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つくった国と、使った国

永楽通宝は明で鋳られ、明の国内ではほとんど回らなかった。自国で使わない銭を、輸出のために鋳る国があり、自国で鋳らず輸入した銭を基準にする国があった。

2026-10-25 葉山 満 コインをじっくり見る
日本 海を渡る銭/京 北山

自国で回らなかった銭

千四百八年、明の国で永楽通宝が鋳られはじめます。永楽帝の年号を持つ銭です。しかし明の朝廷は、国内では紙の幣を使わせ、銭の使用を抑えていました。永楽通宝は明の国内でほとんど回らず、外への支払いのために海を渡ります。

つくった国が使わず、使った国がつくらない。鏡に映したような二つの姿が、東の海をはさんで向かい合いました。

名を捨てて銭を得る

銭が海を渡る道筋には、朝貢という形式がありました。千四百四年に始まった勘合貿易では、割符を合わせて正しい船だと確かめます。日本側が送ったのは硫黄と銅と刀剣と扇。受け取ったのは明の銭と、生糸と織物と書物でした。

国書の冒頭には、臣として名乗る一句が記されました。国内からは激しい批判が起こります。名を捨てて実を取るのか、名を守って銭を失うのか。子の義持は貿易を止め、義教が再び開きました。止めれば銭が入らず、開けば頭を下げる。その天秤は、都で揺れつづけました。

「室町の銭といえば永楽通宝」という言い方

日本に渡った銭のすべてが永楽通宝だったわけではありません。この国で掘り出される銭の八割は、北宋の銭です。永楽銭が基準になるのは、十六世紀の東国から。西の国々では、嫌われる場面さえありました。室町の銭といえば永楽通宝、という言い方は正しくない、と素材は留保しています。

銭の通う道が切れるとき

日本の国内では、年貢をいったん現地で米に換え、銭で納める代銭納が広まっていました。それは街道と市と為替が生きていることを前提にした仕組みです。応仁の乱は街道を切り、市を潰しました。銭で納める仕組みは、銭の通う道が切れた瞬間に、何より脆い。

興福寺大乗院の門主、尋尊が書き続けた日記には、荘園から年貢が入らないという記録が積み重なっています。証文にも地図にも田はある。ただ、そこから銭が来ない。

通用を止めた後の空白

江戸幕府は慶長十三〜十四年に銭貨の交換比率を定め、永楽通宝の通用を停止しました。しかし、その時点で全国の銭が新しい国産銭に置き換わったわけではありません。幕府が寛永通宝の鋳造を始めるのは、寛永十三年のことです。通用を止める命令と、新しい銭が行き渡る現実のあいだには、隔たりがありました。

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