カロリング家の時代
王の銭は、偉大な先代シャルルマーニュの姿を写していた
権威が消え去ったのちも、なぜ人々はとうに世を去った王の名を銭に刻み続けたのでしょう。それは、貨幣への信頼が、それを作った権力よりも長く生きたからです。
3分でわかる 死んだ王が打った銭
横に送って見られます
カロリング家の時代
王の銭は、偉大な先代シャルルマーニュの姿を写していた
9世紀の後半
北からヴァイキングの船が川を上り、町を襲った
845年
王は銀と金を差し出して、パリから退いてもらった
7000リーヴル
フランク側が払った貢ぎの、最初の1度
864年
王は銭を作る場所を、十か所に限ろうとした
最後の試み。流れは止まらなかった
王の力が弱まると
銭を作る権利は、伯や司教や修道院に散った
その後
領主たちは、死んだ王の名と古い図を打ち続けた
時には1世紀以上も
なぜか
商人は見慣れた型を良い銭と信じた。その信用を借りた
1840年
イングランドの川岸で、埋められた銀の山が見つかった
8600点あまり
コインおよそ7000枚に、地金や腕輪を加えて
7000リーヴル
845年、パリから退かせるために王が差し出した銀と金
7000枚
川岸から見つかった埋められた銀の中の、コインの数(およそ)
あなたは中世フランスの領主。自分の銭を打つことになりました。銭に刻むのは、どちらにしますか?
選んでみてください
支配を宣言するにはよさそうです。でも商人は、慣れた型を良い銭と信じていました。見知らぬ型は、信じてもらいにくかったのです。
実際の領主たちはこちらを選びました。理由は損得です。名も図も変えず、昔の型が持つ信用を借り続けたのです。
死んだ王の名は、銘柄になりました。お金への信頼は、それを作った権力よりも長く生きたのです。

封建の時代の造幣には、不思議な習いがありました。とうに世を去った王の名や、古い図柄を、何十年も、時には何世紀も打ち続けるのです。これを「不動化した型」といいます。
萌芽はカロリング家にありました。ルイ敬虔帝の銭は、はじめから父シャルルマーニュの姿を写し、帝国の威を借りていました。けれど王権が崩れてのちは、これが死んだ皇帝の名を借り続ける形で凍りつきます。なぜ、このようなことが起きたのでしょうか。
シャルルマーニュが握り直した貨幣も、長くは続きませんでした。九世紀の後半、北からヴァイキングの長船がセーヌやロワールを遡り、町を襲います。
八百四十五年、ヴァイキングの首領レギンヘルスがパリを略奪した際には、西フランクの禿頭王シャルル二世が、銀と金あわせて七千リーヴルを差し出して退かせたと伝わります。重さに直すと、二トン半とも、六トンに迫るとも記されます。これはフランク側が払った貢ぎの、最初の一度とされます。貢ぎは繰り返され、銀は一方通行で国の外へ流れ出ました。
王は貨幣を握り直そうとします。八百六十四年、禿頭王はピトルの勅令を出し、造幣を宮廷と九つの町、あわせて十か所に限ろうとしました。最後の試みでしたが、流れは止まりません。カロリング家が衰えるにつれ、銭を打つ権利は、伯や司教や修道院へと散っていったのです。
ばらばらになった造幣の権利は、数十とも数百とも知れません。トゥールのトゥルノワ、パリのパリジなど、土地と領主の銭が林立しました。銭を打つことは、支配を宣言すると同時に、造幣益という利を生む収入源でもありました。
ここで、あの不思議な習いにつながります。なぜ古い型を使い続けたのか。理由は損得でした。商人は、慣れ親しんだ型を良い銭と信じます。だから貨幣を打つ領主たちは、名も図も変えず、その信を借り続けたのです。
シャルルマーニュの名、ルイ敬虔帝の神殿の型、銀の産地ムルの型。各地の造幣所が、雛形を一世紀以上も打ち続けました。死んだ王の名は、いわば銘柄になったのです。中央の権威が消えても、銭の上では、過ぎ去った統一の記憶が凍って残り続けました。
貢ぎや略奪で流れ去った銀の行き先を、私たちは物として指し示すことができます。一八四〇年、イングランド北西のリブル川の岸で、カーデールの退蔵が見つかりました。コインおよそ七千枚に、地金や腕輪を加えて、あわせて八千六百点あまり。銀の重さは、三十一キロから四十キロと伝わります。
埋められたのは、およそ九百三年から九百十年のこと。コインには、ヴァイキングやウェセックスの貨に加えて、フランク、ビザンツ、イスラム、教皇の銭までが混じっていました。ただし、この銀のすべてが貢ぎの袋だったとは限りません。交易も、略奪も、その地で打たれた銭も混じります。それでも、フランクとイングランドの銀がヴァイキングの手に集まり、遠い北の土に沈んだことは確かです。
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