銭を捨てた国へ、商人が運んだ貨幣
乾元大宝を最後に朝廷は銭を鋳るのをやめました。絹と米で支払いをしていたこの島へ、十二世紀、博多の商人が宋の銭を運びこみます。国家の意思ではなく、損得勘定が貨幣のかたちを変えていきました。

銭のない国の物差し
延喜式の禄物価法は、米や布や鉄といった品々の公の値を定めていました。国家自身が、銭ではない物差しを用意していたのです。平安の中ごろから、価値をはかり支払いに使われたのは、絹と布と米でした。土地の売券は、絹何疋、米何石という形で書かれます。
富は土地に沈んでいきました。十一世紀には寄進地系の荘園が広がり、税を免れる特権を持つ所領が増えます。千六十九年、後三条天皇は記録荘園券契所を置きますが、この流れは止まりませんでした。
博多の浜に着いた船
十一世紀の終わり、博多の湊に、見慣れない銭が降ろされはじめます。宋の銭です。
十二世紀の半ばになると、博多の浜には宋の船が着き、綱首と呼ばれる宋人の船主たちがそのまま住みつきました。彼らの居留区は唐房と呼ばれます。船倉から降ろされたのは、陶磁器の箱と、緡に通した銅銭の山でした。海の向こうで鋳られ、海を越えて来た皇宋通宝です。博多の遺跡を掘れば、その銭と焼き物のかけらが、今も土から現れます。
商人が動かした富
銭をこの島へ連れ戻したのは、朝廷ではありません。海の商人でした。国家の詔ではなく博多に集まった商人の損得勘定が、この国の貨幣を作り変えていったのです。
そのころ奥州では、藤原清衡が陸奥を掌握していました。財源は砂金と馬です。その砂金は都へ上り、やがて宋へ渡りました。そして代わりに運ばれてきたのは、この国が鋳るのをやめた銅銭でした。銭を運んだのは国ではなく、綱首の謝国明のような男たちです。
都を覆った「銭の病」
十二世紀の後半には、運ばれてきた銭が京を覆いました。百錬抄は、治承三年の記事にこう書いています。天下の上下が病み悩む。これを銭の病と呼ぶ、と。
朝廷は、はじめこれを禁じようとしました。けれど今度の銭は、国が鋳るものではありません。平氏の富を支える三本の柱の一つには、日宋貿易の利がありました。
乾元大宝を知らない世代が、生まれてはじめて手にした銭は、外の国の銭でした。
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