鰐を刻んだ征服地の貨幣
ガリアの地で鋳られたローマの青銅貨には、皇帝の顔と、エジプト征服を記念する鰐が刻まれています。征服された土地が、征服者の勝利を日々使うとはどういうことだったのでしょうか。

鰐と皇帝の小銭
南ガリアのニームという町で、前一世紀に青銅の貨幣が打たれました。表には皇帝アウグストゥスとその腹心アグリッパの肖像が、裏には椰子の木に鎖でつながれた鰐が刻まれています。これはエジプト征服を記念する図です。ガリアの属州で鋳られたこの小銭は、征服された人々が、征服者の顔と勝利のしるしを日々の支払いに使っていたことを物語ります。ニームの町は今も、この鰐を紋章にしています。
流れ去る富
カエサルの征服のあと、ガリアは金を奪われる地から、税を納める属州へと変わりました。戸口と財産は調べ上げられ、地租と人頭税が課されます。富は査定され、貨幣の形で吸い上げられていきました。さらにローマの金貸しが高い利で貸し付け、税と負債がガリアの名家を破産へ追い込みます。後二十一年には、アエドゥイ族のユリウス・サクロウィルらが蜂起する事態も起きました。
この地は、帝国でも指折りの生産地でした。南ガリアのラ・グロフザンクで焼かれた赤く光る高級陶器は、帝国じゅうへ運ばれます。この地の器は、後七十九年に埋もれたポンペイの町からも見つかるほどです。けれど豊かさの果実の多くは、税と交易を通じて帝国へ流れ、この地には残りにくかったのです。
壊れた信
富を吸い上げる道具であったローマの貨幣そのものも、やがて質を落としていきました。はじめはほぼ純銀だったデナリウス銀貨は、後六十四年に皇帝ネロがこれを軽くしてから、銀の純度を下げ続けます。金貨もまた、時とともに軽くなりました。
後二百十五年、皇帝カラカラは新しい銀貨を出します。額面は二デナリウスなのに、含まれる銀は一・五デナリウス分しかありません。皇帝は放射の冠をかぶることで、二倍の値を名乗ったのです。やがて貨幣は青銅の芯に薄い銀をかぶせただけになり、ガリエヌスの世には、銀の割合はおよそ二パーセントまで落ちました。通貨への信という、貨幣を持つすべての者の富が失われたのです。
良い貨幣という名の独立
後二百六十年、皇帝ウァレリアヌスがペルシアに捕らわれると、ライン戦線の将ポストゥムスが兵に皇帝と称えられます。きっかけは、蛮族から奪った戦利品を本国へ送らず、自分の兵に分けたことでした。彼はケルンを攻め、ガリア、ゲルマニア、ブリタンニア、ヒスパニアにまで及ぶガリア帝国を打ち立てます。
ポストゥムスは、ローマの仕組みをそっくり写しました。そして何より、本国よりも良い貨幣を打ちます。ヒスパニアやブリタンニアの鉱山を握り、貴金属の多い銭を鋳て、その面に「ガリアの回復者」と刻んだのです。良い貨幣を打つことが、彼の正しさを語る言葉でした。けれど彼の貨幣も、後二百六十八年の末には悪鋳のきざしが現れます。やがて略奪を拒んだ彼は、兵自身の手で殺されました。
刻印だけでは戻らないもの
ガリア帝国は、十四年で幕を閉じます。後二百七十四年、皇帝アウレリアヌスが西方を本国へ取り戻しました。貨幣を打つ独占を握り直した彼は、鋳直した貨幣の裏に、二十対一を示すしるしを打ちます。失われた銀を、しるしで取り戻そうとしたのです。
けれど、銀そのものは戻りませんでした。この世紀の末には、日々の商いから正貨が消え、税は物で集められました。三百年使われたデナリウスは、ほとんど値打ちを失ったのです。
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