19世紀のリスボン
同じ品物なのに、払い方で値段が二つあった
金貨・銀貨なら割引き。紙なら割増し
同じ品物でも、どちらで払うかで値段が違いました。金貨で払うなら割引き、紙で払うなら割増し。この差が日ごとに動く市がありました。
3分でわかる 正貨
横に送って見られます
19世紀のリスボン
同じ品物なのに、払い方で値段が二つあった
金貨・銀貨なら割引き。紙なら割増し
毎日
値段の差は日ごとに動き、両替屋の店先に貼り出された
言葉
金や銀そのものが値打ちを支えるお金を「正貨」と呼ぶ
お札と交換するため銀行がためる金銀は「正貨準備」
注意
正貨は「本物のお金」という意味ではない。今のお札も立派なお金
1720年
フランスで人々が「お札を金貨に換えて」と銀行に殺到した
お札は刷れても、金貨は作れなかった
後274年
ローマの皇帝は、銀の減ったお金に比べのしるしを打った
でも、しるしは失われた銀を呼び戻さなかった
いつの時代も
良いお金は家に隠れ、悪いお金が市に残る
20対一
皇帝が貨幣の裏に打ったしるし(銅20に対して銀一、と読まれている)
あなたは19世紀のリスボンの市にいます。財布には金貨とお札の両方があります。同じ品物を買うなら、どちらで払いますか?
選んでみてください
正貨で払えば割引きになりました。でも、手元の金貨は減ります。
紙で払うと割増しでした。それでも人は、悪いほうのお金から先に手放そうとします。良い貨幣は家に隠れ、悪い貨幣が市に残るのです。
人々は毎日、両替屋の掲示と手元のお金を見比べていました。どこの銀行のお札かによっても、割増しの幅は違いました。

十九世紀のリスボンの市には、二種類の支払いがありました。金貨や銀貨で払う人と、紙で払う人です。
面白いのは、同じ品物でも、どちらで払うかによって値段が違ったことです。紙で支払うなら割増しになり、正貨で支払うなら割引きになりました。この差は毎日動き、両替屋の店先に掲げられます。人々は、自分の手元にあるお金の種類を、その日の掲示と見比べていました。
この、金や銀でできた貨幣のことを「正貨」と呼びます。
正貨とは、金貨や銀貨のように、素材の金属そのものが額面の価値を裏づけている貨幣を指します。紙幣に対する言い方です。紙幣を発行する銀行が、その紙といつでも交換できるように金庫に積んでいる金銀は「正貨準備」と呼ばれます。
注意したいのは、正貨が「本物の貨幣」という意味ではないことです。いま世界で使われている通貨は、素材の価値とは切り離された不換貨幣ですが、それでも立派な貨幣です。正貨とは、貨幣の真贋を分ける言葉ではなく、素材の値打ちが制度の基準になっているものを指す、ひとつの区分けにすぎません。
しかし、歴史の中では、この区分けが人々の生活を左右する場面がありました。
千七百二十年、フランスで、ある銀行の紙幣と会社の株が熱狂の的になりました。スコットランド人のジョン・ローが「お金は金属である必要はない。紙で良い」と唱え、銀行を開いたのは一七一六年のことです。彼の仕組みは、パリやリヨン、トゥール、アミアンにも支店を広げます。
しかし、株価が天井知らずに上がった後、バブルははじけました。人々が紙幣を正貨に換えてくれと銀行に殺到したとき、その要求に応じられなかったのです。紙幣を刷ることはできても、金貨を作ることはできませんでした。紙で正貨を置き換える試みは、その後長く悪評のなかにあり、ローの評価が戻るのは千九百三十年代でした。
信を失った貨幣を、しるしだけで取り戻そうとした皇帝もいました。
後二百七十四年、皇帝アウレリアヌスは、ガリア帝国を本国へ取り戻します。貨幣を打つ独占を握り直した彼は、その年ごろに貨幣を改革しました。銀の含有量が落ちていたアントニニアヌスという貨幣を鋳直し、その裏に「二十対一」を示すしるしを打ちます。銅二十に対し、銀が一、という比率と読まれています。
しかし、しるしは失われた銀そのものを呼び戻しませんでした。この世紀の末には、日々の商いから正貨が消え、税は物で集められました。三百年使われたデナリウス銀貨は、ほとんど値打ちを失います。
貨幣が複数あるとき、人は必ず悪いほうから先に手放します。良い貨幣は家に隠れ、悪い貨幣が市に残るのです。一八八七年までのリスボンでは、複数の銀行がそれぞれの紙を出しており、どこの銀行の紙かによって、割増しの幅も違っていました。
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