谷の名から来た銀貨、ダールデルの旅
オランダで生まれた銀貨ダールデル。国内で嫌われたこの貨幣は外への支払いに回り、やがて英語の口でダラーに変わります。ひとつの谷の名が、世界の貨幣の名になるまでの物語です。

王の名も肖像もない銀貨
千五百七十五年、反乱のさなかにあったホラント州で、一つの銀貨が打たれました。ライオンダールデルと名付けられたこの貨幣には、それまで通例であった王の肖像も、その名も刻まれていません。戦費をまかなうために発行された、特別な銀貨でした。
この銀貨が登場するまで、オランダでは千五百五十七年にフェリペ二世の肖像を刻んだフィリップスダールデルが打たれ、千五百六十七年にはブルゴーニュ十字のクルイスダールデルが加わっていました。これらに対し、ライオンダールデルの品位は、当時の基準であったリクスダールデルよりも低く定められています。
故郷で嫌われ、世界へ
品位の低さから、ライオンダールデルは国内で嫌われました。だからこそ、この銀貨は外への支払いに優先して回されることになります。こうして故郷を追われるようにして海を渡った銀貨は、期せずして世界の貿易銀としての役割を担うことになりました。
この「ダールデル」という名はやがて英語の口にあわせて「ダラー」へと変わっていきます。そして北米の人々は、日々手にするスペインの銀貨を、この新しい名で呼びました。スペインドルです。
ボヘミアの谷に始まる旅
そもそも、ダールデルという言葉はどこから来たのでしょうか。その源流は、千五百二十年ごろのボヘミアにさかのぼります。銀の鉱山があったヨアヒムの谷で、大型銀貨の鋳造が本格化しました。谷の名を取って、人々はこの銀貨を「ターラー」と呼びます。
このターラーという名が低地に流れ込み、低地ドイツ語のダーレルを経てオランダの言葉になったものがダールデルです。よその谷で生まれた銀貨の名が、低地の言葉になり、さらに英語のダラーへと姿を変えて海を越えたのです。
小さな谷の名が世界通貨に
ターラーの名が旅した道のりの先に、今日、世界経済の中心にあるドルという名前が連なります。その名の奥には、十六世紀のボヘミア、聖ヨアヒムの谷の坑道の暗がりと、銀山の町の槌音が眠っています。
皇帝の名でも、大国の都の名でもありません。山あいの小さな谷の名が、世界通貨の名になったのです。まだ合衆国が影も形もなかった時代、独立より先に、その国の貨幣の名は、もう決まっていました。


