939年
常陸の国で、1人の男が税を納めず、平将門を頼った
九百三十九年、平将門は常陸の国府を焼き、印綬を奪います。それは国の税の管理権を奪うことでした。国家を名乗った男も、独自の銭を鋳た形跡はありません。
3分でわかる 銭を作らず税を奪った男たち
横に送って見られます
939年
常陸の国で、1人の男が税を納めず、平将門を頼った
939年
将門は国府を焼き、役所の印と倉の鍵を奪った
千の兵 対3000
将門の兵と、国府の軍
その意味
印と鍵を奪うことは、その国の税を握ることだった
939年の12月
将門は「新皇」を名乗り、仲間に税を集める役を配った
それでも
国を名乗った男も、自分の銭を作った形跡はない
同じころ、西の海
藤原純友は、都へ税を運ぶ船を襲った
940年の2月14日
将門は討たれた
940年
討った者へのほうびは銭でなく、位と国司の役だった
国司の役=税を取る権利
3000
将門が破った国府の軍。将門の兵は千
あなたは銭を持たない朝廷。反乱を鎮めた武士に、ほうびを出さなければなりません。何を渡しますか?
選んでみてください
1度きりのほうびなら、それもできます。でも実際の朝廷は、別のものを渡しました。
実際にこちらでした。将門を討った藤原秀郷は位を上げられ、下野守に任じられました。国司の役とは、税を取る権利そのものでした。
銭のない国では、ほうびは取る権利でしか払えません。そして取る権利は、渡した側の手から永久に離れていきます。

九百三十九年、常陸国の住人、藤原玄明は税を納めませんでした。国司から追捕の令が出ると、玄明は平将門を頼ります。一人の未納者をかくまったことから、坂東を揺るがす乱が始まりました。
将門は千の兵を率いて常陸の国府へ向かい、三千の国府軍を破って国府に火をかけ、印綬を奪います。国司の印と倉の鍵を奪うとは、その国の税の管理権を奪うことです。軍の資金も兵糧も、国衙の正倉と不動倉に蓄えられた調庸と正税から出ました。この乱の詳しい経緯を伝えるまとまった記録は、将門記だけです。ただしその成立は十一世紀の前期から末期とみられ、同じ時代の記録ではありません。
常陸に続き、下野、上野の国府を次々に占めた将門は、九百三十九年の十二月、上野の国府で新皇を称します。将門記は、巫女が八幡大菩薩の使いと称して位記を授けた、と伝えます。ただしこの場面は将門記の叙述であって、実際に何が起きたのかは確かめられません。
将門は独自に除目を行い、弟や与党を坂東の国々の国司に任じました。国司を任じるとは、税を集める権限を配ることです。将門が坂東で作ろうとしたのは、都に納めない徴税の仕組みでした。坂東の富の実体は、馬を育てる牧と、開かれた私営の田、そして各国の国衙の倉です。国家を名乗った男も、独自の銭を鋳た形跡はありません。
同じ時期、西の海では藤原純友が勢力を率いていました。将門と純友が共謀したという話がありますが、痕跡は史料にありません。純友が襲ったのは、西の国々の調と庸を都へ運ぶ大動脈、瀬戸内を進む船でした。運ばれる国家の税そのものが、標的です。九百三十九年には淡路と讃岐の国府を襲い、九百四十一年の五月には博多湾から攻め入って大宰府を陥れます。
朝廷はまず、純友に従五位下を与えて懐柔を試みました。銭を持たない国家の交渉の手段は、官位を配ることでした。銭がなくても、富は奪えます。九百八十八年に尾張の国守、藤原元命が訴えられた三十一か条の非法には、出挙の強い取り立てや税の帳簿の偽造が並びます。訴える側の文書ですから、そのまま事実と確定するわけではありませんが、現物のほうがむしろ取りやすいのです。
新皇を称してからおよそ二か月後、九百四十年の二月十四日、将門は藤原秀郷と平貞盛の軍に討たれます。乱を鎮圧した者たちへの恩賞は、銭でも土地でもありませんでした。
九百四十年の三月、藤原秀郷は将門を討った功で従四位下となり、同じ年の十一月に下野守に任じられます。平貞盛は従五位上となり、のちに鎮守府将軍や陸奥守を歴任しました。報酬は位階と、国司の任です。国司の任とは、徴税の権そのものでした。勝った者は税を取る権利を報酬として受け取り、それを元手に在地の基盤を築きます。銭のない国では、報酬は取る権利でしか払えません。そして取る権利は、渡した側の手から永久に離れていきます。