NOMISMA SCHOLA
READING A COIN

ゼロを二つ消したフランの威信

1960年、フランスはゼロを二つ消した新フランを発行します。目指したのは「重いフラン」という威信の回復でした。一枚の貨幣に託された願いは、やがて世界の通貨秩序へ、そして顔のない市場へと挑むことになります。

2026-08-18 葉山 満 実物を読む

ゼロを二つ消した錨

1960年1月1日、フランスで新しいフランが発効しました。新1フランは、旧100フラン。帳簿の上で、ゼロを二つ消したのです。このデノミネーションを設計したのは、財務相ピネと経済学者リュエフでした。目指したのは「威信の重いフラン」の回復です。

もちろん、ゼロを二つ消しても、買えるものの量は旧100フランのままで、フランの実質的な値打ちが上がったわけではありません。それでも、この「重いフラン」という心理的な錨は、ドゴールが始めた第五共和政の相対的な安定に寄与しました。通貨とは、人がそう信じるという信念の上に立つもの。デノミネーションは、その信念を作り直すための装置だったのです。

威信を賭けた金の奪還

国内の通貨に威信を整えたドゴールは、次に世界の通貨秩序そのものへ挑みます。当時のブレトンウッズの下ではドルだけが金と結ばれ、米国は赤字を自国の紙で埋めることができました。財務相のジスカール・デスタンは、この仕組みを「法外な特権」と名づけています。

ドゴールは言葉ではなく、行動で挑みました。1965年2月、フランスは手元にあるドルを金に換えると宣言し、海軍の船を使って大西洋の向こうから金塊を運ばせたのです。これに続く国も現れ、この動きは米国の金の備えを削り、1971年にドルが金兌換を止める引き金の一つになります。自国のフランは1936年に金と別れていたにもかかわらず、フランスは世界にはもう一度、金に還れと迫ったのでした。

将軍の敗北、後継者の実務

しかし、そのフランの威信も、国内の出来事によって揺らぎます。1968年5月、ゼネストと占拠のさなか、資本がフランから逃げ出しました。政府と労使はグルネルで合意し、最低賃金を三割五分、賃金全般を平均一割引き上げます。街頭の要求が、そのまま通貨の帳簿に書き込まれた形です。

同じ年の十一月、世界はフランの切下げを待ちましたが、ドゴールはこれを拒みます。厳しい安定化の計画なしに切り下げても、失敗に終わる、と。彼にとって切下げは威信の敗北でした。ですが、その九か月後、1969年8月8日、後継者であるポンピドゥーの政権は、十一・一パーセントの切下げを発表します。取引所の閉まる日を選んだため、投機の圧力は一切かかりませんでした。切下げは、音もなく削る実務になっていたのです。

顔のない為替市場

時代が下り、1981年5月にミッテランが大統領に選ばれると、市場はすぐに切下げを織り込みました。しかし彼もまた、信任を寄せた国民の通貨を切り下げたりはしない、と一度は拒みます。政権は需要の喚起に賭けましたが、世界不況の中での単独の膨張は、貿易赤字を1981年の五百億フランから翌年には九百三十億フランへと、ほぼ倍に膨らませました。

フランは、二度切り下げられます。まず十月に三パーセント、翌年六月にはさらに五・七五パーセント。そして政権は、1982年に大手の民間銀行三十九行と、パリバ、スエズを国有化します。けれど、壁を国有化しても、資本は国境の外へ逃げられました。フランの敵は、もうパリの銀行家ではなく、顔のない為替市場になっていたのです。

やがてフランス自身も、そのフランを、ヨーロッパの通貨へ手放すことになります。

続けて教材を読みたい方はこちら

記事の出どころは、すべて本編の教材です。