江戸のはじめ
慶長丁銀には額面がない。はかりにのせた重さが値打ち
小さな豆板銀を足して重さをそろえ、紙に包んだ
額面を持たない慶長丁銀は、天秤にのせた重さがそのまま価値になりました。この銀貨が生まれた時代、金銀は信仰を揺るがし、十万の兵を集め、城の運命を決めました。
3分でわかる 重さで値打ちが決まる銀貨
横に送って見られます
江戸のはじめ
慶長丁銀には額面がない。はかりにのせた重さが値打ち
小さな豆板銀を足して重さをそろえ、紙に包んだ
1601年
家康が、全国どこでも使える金貨と銀貨を出した
そのころ
金貨は枚数で数え、銀貨は重さで量る。二つが並んだ
一分金は4枚で小判1枚
1612年
銀600枚の賄賂と偽の書き付けで、大きな事件が起きた
これをきっかけに、幕府は直轄の地でキリスト教を禁じた
1614年
豊臣方は、秀吉の遺した金銀で浪人を集めた
およそ10万
豊臣方の兵。徳川方はおよそ20万
大坂の陣
兵はお金で買えても、忠誠は買えなかった
1615年5月8日
大坂城が落ち、焼けた蔵の跡から金銀が掘り出された
翌年
徳川は金を制度に換えて残った。蔵には金銀が並んだ
193万1150両
家康の死に際しての受取帳
43匁
丁銀1枚の目安の重さ(およそ160グラム。品位は80パーセント)
10万 対20万
大坂の陣の兵の数(豊臣方 対 徳川方、どちらもおよそ)
あなたは天下を争う大名で、蔵に金銀がたっぷりあります。どう使いますか?
選んでみてください
豊臣方の道です。全国から浪人を集めましたが、兵は買えても忠誠は買えず、大坂城は落ちました。
徳川方の道です。家康は全国どこでも通じる金貨と銀貨を出し、その制度とともに残りました。
同じ金銀が、使い方で正反対の結末になりました。

慶長丁銀は、表面に大黒と「寳」の字が打たれた銀貨です。しかし額面はなく、天秤にかけた重さがそのまま価値になりました。目安は銀一枚で四十三匁、およそ百六十グラム。品位は八十パーセントです。豆板銀という小さな銀貨を足して重さを揃え、紙に包んだ「包銀」の形で使われました。
千六百一年、家康は新しい金銀貨を発行します。慶長小判、一分金、そして丁銀と豆板銀です。これが全国どこでも通じる金貨と銀貨のはじまりになりました。
小判や一分金は枚数で価値が決まる「数える貨幣」でした。一分金は、四枚で小判一枚です。一方、丁銀と豆板銀は重さで価値が決まる「量る貨幣」です。同じ国に、二種類の価値の決め方を持つ貨幣が並び立ちました。
新しい貨幣が生まれてから、しばらく経った千六百十二年のことです。キリシタン大名の有馬晴信は、旧領を取り戻したいと願い、本多正純の家臣である岡本大八に運動を頼みました。渡したのは、白銀六百枚です。
ところが、大八が用意した家康の朱印状は偽物でした。事が露見して捕らえられると、今度は晴信の陰謀を訴え出ます。三月十八日に発覚し、大八は火にかけられ、晴信は五月に自ら命を絶ちました。
幕府はこれをきっかけに、直轄の地へ禁教令を出します。布教と貿易が一つだったこの百年は、賄賂と偽の文書で幕を閉じました。
千六百十四年、大坂冬の陣が始まります。豊臣方は、秀吉が遺した金銀を使って、全国から浪人を集めました。関ヶ原の戦いのあとに改易された、大量の失業武士が兵の供給元になったのです。
豊臣方の兵はおよそ十万、徳川方はおよそ二十万でした。真田信繁には黄金二百枚と、銀三十貫が贈られたと伝わりますが、これは後の世の軍記に書かれた数で、同じ時代の文書では確かめられません。浪人だけでは足りず、近くの百姓にも金で参陣を呼びかけたといいます。兵は買えても、忠誠は買えませんでした。
千六百十五年の五月八日、大坂城が落ちます。焼けた蔵の跡からは、金銀が掘り出されました。その数は記録によって違い、金一万八千枚と銀二万四千枚とするものと、金二万八千六十枚とするものが並びます。
どちらにせよ、豊臣の蓄えは焼け残りとして、勝者に回収されました。翌年の家康の死に際して作られた久能山御蔵金銀受取帳には、金と銀を合わせて百九十三万一千百五十両とありました。豊臣は金を兵に換えて負け、徳川は金を制度に換えて残した。同じ金銀が、使い方で正反対の結末になりました。
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