12世紀
カスティーリャは南を向いた王国だった
日々の勘定はマラベディで数えた
十二世紀後半のカスティーリャは、全面アラビア語銘の金貨を打ちました。南を向いたこの王国から、のちに新大陸の銀に課される税の仕組みが生まれます。
3分でわかる カスティーリャの勘定
横に送って見られます
12世紀
カスティーリャは南を向いた王国だった
日々の勘定はマラベディで数えた
12世紀の後半
王が打った金貨の文字は、全部アラビア語だった
1350年〜
王ペドロ一世が銀貨レアルを入れた
1レアル=三マラベディ
15世紀
お金を打つ許しが乱発され、造幣所が増えた
150
ある年代記が伝える造幣所の数
1496年
結婚で、低地の君主の家と王家が結ばれた
新大陸の時代
新大陸の銀には、王の取り分が初めから決まっていた
1504年
掘った金銀に5分の1の税。名は「キント」
5分の1
最初の徴収から
記録には、5分の1を納めなかった者の話も残る
5分の1
新大陸の金銀にかけた税「キント」。1504年の勅令で定めた
150か所
15世紀、ある年代記が伝える造幣所の数
あなたは海の向こうの王です。新大陸に1度も行かずに、銀の分け前を受け取るには?
選んでみてください
王は掘り出した金銀に5分の1の税「キント」をかけました。銀の延べ棒には、初めから王の金庫行きの分があったのです。
任せると揺らぎます。記録には、コルテスが精錬所と印章を持ちながら、王に5分の1を納めなかったとあります。
この5分の1の起源は、中世のカスティーリャの古い取り決めにさかのぼります。

イベリア半島にあったカスティーリャは、南を向いた王国でした。日々の勘定は、ムラービトの金貨の名を継いだマラベディで数えられます。十二世紀の後半、王アルフォンソ八世はトレドで金マラベディを打ちましたが、その銘は全面アラビア語でした。
のちのスペインの中核となる国ですが、当時「中世スペイン」という一つの国はどこにも存在しません。例えば、東のアラゴンはイタリアの金を手本にしており、両王が結婚した後も、王冠も議会も造幣所も別々のままでした。
カスティーリャの貨幣制度は、時とともに変わります。千三百五十年から千三百六十九年に在位したペドロ一世は、銀貨レアルを導入し、一レアルを三マラベディと定めました。
時代が下り、十五世紀のエンリケ四世の治世になると、鋳造の許可が乱発されます。ある年代記は、この時代の造幣所の数を百五十と伝えています。
国の形は、結婚によっても動きました。千四百九十六年、低地の君主の家のフィリップ美公が、カスティーリャの王女フアナと結婚します。イベリアの王家と低地の君主の家が、ここで結ばれたのです。
カスティーリャは、やがて新大陸の銀を手にする国になります。この婚姻は、低地と、後の銀の帝国スペインとを、同じ家の帳簿に載せることになりました。フィリップは千五百六年に急死しますが、それでも二つの家を結んだ結び目はほどけませんでした。
新大陸の炉から生まれた銀の延べ棒には、初めから行き先の決まっている分がありました。王室の金庫に納めるための分です。スペイン王権は、掘り出した金銀や戦利品に「キント」、すなわち五分の一の税を課しました。海の向こうの王は、新大陸の土を一度も踏むことなく、その富の分け前を受け取り続けます。
この五分の一という税率は、一五〇四年の勅令で定められたものです。その起源は、中世のカスティーリャにさかのぼる古い取り決めでした。ただし、この仕組みは最初の徴収から揺らいでいます。コルテスの裁判の記録には、彼が精錬所と印章と鋳造所を持ちながら、王に五分の一を納めなかった、とあります。
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