島原の乱の前
税を払えない人は、ひどい罰を受けた。体が税の担保に
幕府が国産の寛永通宝を鋳はじめたのは、島原の乱が起きる前の年でした。税を払えない者の身体が担保になる時代に、六百七十八年ぶりの国産銭が生まれます。
3分でわかる 寛永通宝
横に送って見られます
島原の乱の前
税を払えない人は、ひどい罰を受けた。体が税の担保に
1636年
幕府が、国産の銭「寛永通宝」を作り始めた
678年ぶり
それまでの銭は、外から渡ってきたもの
そのころ
江戸と近江に銭を作る場所を置き、砂の型で鋳た
1枚はきっかり1文
1768年
真鍮の4文銭ができた。裏の波の模様から「波銭」
江戸の屋台
16文のそばが、1文銭16枚から波銭4枚に
1732年
西の国々が虫に覆われ、米が大きく減った
その飢饉
死者の数は、記録によって80倍も違う。今も定まらない
翌年の正月
江戸で最初の打ちこわし。噂が、壊す相手を作った
壊された米商人は、値を抑える側にいた
678年ぶり
国産の銭が作られたのは、乾元大宝から数えてこれだけぶり
63万石ほど
1732年、西国46藩で穫れた米
80倍
同じ飢饉の死者の数の、記録による違い
あなたは江戸の屋台のそば屋です。そばは16文。お客さんにどの銭で払ってほしいですか?
選んでみてください
16枚を数えるのは、ひと手間です。忙しい屋台では、勘定に時間がかかりました。
4文銭なら4枚で済みます。屋台の勘定が、ひと呼吸で終わりました。4文で買える物を並べる4文屋という商いも生まれました。
1枚の銭の額面が、暮らしの速さを変えたのです。

松倉の家は、凶作の年にも年貢を緩めませんでした。納められない者は水牢に入れられ、冬の水に首まで浸かって幾日も立たされます。藁の蓑を着せて火を放つ拷問は、蓑踊りと呼ばれました。
この名と情景を書き残したのは、長崎にいたポルトガル人、ドゥアルテ・コレアです。オランダ商館長クーケバッケルの日記や、『鍋島勝茂公譜』にも苛政の記述は残ります。ひとつひとつの拷問の話は、乱のあとに書かれたものが多く、細かいところは食い違います。それでも、年貢の未納を身体で払わせたことは、系統の違う記録が揃って伝えています。税を払えない者の身体が、税の担保になりました。
幕府が国産の寛永通宝を鋳はじめたのは、この乱の前の年、千六百三十六年です。三代将軍、家光の代でした。家康が世を去って、二十年のちのことです。それまでこの国の銭は渡来のもので、国産の銭は乾元大宝から数えて六百七十八年ぶりでした。
江戸の浅草と芝、そして近江の坂本に銭座が置かれ、寛永通宝が鋳られます。芝の網縄手で鋳られたものは芝銭と呼ばれ、草書ふうの点で見分けます。径は二センチ半、量目は一匁ほど。砂の型から銭のついた枝を引き上げ、もぎ取り、鑢をかける。一枚はきっかり一文でした。中国の銭に頼った時代が、ようやく終わろうとしていました。
寛永通宝が生まれてから時が経ち、千七百六十八年には真鍮の四文銭が定められます。江戸の深川、千田新田に置かれた銭座で作られ、裏に打たれた波の模様から、人はこれを波銭と呼びました。
四文銭は、暮らしの速さを変えます。二八そばは十六文。一文銭なら十六枚を数えなければなりませんが、波銭なら四枚で済みます。屋台の勘定が、ひと呼吸で終わるのです。四文で買えるものを並べた、四文屋という商いも生まれました。緡に通した銭の束は、事実上の紙のお金のように動いていたとされます。
その少し前、千七百三十二年に西の国々は虫に覆われました。長雨と低い気温が続いたあと、ウンカとイナゴが湧いたのです。西国四十六藩の石高はあわせて二百三十六万石でしたが、その年に穫れたのは六十三万石ほどでした。
この飢饉で餓死した人の数は、幕府がまとめた数では一万二千百七十二人です。ところが『徳川実紀』は、九十六万九千九百人と記します。同じ飢饉の死者が、八十倍も違う。数字は、いまも定まっていません。米一石が銀六十四匁ほどだった値は、百二十匁台に動きました。翌年の正月、江戸で最初の打ちこわしが起きます。米商人、高間伝兵衛の家がおよそ千七百人の窮民に壊されました。ただし高間は米を買い占めたわけではなく、値を抑える側にいた商人でした。噂が、標的を作ったのです。