NOMISMA SCHOLA
NOMISMA SCHOLA / 貨幣学の学校
TEXTBOOK 16 / 通史 ⑦ 日本 上 六二一年 — 一八〇〇年

稲と銭と

銭を鋳て、捨てて、海から迎え、山から掘った島
和同開珎 表
和同開珎 AD 708–・催鋳銭司(畿内) 直径 24.5mm
国立文化財機構 ColBase(東京国立博物館 E-8770・崇福寺跡出土) / CC BY 4.0
First Edition(2026)
BIG QUESTION

国が鋳るのをやめた銭を、この島はなぜ海から迎え、山から掘り直したのか。

この一冊を 3 分で

  • 銭のない島に、利息だけは先にありました。稲を貸して秋に返させる出挙。壬申の乱の恩賞は位と田で払われ、国家に銭がなかったからです。
  • 七〇八年、和同開珎。造れば流れるものではなく、位で釣る法は八十九年かけて失敗し、私鋳は三年で死罪になりました。
  • 大仏は国庫だけでは立ちませんでした。一握りの土でもよいと詔が言い、禁じた僧に募財を任せ、長登の銅と陸奥の金で仏が立ちました。
  • 新しい一文を古い十文とする建前を、市は十二年拒み、先に折れたのは国家でした。九五八年の乾元大宝を最後に、朝廷は六百七十八年、銭を鋳りません。
  • 銭のない時代は金融のない時代ではありませんでした。絹と米が物差しになり、切符が倉に支払いを命じ、将門も純友も税をめぐって立ち、恩賞はやはり官位でした。
  • 銭を連れ戻したのは朝廷ではなく博多の海の商人です。清盛は港を築き、都は銭の病を記し、幕府は一二二六年に宋銭を選びました。
  • 御恩と奉公は土地で回る仕組みで、守る戦には配る土地がありません。元寇の負担は二度の合戦ではなく何十年の当番で、恩賞のない勝利が借上と徳政を呼びました。
  • 寺を建てるために船が海へ出て、一隻に八百万枚の銭が沈みました。頭を下げれば銭が入り、名を守れば銭を失う。勘合の天秤が都で揺れました。
  • 寺が銀行でした。祠堂銭は徳政でも消えず、幕府の柱は金貸しから取る税で、その取り立ては金貸し自身に任されていました。
  • 店先で商人が銭を弾く撰銭の世に、大内と幕府は同じ銭の値を正反対に決めました。渡って来る銭が細ると、人は銀で払いはじめ、石見の山が光ります。
  • 信長は悪い銭を排除せず値をつけ、秀吉は金を見せ、家康は数える金と量る銀を制度にしました。一六七〇年、寛永通宝の外の銭が禁じられ、七百年の渡来銭が終わります。
  • 元禄の改鋳は出目のためで、正徳は良い貨幣を取り戻して経済を細らせ、元文は増歩をつけて八十年動きませんでした。南鐐二朱銀が、量る銀を数える銀へ変えます。

目次

  1. この時代に、お金の何が変わったのか
  2. 1銭以前 — 稲と布と利息、そして壬申の乱
  3. 2和同開珎 — 造れば流れる、ではなかった
  4. 3大仏を鋳た銅 — 国庫だけでは立たない
  5. 4十二銭の黄昏 — 新しい一文は古い十文、と言い張った国
  6. 5銭を捨てた国 — 絹と米と、官位で払う恩賞
  7. 6銭、ふたたび来たる — 博多の唐房から、銭の病まで
  8. 7米で戦う — 治承・寿永から承久まで
  9. 8幕府が銭を選ぶ — 代銭納、借上、元寇、徳政
  10. 9海を渡る銭と、乱の銭 — 建武から応仁まで
  11. 10寺が銀行だった — 出挙、祠堂銭、土倉、一揆
  12. 11撰銭の世から銀の国へ — 鐚銭、石見、鉄砲、信長、秀吉
  13. 12三貨の天下と改鋳の世紀 — 数える金、量る銀、そして寛永通宝
  14. この時代から何が次へ残ったのか
  15. 巻末SUMMARY / GALLERY / PEOPLE / TIMELINE / DATA / QUESTIONS / DRILL / SOURCES / REVISION HISTORY
この時代に、お金の何が変わったのか

この島のお金の歴史は、鋳る、捨てる、迎える、掘る、の四つの動詞でできています。七世紀の国家は唐の銭を手本に銅の円板を鋳り、十世紀に鋳るのをやめました。十二世紀、海の商人が宋の銭を運び込み、以後七百年、この島は海の向こうの銭で暮らします。十六世紀、石見の山から銀が湧き、島は銭を輸入する国から銀を輸出する国へ変わりました。そして十七世紀、家康が数える金と量る銀を制度にし、家光が国産の寛永通宝を鋳って、渡来銭の時代を閉じます。

この一冊が繰り返し出会うのは、二つの型です。一つは、銭のない国家が恩賞を位と土地でしか払えず、土地が尽きると仕組みが壊れること。壬申の乱、坂東の乱、承久の乱、元寇と、同じ形が四度現れます。もう一つは、額面を国家が宣言しても、市場は中身しか見ないこと。新しい一文を古い十文とした八世紀の朝廷は十二年で折れ、店先の商人は十五世紀に銭を指で弾き、幕府は十七世紀に良い銭を十分に配ることで争いの種を取り除きました。この二つの型を持って、通史⑧の幕末へ渡ります。

READING PATH前に読む: 第 1 号『史料批判』(全文無料)、第 11 号 通史①(インドと中国の最初の貨幣)次に読む: 通史⑧ 日本 下(未刊。刊行までは 第 14 号 通史⑥ 第 5・10 章)、第 3 号『品位と改鋳』
CHAPTER 1

銭以前 — 稲と布と利息、そして壬申の乱

まだ、銭はありませんでした。この島で富と呼ばれたのは稲で、高床の倉に積まれた稲束の数がその家の力でした。税もまた現物です。調として絹や糸や布を納め、庸として布を納める。布は端で、絹は疋で数えられ、そのまま支払いの手段になりました。この章は、銭が来る前の島に何があり、何がなかったかを歩きます。

利息だけは、先にあった

出挙という仕組みがありました。春に稲を貸し、秋に利息をつけて返させる。国が貸す公出挙の利は年に五割、のちに三割へ下げられます。私出挙は、養老令の定めで年に十割まで。銭のない島に、利息だけはすでにありました。なお、この島で貝がお金として流通した事実はありません。貝の字を持つ漢字は、海の向こうの話です。

六二一年、唐の高祖が新しい銭を鋳させました。開元通宝です。径はおよそ二十四ミリ、重さは三・七五グラム。この一枚の重さがやがて東アジアの重量の単位となり、匁という言葉の元になりました。丸い外形に四角い孔。天は円く地は方形であるという宇宙観が、手のひらの上にあります。六三〇年から倭は遣唐使を送りはじめ、長安の市に立った留学生たちは、袋のなかで鳴る銅銭の音を知って、銭のかたちとその思想を持ち帰りました。

六六三年、倭は白村江で唐と新羅に敗れます。都は近江の大津へ移り、そのころ畿内と近江で、文字のない銀の円板が使われはじめました。無文銀銭です。京都で見つかった一枚は径およそ三十一ミリ、重さ九・五グラム、銀の純度は九割四分九厘。全国十七の遺跡から、あわせて百二十枚ほどが出ています。重さは七グラム足らずから三十五グラムを超えるものまでばらつき、銀の小片を貼り足して重さを揃えた例もありました。数えるのではなく、量るお金です。誰が発行したのかは、今も分かっていません。

開元通宝 表 開元通宝 裏
KEY OBJECT 1 開元通宝 唐・621 年初鋳。青銅。径およそ二十四ミリ、重さ三・七五グラム。この重さが東アジアの重量の単位、匁の元になった。丸い外形に四角い孔。のちの和同開珎の手本。
見るところ: 四文字の配置と、四角い孔。八十七年後の和同開珎が、寸法も配置もこの一枚をなぞったことを、第 2 章の KEY OBJECT と並べて確かめる。
CZDK (talk) / CC BY-SA 3.0(Wikimedia Commons) → 実物データベース

人を数える

敗戦は、国家に人を数えさせました。六七〇年、全国の戸籍がつくられます。庚午年籍です。氏と姓を確定し、永久に保存せよと定められた台帳でした。ただし現物は伝わりません。人を数えるとは、その人から稲と布と労役をいくら取れるかを数えることです。この時点で国家の富とは、稲であり、布であり、人でした。銭ではありません。

反乱の第一歩は、米だった

六七一年、病の床にあった天智天皇は弟の大海人皇子に後のことを託そうとし、皇子はこれを辞退して吉野へ退きました。吉野は持たざる者の場所でした。兵もいない。倉もない。皇子の手に残っていたのは、美濃と伊勢の湯沐邑、皇族の私領から上がる収入だけです。湯沐邑とは、土地を治める権ではなく、そこから上がる税だけを受け取る領地でした。

六七二年六月二十四日、皇子は吉野を発ちます。翌二十五日、桑名郡で一行は、伊勢の湯沐から米を運ぶ荷駄馬五十匹に行き会いました。皇子はその米をすべて地面に降ろさせ、空いた馬の背に徒歩の従者を乗せます。反乱の第一歩は、兵ではなく米でした。挙兵を支えたのは国家の倉ではなく、自分の私領から出る米と、それを運ぶ馬です。六月二十七日、尾張の国司が二万の衆を率いて帰順しました。日本書紀の伝える数で、実数は確かめられません。その年の五月、近江の朝廷は天智の山陵をつくるという名目で美濃と尾張から役夫を徴発し、武器を持たせていました。陵墓を造るという名目で集められた民が、そのまま軍勢になった。労役と軍役が、同じ人間から出ていた時代の姿です。

不破の道は東山道の咽喉です。ここを塞げば、近江の朝廷は東国から兵と馬と糧を呼ぶ道を失います。戦争とは、相手が動員できる富と人の回路を断つこと。銭のない国では、道を塞ぐことがそのまま経済の封鎖にあたりました。七月二十二日、瀬田の橋で近江の軍は崩れ、翌日、大友皇子は自ら縊れます。開戦からひと月でした。

恩賞は、位と食封と田

では、勝った側へは何が支払われたのか。冠位と、食封と、田です。国家に銭が無かったから、恩賞は位と人と土地でしか払えませんでした。ひとりひとりが何を受け取ったかを一覧できる史料は残っていません。六七五年、天武は諸氏へ与えた部曲を廃せと命じ、豪族の私有民を国家へ回収します。富の回路を握り直したその手が、やがて銅の円板へ伸びていきました。そして、銭がないから位で払うというやり方は、二百年をこえて坂東の乱の恩賞にまで生き延びます。

六八三年の四月、天武が詔を下しました。これより後は銅銭を用いよ、銀銭を用いてはならない。日本書紀に残る一行です。禁じられたのは、あの無文銀銭でした。ここで言う銅銭が何であったのか。奈良文化財研究所は、富本銭であった可能性が高いとしています。貨幣は、国家の宣言として現れました。

教科書が書き換わった日

一九九八年の夏、奈良県明日香村の飛鳥池遺跡から、富本銭が四十点ほど掘り出されました。銭だけではありません。鋳型、坩堝、やすり、鋳ばりの残る未完成品。七世紀後半の地層に、工房がまるごと眠っていました。翌年一月の発表は、教科書が書き換わった日と呼ばれます。丸い外形に四角い孔。富本の二字の左右には、七つの星をかたどった七曜文。銅にアンチモンを加えた合金でした。

では、富本銭は本当に使われたのか。決着していません。まじないの銭であったという説の根拠は、藤原宮の大極殿院から地鎮の祭具として納められた出土例です。流通した貨幣だという説の根拠は、飛鳥池の大量生産の体制と、天武の詔。今は、貨幣として発行されたが流通の実態は乏しく、祭祀にも用いられた、という見方が主流です。同じ一枚が、ある人の手では支払いになり、別の人の手では祈りになる。信じられることで価値が生まれるという貨幣の本質を、この銭は最初から抱えていました。

富本銭 表
KEY OBJECT 2 富本銭 AD 683 頃・飛鳥池工房(飛鳥)。銅・直径 24.4mm。富本の二字の左右に七曜文。一九九八年に飛鳥池遺跡から鋳型や未完成品とともに出土した。祭具か貨幣かは決着していない。
見るところ: 富本の二字と七つの星。天武の詔の「銅銭」がこの一枚だったかどうかを、決めずに問いとして持つ。
国立文化財機構 ColBase(東京国立博物館 E-2625) / CC BY 4.0 → 実物データベース
確認されていること
公出挙の利は年五割(のち三割)、私出挙は養老令で年十割まで。開元通宝は六二一年、径およそ二十四ミリ、三・七五グラム。無文銀銭は十七遺跡から百二十枚ほど。庚午年籍は六七〇年。壬申の乱は六七二年六月二十四日挙兵、七月二十二日瀬田。天武の詔は六八三年四月。飛鳥池の富本銭出土は一九九八年。
分かっていないこと
無文銀銭を誰が発行したか。壬申の乱の兵の実数(二万・数万は日本書紀の表現)。富本銭が流通したか祭具だったか。恩賞の一覧。
今につながる構造
その時代に起きたこと
銭のない島に利息だけが先にあり、国家は人を数え、反乱は米と馬で始まり、恩賞は位と田で払われた。国家は唐の銭を手本に、宣言として銭を現した。
背後にあった仕組み
富が稲と布と人であるかぎり、国家が払えるのは位と土地と人しかない。戦争は富と人の回路を断つことで、道を塞ぐことが封鎖だった。
現代にも残る問い
貨幣は国家の宣言から始まるのか、信じられることから始まるのか。富本銭が支払いにも祈りにもなった事実は、貨幣が取り決めであるという通史①の問いに戻る。→ P01 印を信じる
同じではない点
七世紀の国家は銭を鋳る前に人と稲を数え、銭は最後に来た。今の国家は帳簿の上の負債として貨幣を先に持ち、数えるのは後である。→ P11 金との結びつきが切れる
この章の実技
  1. 見る開元通宝富本銭を実物データベースで並べて開く。
  2. 観察する — 四角い孔と四文字の配置。富本銭の七曜文が開元通宝に無いことを確かめる。
  3. 探す — 無文銀銭の重さが七グラム足らずから三十五グラム超までばらつく理由を、「量るお金」という語から考える。
  4. 引く利子秤量年貢造幣所を用語集で引く。
  5. 答える — 「反乱の第一歩は兵ではなく米だった」を、湯沐邑という語を使って一文で書く。
典拠 — 日本の航路 第 1 章「銭以前」(mono_no_kahei・torai_kaigen・mumon_ginsen)・第 2 章「壬申の乱」(kogo_nenjaku・yoshino_kudari・yunomura_no_kome・owari_no_niman・fuwa_wo_fusage・seta_to_onsho・tenmu_mikotonori・fuhonsen_asukaike・fuhonsen_ronso)の停/実物: yuan/kaiyuan(CZDK・CC BY-SA 3.0)・zeni/fuhonsen(ColBase・CC BY 4.0)。日本書紀の記述は停の記載による(原本は未実読)。
ここから先は

在籍の方にひらいています

この先には、大仏を鋳た銅 — 国庫だけでは立たない、十二銭の黄昏 — 新しい一文は古い十文、と言い張った国、銭を捨てた国 — 絹と米と、官位で払う恩賞、銭、ふたたび来たる — 博多の唐房から、銭の病まで、米で戦う — 治承・寿永から承久まで、幕府が銭を選ぶ — 代銭納、借上、元寇、徳政、海を渡る銭と、乱の銭 — 建武から応仁まで、寺が銀行だった — 出挙、祠堂銭、土倉、一揆、撰銭の世から銀の国へ — 鐚銭、石見、鉄砲、信長、秀吉、三貨の天下と改鋳の世紀 — 数える金、量る銀、そして寛永通宝 — そして巻末の資料(年表・人物・出典)が続きます。

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