1960年1月1日
新しいフランが始まった。新1フランは旧100フラン
帳簿の上で、ゼロを二つ消した
1960年、フランスはゼロを二つ消した新フランを発行します。目指したのは「重いフラン」という威信の回復でした。一枚の貨幣に託された願いは、やがて世界の通貨秩序へ、そして顔のない市場へと挑むことになります。
3分でわかる ゼロを二つ消したフラン
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1960年1月1日
新しいフランが始まった。新1フランは旧100フラン
帳簿の上で、ゼロを二つ消した
1960年
買える量は同じ。それでも「重いフラン」が心を支えた
1965年2月
フランスは持っていたドルを金に換え、船で運ばせた
1971年
米国の金が減り、ドルが金との交換を止める引き金の一つに
1968年5月
ストのさなか、お金がフランから逃げ出した
3割五分
最低賃金の引き上げ
1969年8月8日
後継の政権が切下げを発表。取引所の休みの日を選んだ
11.1パーセント
1981年 → 翌年
国内だけで景気をふくらませ、貿易の赤字がほぼ倍に
500億 → 930億フラン
1982年ごろ
銀行を国のものにしても、お金は国の外へ逃げられた
敵は、顔のない為替市場になった
100フラン
旧100フランが、新1フランになった
930億フラン
1982年の貿易赤字。前の年からほぼ倍
1968年の11月。世界はフランの切下げを待っています。あなたが大統領ならどうしますか?
選んでみてください
ドゴールはこちらを選びました。厳しい立て直しの計画なしに切り下げても失敗する、と。彼にとって切下げは威信の敗北でした。
9か月後の1969年8月8日、後継の政権が11.1パーセントの切下げを発表します。取引所の閉まる日を選び、投機の圧力はかかりませんでした。
やがてフランス自身も、そのフランをヨーロッパの通貨へ手放すことになります。

1960年1月1日、フランスで新しいフランが発効しました。新1フランは、旧100フラン。帳簿の上で、ゼロを二つ消したのです。このデノミネーションを設計したのは、財務相ピネと経済学者リュエフでした。目指したのは「威信の重いフラン」の回復です。
もちろん、ゼロを二つ消しても、買えるものの量は旧100フランのままで、フランの実質的な値打ちが上がったわけではありません。それでも、この「重いフラン」という心理的な錨は、ドゴールが始めた第五共和政の相対的な安定に寄与しました。通貨とは、人がそう信じるという信念の上に立つもの。デノミネーションは、その信念を作り直すための装置だったのです。
国内の通貨に威信を整えたドゴールは、次に世界の通貨秩序そのものへ挑みます。当時のブレトンウッズの下ではドルだけが金と結ばれ、米国は赤字を自国の紙で埋めることができました。財務相のジスカール・デスタンは、この仕組みを「法外な特権」と名づけています。
ドゴールは言葉ではなく、行動で挑みました。1965年2月、フランスは手元にあるドルを金に換えると宣言し、海軍の船を使って大西洋の向こうから金塊を運ばせたのです。これに続く国も現れ、この動きは米国の金の備えを削り、1971年にドルが金兌換を止める引き金の一つになります。自国のフランは1936年に金と別れていたにもかかわらず、フランスは世界にはもう一度、金に還れと迫ったのでした。
しかし、そのフランの威信も、国内の出来事によって揺らぎます。1968年5月、ゼネストと占拠のさなか、資本がフランから逃げ出しました。政府と労使はグルネルで合意し、最低賃金を三割五分、賃金全般を平均一割引き上げます。街頭の要求が、そのまま通貨の帳簿に書き込まれた形です。
同じ年の十一月、世界はフランの切下げを待ちましたが、ドゴールはこれを拒みます。厳しい安定化の計画なしに切り下げても、失敗に終わる、と。彼にとって切下げは威信の敗北でした。ですが、その九か月後、1969年8月8日、後継者であるポンピドゥーの政権は、十一・一パーセントの切下げを発表します。取引所の閉まる日を選んだため、投機の圧力は一切かかりませんでした。切下げは、音もなく削る実務になっていたのです。
時代が下り、1981年5月にミッテランが大統領に選ばれると、市場はすぐに切下げを織り込みました。しかし彼もまた、信任を寄せた国民の通貨を切り下げたりはしない、と一度は拒みます。政権は需要の喚起に賭けましたが、世界不況の中での単独の膨張は、貿易赤字を1981年の五百億フランから翌年には九百三十億フランへと、ほぼ倍に膨らませました。
フランは、二度切り下げられます。まず十月に三パーセント、翌年六月にはさらに五・七五パーセント。そして政権は、1982年に大手の民間銀行三十九行と、パリバ、スエズを国有化します。けれど、壁を国有化しても、資本は国境の外へ逃げられました。フランの敵は、もうパリの銀行家ではなく、顔のない為替市場になっていたのです。
やがてフランス自身も、そのフランを、ヨーロッパの通貨へ手放すことになります。
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