大正3年7月〜
ヨーロッパで戦争。止まった市場へ日本の品が流れ込んだ
大正六年、金貨と紙幣を引き換える約束は止まりました。ヨーロッパの戦争で生まれた景気は、成金と、米を求める人の列を生み、やがて長い不況へ向かいます。
3分でわかる 大戦景気と閉じた金の扉
横に送って見られます
大正3年7月〜
ヨーロッパで戦争。止まった市場へ日本の品が流れ込んだ
大正9年
借りの多い国が、貸す国に変わった
27億円
この額を超える貸しになった(大正3年の末は11億円の借り)
大戦のあいだ
船賃が跳ね上がり、「船成金」という言葉が生まれた
大正6年9月
金貨と紙幣を引き換える約束が、事実上止まった
大正7年
米の値が1月で3倍を超え、騒ぎは各地に広がった
15円 → 50円超
米1石の値
大正9年3月
相場が崩れた。株は半分から3分の1に
大正9年4月〜7月
銀行に預金を引き出す列ができた
169行
そのうち21行が休んだ
その後の10年
長い不況。金の扉は、開け直せないままだった
50円を超えた
大正7年、米1石の値。1月前は15円だった
15億9000万円
大戦のあいだに伸びた正貨の持ち高(はじめは3億4000万円)
大正7年。米は不作ではないのに、戦争の噂で値が上がりはじめました。あなたが米屋なら、どうしますか?
選んでみてください
実際に、特需を見込んだ売り惜しみが加速しました。米は1月で1石15円から50円を超え、怒りは一道三府37県に広がって、内閣は総辞職しました。
この年は特に不作だったわけではありません。米の値を押し上げたのは、戦の噂と売り惜しみでした。
好景気の黒字は、日本の発明ではなく、競う相手が戦争で消えたから生まれたものでした。

大正三年七月、ヨーロッパで戦争が始まりました。生産の止まった市場へ日本の品が流れ込み、輸出入の総額は大正三年から八年で四倍近くに増えます。
この間の貿易黒字は十四億円、船賃などの黒字が十三億円。正貨の持ち高は三億四千万円から十五億九千万円へ伸びました。大正三年の末に十一億円の借りがあった国は、大正九年には二十七億円を超える貸しを持つ国になりました。ただ、この黒字は日本が何かを発明したから生まれたのではありません。競う相手が戦争で消えたから生まれたものです。
船が足りず運賃が跳ね上がり、船成金という言葉が生まれます。ある汽船会社は、大正三年に資本金二万円足らず、借りた船一隻で始まりました。二年後には元手の六倍という配当を出し、大戦が終わった翌年には、起こした人物の身代が七千万円にふくらんでいたとされます。
一方で、働く人の賃金は物価に追いつきませんでした。大正九年の卸売物価は、大正二年の二倍半を超えます。米の値も、大正七年には一石十五円から一月で五十円を超えました。この年は特に不作だったわけではありません。寺内内閣がシベリア出兵を宣言し、特需を見込んだ売り惜しみが加速したからでした。戦の噂だけで、米は三倍を超えるのです。富山の女性たちが米の積み出しを止めるよう求めた動きは、やがて一道三府三十七県に広がり、内閣は総辞職しました。
大正九年三月、相場が崩れました。株は半分から三分の一へ。綿糸も生糸も、その年のうちに半値以下になります。四月から七月にかけて、百六十九行の銀行に預金を引き出そうとする列ができ、二十一行が休みました。以後の十年は、慢性の不況と呼ばれます。
昭和二年に破れる焦げ付きの大半は、この大正九年に生まれています。関東大震災は発生源ではなく、先送りの口実になりました。日本銀行は救いの融資を出しますが、それは畳むべき会社と銀行を生かし続け、傷を七年先まで持ち越したという見方もあります。
この景気と不況の始まりより少し前、大正六年九月、日本は金輸出を禁じていました。金貨と紙幣を引き換えるという約束が、事実上止まった日です。金庫の扉が閉じられ、金貨の山は暗がりに沈みました。
やがて戦争が終わり、欧米が次々と金の扉を開け直します。日本はためらいました。大正十二年の震災、昭和二年の金融恐慌。開ける機会は、そのたびに遠のきます。いつ扉を開けるのか。それが、この十年で最も激しく争われた問いになりました。新貨条例が定めた旧二十円金貨には、一円を純金一・五グラムに対応させるという約束が刻まれています。
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