書けば百文になる、という理屈
素材価値は一文銭の五、六枚分。けれど額面は百文。小判を思わせるこの楕円形の銭は、飢饉のさなかに生まれ、やがて国中の藩に模倣されてゆきます。

百と書かれた銭
天保六年、江戸の金座で奇妙な銭の鋳造が始まりました。天保通宝です。小判を思わせる楕円の形に、縦はおよそ五十ミリ。裏には「當百」の文字と、金座を司る後藤家の花押が鋳込まれています。
量目は五匁五分、およそ二十・六グラム。しかし、素材として見れば一文銭の五、六枚分しかありませんでした。額面は百文とされながら、町なかでの実際の値は八十文ほどで動いたと言われます。額面と中身の隔たりがあまりに大きい。もし額面どおりに通れば、その差はすべて幕府の利益になりました。
飢饉のさなかに
この銭が生まれる少し前、天保四年から、この国は冷えと大雨による飢饉に見舞われていました。五年で人口は百二十五万二千人減り、大坂では毎日、百五十人から二百人を超える餓死者が出ています。
そのような状況でも、東町奉行の跡部良弼は、翌年に控えた将軍宣下の費用のために、大坂の米を江戸へ送り続けました。これに対し、元与力で陽明学者の大塩平八郎は、建議を退けられると蔵書を売り払い、窮民一万人に金一朱と引き換えられる施行札を配ります。そして天保八年、門弟らおよそ三百人と兵を挙げ、豪商の蔵を襲いました。乱は半日で鎮められましたが、大坂の町の五分の一が焼け落ちています。
値を上げたのは誰か
幕府は、天保通宝の発行や小判と一分銀の作り替えによって、五年あまりで五百万両を超える出目を得ていました。物価は上がり続けます。千八百四十一年から改革を始めた老中の水野忠邦は、その原因を商いを独占する株仲間にあると考え、解散を命じました。
結果は逆でした。流通の網が切れ、江戸へ入る品はかえって細り、景気は沈みます。幕府は十年後、自らこの令を取り消しました。値を上げていたのは、独占ではなかった。幕府自身が鋳た銭でした。
藩が鋳た幕府の銭
「百と書けば百になる」という理屈を、幕府は最も荒い形で使いました。やがて各地の藩が、これを密かに鋳はじめます。薩摩の鋳た広郭は、その名で知られています。
幕末、諸藩の金蔵は空でした。軍艦を買い、鉄砲を揃える費用をまかなうため、本来は幕府だけの権限である貨幣そのものを作り始めたのです。薩摩の天保通宝の贋造は、嘉永の頃に始まったと伝わります。ある試算では、今の値に直せば七百五十億円を超えるともされます。贋金作りは薩摩だけではなく、会津も、名古屋も、松代も手を染めていました。官軍の懐にも、賊軍の懐にも、贋金があったのです。
新しい国は、まず貨幣を作り直さねばならなくなりました。明治二年、外国の公使たちが、世に出回る贋貨に抗議したためです。
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