死んだ王が打った銭
権威が消え去ったのちも、なぜ人々はとうに世を去った王の名を銭に刻み続けたのでしょう。それは、貨幣への信頼が、それを作った権力よりも長く生きたからです。

なぜ死んだ王の名を刻むのか
封建の時代の造幣には、不思議な習いがありました。とうに世を去った王の名や、古い図柄を、何十年も、時には何世紀も打ち続けるのです。これを「不動化した型」といいます。
萌芽はカロリング家にありました。ルイ敬虔帝の銭は、はじめから父シャルルマーニュの姿を写し、帝国の威を借りていました。けれど王権が崩れてのちは、これが死んだ皇帝の名を借り続ける形で凍りつきます。なぜ、このようなことが起きたのでしょうか。
王の銀が流れ去るとき
シャルルマーニュが握り直した貨幣も、長くは続きませんでした。九世紀の後半、北からヴァイキングの長船がセーヌやロワールを遡り、町を襲います。
八百四十五年、ヴァイキングの首領レギンヘルスがパリを略奪した際には、西フランクの禿頭王シャルル二世が、銀と金あわせて七千リーヴル、およそ二千五百七十キロを差し出して退かせたと伝わります。これはフランク側が払った貢ぎの、最初の一度とされます。貢ぎは繰り返され、銀は一方通行で国の外へ流れ出ました。
王は貨幣を握り直そうとします。八百六十四年、禿頭王はピトルの勅令を出し、造幣所を九か所から三か所へ絞ろうとしました。最後の試みでしたが、流れは止まりません。カロリング家が衰えるにつれ、銭を打つ権利は、伯や司教や修道院へと散っていったのです。
銘柄になった皇帝の名
ばらばらになった造幣の権利は、数十とも数百とも知れません。トゥールのトゥルノワ、パリのパリジなど、土地と領主の銭が林立しました。銭を打つことは、支配を宣言すると同時に、造幣益という利を生む収入源でもありました。
ここで、あの不思議な習いにつながります。なぜ古い型を使い続けたのか。理由は損得でした。商人は、慣れ親しんだ型を良い銭と信じます。だから貨幣を打つ領主たちは、名も図も変えず、その信を借り続けたのです。
シャルルマーニュの名、ルイ敬虔帝の神殿の型、銀の産地ムルの型。各地の造幣所が、雛形を一世紀以上も打ち続けました。死んだ王の名は、いわば銘柄になったのです。中央の権威が消えても、銭の上では、過ぎ去った統一の記憶が凍って残り続けました。
土が語る銀の行方
貢ぎや略奪で流れ去った銀の行き先を、私たちは物として指し示すことができます。一八四〇年、イングランド北西のリブル川の岸で、カーデールの退蔵が見つかりました。コインおよそ七千枚に、地金や腕輪を加えて、あわせて八千六百点あまり。銀の重さは、三十一キロから四十キロと伝わります。
埋められたのは、およそ九百三年から九百十年のこと。コインには、ヴァイキングやウェセックスの貨に加えて、フランク、ビザンツ、イスラム、教皇の銭までが混じっていました。ただし、この銀のすべてが貢ぎの袋だったとは限りません。交易も、略奪も、その地で打たれた銭も混じります。それでも、フランクとイングランドの銀がヴァイキングの手に集まり、遠い北の土に沈んだことは確かです。
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