葉山 満
アンティークコインを二十年あまり扱ってきました。実物を見て、値をつけ、来歴を追う。その現場の目で貨幣史を読み直し、この学校の課程を組んでいます。 なお主宰は現役の古物商です。だからこの学校は、個別の貨幣について鑑定・評価・価格の意見を発行しません。相場も、銘柄も、扱いません。
主宰について
実物のコインを扱う仕事は、値づけの前に「これは何か」を決める仕事です。年代、造幣所、来歴、真贋。その判断を毎日くり返していると、貨幣が経済の道具である前に、そのときの国家と技術と信仰の記録であることが分かってきます。
この学校は、その見方を教養として渡すために作りました。相場を当てる話はしません。二千七百年ぶんの実物を並べて、お金という仕組みそのものを読み解きます。
コラム
この学校の教材から、読みどころを編んで置いています。どれも本編の教材へつながっています。
フランクの名を持つ貨幣と男
「フランク人の王」を意味する銘は通貨の名になりました。偉大な王は千年続く銀の制度を定め、遠い土地の印刷業者は紙の信用を支えます。
使い方で分かれた黄金の行方
豊臣方は秀吉が遺した金銀を兵力に換え、徳川家康は全国で通用する貨幣制度を打ち立てました。同じ時代の金銀が、使い方によって正反対の結末を迎えるまでの道のりです。
帳面から始まった乱と、権利で支払われた砲弾
乱の始まりは、刀ではなく帳面でした。四万石の土地を十万石と届け出たと伝えられる大名の元で、税率は倍になります。税を払えない者の身体は拷問の対象となり、やがて起きた一揆を鎮めるため、
南を向き、海を越えた王国の勘定
十二世紀後半のカスティーリャは、全面アラビア語銘の金貨を打ちました。南を向いたこの王国から、のちに新大陸の銀に課される税の仕組みが生まれます。
二十円金貨が定めた円の価値
新貨条例で定められた最高額面の旧二十円金貨。一円を純金一・五グラムと対応させたこの貨幣の価値は、明治三十年に半分になります。その背景には、ロンドンに置かれたままの賠償金がありました
紙で打たれた貨幣、ライデンの約束
包囲下のライデンでは銀が尽き、教会の書物から貨幣が打たれました。金属の裏づけを持たない紙を支えたのは、街が生き延びれば正貨で償うという、一つの約束だったのです。