一枚も発行されなかった銭
昭和二十年、日本は土で銭を焼こうとしました。千五百万枚が窯から出て、一枚も発行されないまま戦が終わります。

昭和十三年から、小銭の材質が落ちていきます。銀も白銅も消え、アルミに変わりました。
一銭アルミ貨は、昭和十六年の発行で直径十六ミリ、量目〇・六五グラム。前年までは十七・五ミリ、〇・九グラムでした。昭和十八年の後期には〇・五五グラムまで削られます。
手が先に分かる
十銭のアルミ貨も、一グラム半だった重さを二度削られ、一グラムになりました。昭和十九年には、錫と亜鉛の貨幣が現れます。占領した南の島からの輸送が断たれ、錫が最後に残った選択でした。
昭和十六年の金属回収令は、寺の梵鐘も、家の鍋も釜も持っていきます。
手のひらの一銭が、年ごとに軽くなる。数字を読まなくても、手が先に分かりました。
茶碗を焼く窯が、貨幣を焼く
昭和二十年、金属は尽きました。そこで政府は、土で貨幣を作ろうとします。陶貨です。一銭、五銭、十銭。十銭と五銭は五億枚ずつ、一銭は七億枚という計画でした。
京都の松風工業、瀬戸、有田。茶碗を焼く窯が、貨幣を焼きます。土は美濃の粘土に、泉山の陶石と赤土を混ぜたものでした。窯から出てきたのは、赤茶けた小さな円板です。一銭陶貨は直径十五ミリに成形されました。
千五百万枚ほどが焼けたところで、戦が終わりました。
法の上では、一度もお金にならなかった
この陶貨は、ついに発行されていません。物としては存在し、量産まで達していながら、法の上では一度もお金になっていないのです。大部分は捨てられました。
貨幣が貨幣であるための条件が、ここに裸で出ています。焼き上がっていることでも、額面を名乗っていることでもない。発行されたかどうか、の一点です。
令和三年、松風工業の倉庫から五十万枚ほどが見つかったという知らせが流れます。お金になるはずだった土は、ただの土くれのまま眠っていました。
十年後の一円
昭和三十年六月、一円アルミ貨が発行されます。純アルミニウム、直径二十ミリ、量目一グラム。
図案は戦後に初めて一般から公募されました。二千五百点を超える応募のなかから、表の若木は中村雅美、裏の「1」は高島登二雄の作が選ばれます。名を知られていない市民の描いた線が、そのまま国の貨幣の図柄になりました。
同じアルミニウムです。削られ続けた金属が、今度は公募の図案を載せて戻ってきました。
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