純銀という一本の線
はじめはほぼ純銀だったローマの銀貨は、やがて銀の割合が二パーセントまで落ち、芯の青銅を隠す薄皮になりました。貨幣に含まれる純銀の重さ。この一つの数が変わるとき、通貨への信もまた変わります。

二倍を名乗る銀貨
ローマの銀貨デナリウスは、はじめほぼ純銀で、目方はおよそ四グラムでした。しかし後六十四年、皇帝ネロがこれを軽くすると、以後、銀の純度は下がる一方でした。金貨アウレウスも、アウグストゥスの七・八グラムから、カラカラの六・五グラムへと痩せていきます。
後二百十五年、カラカラ帝はアントニニアヌスという新しい銀貨を出します。額面は二デナリウスとされていましたが、実際に含まれている銀は一・五デナリウス分しかありません。貨幣に刻まれた皇帝は放射の冠をかぶり、二倍の値を名乗ったのです。
打つたびに銀は減り、ガリエヌスの世には、銀の割合はおよそ二パーセントまで落ちました。やがて青銅の芯に、薄い銀をかぶせただけの貨幣になります。良貨は退蔵され、売り手も買い手も低い中身を見抜いて、値を吊り上げました。壊れたのは誰か一人の富ではなく、貨幣を持つすべての者の、通貨への信という富でした。
自然の合金を割る技
さかのぼってリディアでは、王クロイソスが、それまでのエレクトロン貨をやめ、純金と純銀の貨幣をはじめて別々に造りました。紀元前五百五十年ごろのことです。リュディアの職人たちは、自然の合金であるエレクトロンを、人の手で金と銀に分ける精錬の技を編み出していました。
純度を国家が保証した金貨としては、これが最初のものに数えられます。そして金貨と銀貨を並べて使う、世界で最初の複本位の仕組みが生まれました。クロイソスの名は豊かさの代名詞となり、その富は黄金の奉納となって、遠くデルフォイの神殿にまで積み上げられたといいます。
純銀で打つという布告
七七四年にランゴバルド王国を倒したカール大帝は、七九四年、フランクフルトの教会会議で、新しいデナリウスの使用を布告しました。そこには、二つの決まりがありました。純銀で打つこと、そしてカールの名を載せることです。
一ポンドの純銀から二百四十枚のデナロを打ち、十二枚を一ソルド、二十ソルドを一リブラと数える。この新しい計数法が定められます。それまでは一ポンドを二百六十四枚で数えていましたが、これを十二でも二十でも割り切れる二百四十という数に直したのです。
量目と品位の掛け算
リブラ、ソルド、デナロ。この三段の数え方は、以後千二百年にわたってヨーロッパの帳簿を支配し、イギリスのポンド・シリング・ペンスも同じ骨組みを持っています。
この仕組みの土台にあったのは、一ポンドおよそ四百八グラムの純銀でした。一枚の貨幣が本当に持っている値打ちは、額面がいくらでも、名前が何であっても、その量目(重さ)と品位(純度)の掛け算で決まります。


