1940年6月
占領された国が、占領する軍の費用を払わされた
日に4億フラン
はじめの額
法や協定が定める建前の値と、市場が示す本当の値。この二つの間に生まれるずれは、時に富を奪い、時に金属を国境の外へ運び出します。史料が語らない「実勢」の働きを辿ります。
3分でわかる 実勢(市場の本当の値)
横に送って見られます
1940年6月
占領された国が、占領する軍の費用を払わされた
日に4億フラン
はじめの額
1940年
1マルクを20フランと、本当より高く決めた
占領下
その数字で、兵士は店の棚を買い占めていった
1940年 → 1943年
食料の値段が、4倍に跳ね上がった
実勢とは
決められた値ではなく、市場で本当に動いている値
1794年
法律の金と銀の比べ方が、市場とずれていた
15対一
その結果
安く見られた金は、国の外へ流れ出た
チューリップの話
名高い逸話の多くは、取引の記録ではなく後のうわさ
まとめ
本当の値は、帳簿や物価の記録から読み解くしかない
4倍
1940年から1943年に上がった、占領下の食料の値段
2855億フラン
1942年の評価で、占領費の支払いの合計
法律では、金と銀の交換の比率は15対一。でも市場の値で見ると、金はそれより安く見積もられています。あなたが金を持っていたら?
選んでみてください
国の中では、金は低く見積もられたままです。だから多くの人はそうしませんでした。
実際に起きたのはこちらでした。安く評価された金は、国の外へと流れ出ていきました。
建前の値と本当の値のずれは、ときに富を奪い、ときに金属を国境の外へ運びます。

一九四〇年六月、休戦協定が結ばれたパリの街では、為替レートが武器になりました。占領するドイツ軍の維持費をフランスが支払うことが定められ、その額は当初、日に四億フランに上ります。支払いの道具の一つが為替でした。一マルクは二十フランと、実勢より高く固定されます。この決められた数字によって、ドイツ兵はパリの店の棚を買い占めていきました。食料の値段は、一九四〇年から一九四三年までの間に四倍に跳ね上がります。占領とは、銃だけではなく、この毎日の数字でもあったのです。
公に定められた値と、実際に市場で動いている値。この後者を「実勢」と呼びます。建前ではなく、実際にそうなっている値のことです。占領下のパリでは、為替レートという公の値が、実勢からかけ離れて設定されることで、富を一方的に移す道具として機能しました。この占領費の支払いは、ドイツ側がほぼ思うままに額を決めた、合意の形をとった収奪でした。一九四二年の大蔵省の評価では、支払いの合計は二千八百五十五億フランに達していました。
公の値と実勢のずれが、意図しない結果を招くこともあります。千七百九十四年のアメリカでは、最初の一ドル銀貨、フローイング・ヘア・ダラーが打たれました。しかし、造幣局の産出はわずかで、市場で日々に使われるのは、相変わらずスペインドルでした。さらに大きな問題は、法律が定めた金と銀の交換比率、十五対一という数字です。この比率は市場の実勢とずれており、金は低く見積もられることになりました。結果は明らかでした。安く評価された金は、国の外へと流れ出ていきます。グレシャムの法則の、新大陸での再演です。
「球根一つで家が買えた」という逸話で知られるオランダのチューリップ狂も、実勢という視点から見直されています。これらの名高い話の多くは、取引の記録ではなく、崩落の直後に刷られた教訓パンフレットに由来する風聞です。近年の研究は、この三百年来のバブルの像を描き直しています。ゴールドガーが文書で確認できた破産はわずかで、参加者の多くは富裕な商人でした。経済全体への打撃は限定的だったとされ、ガーバーのように、希少品種の高値には市場の実勢で説明のつく部分があると論じる研究者もいます。ただし、研究者たちはバブルではなかった、と言い切ることもしていません。
公定の史料が語るのは、しばしば決められた方の値です。本当の値、つまり実勢は、帳簿や物価の記録といった場所から、間接に読み解くしかありません。
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