝記・辞典・百科事典・宣伝映画へと、話がどの年にどの媒体で写され、細部が増えていったかが分かります。
1846年と1940年
小冊子の著者は「サタン」と名乗っています。家の文書館の論考は、1982年の研究に拠って、この著者を左派の活動家で著述家のジョルジュ・デルンヴァエルと同定し、小冊子は欧州で数万部売れたと書きます。同じ年の別の風刺文書は、「1815 — ワーテルロー — Fampoux」と三つの言葉を並べました。Fampoux は、鉄道の事故が起きた場所です。
この話は、1940年のナチの宣伝映画『ロスチャイルド家 — ワーテルローの株』の下敷きになり、いまも反ユダヤ主義のサイトで出回っています。論考は、小冊子と映画の狙いが、ネイサンにシャイロックやフェイギンのような像を刻むことにあったと書き、反ユダヤ主義の意図なしにこの話を繰り返した人もいると認めています。
1815年6月21日に戻る
冒頭の問いに戻ります。記録で最初にロンドンへ知らせを運んだのは「ドーヴァーの C 氏」で、21日の朝のことでした。ネイサンは同じ日の日中に手紙で知り、公式の知らせはその夜です。ネイサンが早い情報で利益を得たことは、一通の手紙が示しています。一方で、「24時間早く」「一撃で二千万」は、1815年の記録のどこにもありません。
そして1846年の小冊子は、戦いの31年後、鉄道の事故の後に、「1815年の利益」という話に「死体で投機した」という型を重ねて書かれました。噂がいつ、どの刷り物で作られたかが分かれば、その噂そのものが、書いた側を知るための史料になります。
この図で分かること1815年の3つの知らせと相場表から、1846年に噂が作られ、写されて育っていくまでを一続きでたどれます。
ここから先は、もとの教材の本文・年表・図・研究者の見方を、省かずに読めます。見出しを押すと開きます。
1815年6月18日のワーテルローの結果をネイサン・ロスチャイルドがいち早く知って財を成した、という話の出どころは、1846年にパリで30サンチームで売られた反ユダヤの小冊子です。公報の到着(6月21日夜)、ヘントからの手紙(同じ21日)、最初に知らせを運んだ「ドーヴァーの C 氏」(21日朝)、そして6月の相場表を並べると、「一日早く」も「一撃で二千万」も史料のどこにもありません。噂は1887年の伝記、1897年と1911年の辞典、1940年の宣伝映画へ写され、いまも流通しています。
もとの問い一八一五年六月、誰が最初に知り、誰が何を得たのか。そして一八四六年に、誰が何のために書いたのか。
1815年6月18日の日曜、ブリュッセルの南でウェリントンとブリュッヒャーの軍がナポレオンを破りました。ロンドンがそれを公式に知ったのは3日後です。公爵が「Waterloo, June 19」の日付で書いた公報を Percy 少佐が運び、6月21日水曜の夜に Downing Street へ着き、翌22日木曜の『London Gazette Extraordinary』第17028号に全文が載りました。その3日間に誰が何を知り、相場がどう動いたか。そして31年後にその3日間がどう語り直されたか。事件はこの二つの層でできています。
6月の相場は『Gentleman's Magazine』の月末の表に残っています。3% コンソルは6月3日から帳簿が閉じて相場が無く、代わりに3% 減債年金(Reduced)が目安になります。6月1日に58¼ だった値は、ナポレオンが動いた15日に53⅞、16日に53¾ まで下がり、戦いの翌日の19日は54⅛、20日は54⅝ でした。21日水曜は55½、22日木曜は56½、23日は57½、27日には59⅛ まで戻ります。同じ表で、その月に政府が起こした公債の引受証であるオムニウムは、23日に9½ のプレミアム、26日に12½、27日と28日に13と記されています。
最初にロンドンへ知らせを持ち込んだのは、その週の新聞に「ドーヴァーの C 氏」とだけ書かれた人物です。6月19日月曜、亡命中のルイ18世が滞在するヘントに勝利の手紙が届いたとき C 氏は居合わせ、オステンド経由でロンドンへ急ぎ、火曜から水曜にかけての夜に着きました。水曜の朝にはシティで公然とその話をし、正午までに印刷された報道があります。家の文書館の論考は、同時代の記録の範囲で「最初に知った人物」の栄誉は C 氏にあると書きます。C 氏とネイサン・ロスチャイルドを結ぶ史料は、1820年代と1830年代にウェリントンが私的に語った食卓談のほかに無く、その話の初期の版にはロスチャイルドの名が出てきません。
ネイサンが受け取ったのは、使者ではなく手紙でした。6月24日付の『Caledonian Mercury』のロンドン通信は、水曜の夜にこう書いています。「良い知らせ——確かな筋——ウェリントン卿は18日にビューローの2万のプロイセン軍と合流し、ボナパルトを完全に破った……オムニウムは6まで上がった。これは、Rosschild が受け取ったヘントからの手紙を見た人物から聞いた」。文書館に残る1815年6月20日付の手紙は、使者とされてきた社員 Roworth が月曜19日にロンドンにいたことを示し、彼がヘントにいた可能性を消します。手紙が着いた時刻は分かりませんが、論考は、夕刊の締め切りの後、取引所の終わる前、水曜の午後と読んでいます。
公式の知らせは、その夜11時ごろ Percy 少佐とともに着きました。翌朝の相場は上がり、木曜の3% 減債年金は56½、金曜は57½ です。オムニウムについて論考が引く『Morning Chronicle』の相場欄は、水曜の始値4¾ プレミアム、日中6近く、終値4¾ と伝えます。日中の高値から戻したとはいえ、その日の始値はそれまでの最高値で、暴落と呼べる動きは相場表のどこにもありません。
それから31年後の1846年、パリで30サンチームの小冊子が売られました。『ロスチャイルド一世、ユダヤ人の王の、教訓的で奇妙な物語』。著者は「サタン」と名乗っています。同じ年の6月15日にロスチャイルド家が主導した北鉄道が開通し、7月8日に Fampoux で列車が沼へ落ちて、著者の目撃記は10日の時点で39の遺体が引き上げられたと書きます。小冊子は1815年の章で、ネイサンがベルギーでワーテルローを見つめ、オステンドまで継ぎ馬を用意し、嵐の海峡を金の力で小舟で渡り、「知らせの到着より24時間早くロンドンに着き、一撃で二千万を得た」と語り、鉄道事故の章で「ワーテルローの死体で投機した者は、北鉄道の犠牲者の死体でも投機できる」と結びました。
1815年にネイサン・ロスチャイルドの商会で動いていたお金は、株の思惑ではなく政府の契約でした。文書館が図版で示す1814年1月11日付の手紙で、大蔵大臣 Vansittart は Herries に、ネイサンを政府の代理人に任じるよう命じています。文書館の人物ページは、1814年までにネイサンが大陸のウェリントン軍のために金貨を買い付けて輸送する契約を果たす立場にあり、ワーテルローの勝利の後には同盟国への英国の補助金支払いを扱う契約をさらに得た、と書きます。1913年のバラが引く Herries の報告では、家は1814年春から大陸で1,800万ポンド近くを支払い、その利益は「正直に公然と」得たものでした。
6月の相場で動いたのは、オムニウムと3% 減債年金です。オムニウムはその月に政府が起こした公債の引受証で、引受人は額面で引き受けたものを市場で売れました。文書館の論考は、Roworth が7月27日にパリから書いた手紙の追伸「Commissary White から、あなたがワーテルローの勝利の早い情報でうまくやったと聞いた」を引き、ネイサンが水曜の午後にオムニウムを買ったと見ています。5前後で買って翌日8以上で売ったなら一晩の収益として「うまくやった」に値する、というのが論考の計算です。同時に論考は、額面で引き受けた公債引受人が持ち高を好きなだけ持てたのに対し、遅れて市場に入ったネイサンには及ぶすべが無かった、と書きます。引受人の一人がリカードでした。
「相場を暴落させてから買った」という話は、値段の並びと合いません。3% 減債年金は20日54⅝、21日55½、22日56½ と、水曜も木曜も上げています。オムニウムは水曜の始値を割っていません。論考は、ネイサンが兄弟と交わした書簡にも、生前の新聞にも、追悼記事にも大儲けの話が無いこと、そして勝利の数週間後に政府が騎士位を申し出てネイサンが辞退したことを挙げ、政府が不名誉と見なす行いは無かったと読みます。1815年8月24日にジェームズが兄へ、騎士位を断ったとは信じられない、と書き送った手紙が残っています。
相場が動いた幅を数えておきます。3% 減債年金は6月1日の58¼ から16日の53¾ まで4½ 下げ、28日の59まで5¼ 戻しました。オムニウムは23日の9½ プレミアムから27日の13まで3½ 上げています。「一撃で二千万」に通貨の単位は書かれておらず、これらの表のどこにもその桁の動きはありません。
「公式の知らせより一日早く知り、一撃で二千万を得た」。出どころは1846年の小冊子12ページです。公報が着いたのは21日の夜、ネイサンの手紙は同じ21日の日中、C 氏の話は21日の朝からシティで公然と語られていました。「24時間早い」は C 氏についてなら成り立ちますが、彼は情報を惜しみなく分け与えています。二千万の単位は小冊子に書かれておらず、相場表にその桁の動きはありません。
「嵐の海峡を大金で渡った」。嵐と小舟は1846年の小冊子にあり、漁師に払った値段は1887年のリーヴズが500・600・800フランで断られて2,000フラン、1913年のバラが500・800・1,000フランの後に2,000フランと、版によって違います。「ネイサンは戦場を高所から見た」もリーヴズとバラにあり、『ブリタニカ』第11版は「戦場にいたと言われる」と書きました。論考は、ワーテルローの登場人物はよく知られており、戦いを知る者は誰でもネイサンがそこにいなかったことを知っていた、と記します。
「敗北の噂を流して相場を暴落させ、底で買い占めて百万ポンドを得た」。この策略の筋書きは、取引所の柱に蒼白で立つネイサン、公然と売る代理人、密かに買う代理人という三点で、リーヴズ1887年とバラ1913年が同じ形で書いています。論考はこの要素を後から足されたものと見て1913年のバラに見えると書きますが、1887年のリーヴズに既にあります。相場表は水曜も木曜も上げており、暴落はありません。
「使者 Roworth が戦場から駆けつけた」。1815年6月20日付の手紙で、Roworth は月曜19日にロンドンにいました。1897年の辞典は「オステンドで結果を待っていたようだ」と留保付きで書き、6月20日の早朝という時刻も文書館の手紙と合いません。辞典自身は、ネイサンが自分で知らせを運び独占的に取引したという話を「作り話」と評しています。
「伝書鳩と快速船の情報網」。1815年の英国に伝書鳩の組織的な利用は無く、文書館にもその時期の鳩の記録も、鳩を支える設備の記録もありません。それでもリーヴズは「鳩に莫大な金を費やした」と書き、『英国人名辞典』は鳩の組織を「長く維持した」と記し、『ブリタニカ』は「伝書鳩と自前の快速船」と書きました。1815年6月18日付の Gallatin の日記が「ブリュッセルからオステンドまで急使を置き、快速船を待たせている」と伝える件は、日記そのものが19世紀末の偽作と示されています。
「一族はワーテルローで財を成した」。1846年の小冊子は「彼らの投機と取引所の王権は1815年とワーテルローに始まる」と書き、この一文が1940年の宣伝映画『Die Rothschilds: Aktien auf Waterloo』の題名になりました。論考は、サタンとこの映画の狙いが、ネイサンにシャイロックやファギンの像を刻むことにあったと書き、反ユダヤ主義の意図なしに繰り返した歴史家もいることを認めたうえで、その出自と証拠の欠如を理由に、この伝説を脚注に下げる時期だと結んでいます。1972年のロングフォードと1998年のファーガソンも「最初に知った」を繰り返しました。
噂には作られた年と媒体があります。1846年7月の鉄道事故のあと、小冊子の著者は「1815年の利益」という既にあった物語に「死体で投機した」という型を重ね、風刺文書は「1815 — ワーテルロー — Fampoux」と三つの語を並べました。出どころを年と媒体で言えれば、噂は史料になります。
「公式の知らせより一日早く知り、一撃で二千万を得た」
裏付けなし出どころ: 1846年パリの小冊子(Dairnvaell)p. 12
The London Gazette— The Gazetteの PDF 1815 The Rothschild Archive The Gentleman's Magazine。表は Richardson, Goodluck, & Co., Bank Buildings の作成1815
「敗北の噂を流して相場を暴落させ、底で買い占めて百万ポンドを得た」
裏付けなし出どころ: Reeves 1887 pp. 173–175・Balla 1913 pp. 90–93(論考は「後から足された」と見る)
The Gentleman's Magazine。表は Richardson, Goodluck, & Co., Bank Buildings の作成1815 The Rothschild Archive
「嵐の海峡を大金で渡った」
裏付けなし出どころ: 1846年の小冊子 pp. 11–12(嵐と小舟)。漁師の値段は Reeves 1887・Balla 1913
「伝書鳩と快速船の情報網」
裏付けなし出どころ: Reeves 1887・DNB 1897・EB 1911。快速船は Lucien Wolf と偽作の Gallatin 日記
「ネイサンはワーテルローの戦場で観戦した」
裏付けなし出どころ: Reeves 1887 pp. 170–172・Balla 1913 pp. 87–88。EB 1911は「いたと言われる」
この事件から今に残るのは、値段ではなく、情報の時刻の数え方です。誰が、いつ、何で知ったか。史料の側から時刻を並べると、月曜のヘント、火曜の夜のロンドン、水曜の朝のシティ、水曜の午後の手紙、水曜の夜の公報、木曜の官報という順になり、「一日早い」の主語が入れ替わります。相場のほうは、知らせを待つ市場が水曜に上げ、確認を得た木曜にさらに上げただけでした。
仕組みの面では、公債がどう生まれるかが手がかりになります。1815年6月のオムニウムは、政府が起こした公債を引受人が額面で引き受け、その引受証が市場で値を持ちました。額面で引き受けた者と、市場で買った者では、同じ知らせから得られるものが違います。現代のお金の科目では「国債は、どうやって生まれるのか」の停で、入札と引受の仕組みを扱います。
1907年のニューヨークの恐慌とは、一人の銀行家に「動かした」という物語が集まり、記録が別の役割を示す点で並べられます。あちらは数週間の取り付けの記録、こちらは一枚の公報と一通の手紙の到着時刻で、金融の仕組みは並びません。
マドフの詐欺とは並べません。偽の記録を作った当人と、31年後に第三者が作った噂では、欺瞞の成り立ちが違います。2007〜09年の世界金融危機とも並べません。噂の事件と資金調達の危機は層が違い、本件には信用も担保も出てきません。
図と本文の数が、どの資料のどこから来ているか。数値台帳・図の出どころ・資料の層・参考文献を、別のページにまとめました。