お金は
どこから来たのか

CNG coins / CC BY-SA 3.0(Wikimedia Commons)
人はなぜ、秤をやめて、印を信じたのか。
この一冊を3分で
- 古い粘土板に残るのは物々交換ではなく、配分や貸し付けの帳簿です。貨幣が要るのは、顔を知らない相手と取引するときでした。
- 硬貨より千年以上前、価値は重さそのものでした。取引のたびに秤にかけ、品位を確かめる時間が、取引の費用でした。
- リディアの王がエレクトロンにライオンの印を打ち、値打ちを決めるのは金属ではなく、印を打った者になりました。王家はその硬貨を金を薄めた合金で造り、研究者クロールの解釈では、川の金と同じ値と定めていました。
- 発明した王国は百年経たずに滅び、造幣所と発明は征服者に受け継がれました。国は消えても、手のひらの一枚は残ります。
- 東から届いた一つの火は、エーゲ海で銀に乗り換え、百を超える都市の炉に分かれました。図像は都市の名乗りでした。
- 三つの重さの物差しが並び、どの秤を選ぶかが、どの交易圏で生きるかを決めました。秤の目盛りは外交の目盛りでした。
- アテナイのフクロウは、地下の銀山と、変えない図像と、三文字の名乗りで、東地中海じゅうで好まれ、古代でもっとも多くまねされた硬貨になりました。
- 戦争は貨幣を溶かし、皮を被せた青銅を生みました。信用を立て直したのは、広場に座って毎日検める一人の役人です。
- 貨幣は自然によってではなく、取り決めによって存在する。前四世紀のアテナイで、NOMISMA の名の由来になる言葉が書かれました。
- インドと中国は、それぞれの大地で別々にお金を発明しました。重さを守って形を捨てた銀と、道具の形を残した青銅です。
目次
- 前この時代に、お金の何が変わったのか
- 1お金の前にあったもの — 粘土板から、ライオンの印まで
- 2最も豊かな王 — クロイソスの問いと、受け継がれる貨幣
- 3東からの火 — イオニアから、百の炉へ
- 4三つの秤 — 重さが外交だった
- 5名乗る銀貨 — 紋章貨から、フクロウへ
- 6地下の銀、海の船 — ラウレイオンから、サラミスへ
- 7帝国の通貨と、壊れる貨幣
- 8検める人と、ノモス — 信用を立て直す
- 9美と署名 — シラクサの大銀貨
- 10三つの大地 — インドの打刻銀貨、中国の刀と貝、ローマ前夜
- 11山の金、王の名 — マケドニア
- 後この時代から何が次へ残ったのか
- 巻末SUMMARY / GALLERY / PEOPLE / TIMELINE / DATA / QUESTIONS / DRILL / SOURCES / REVISION HISTORY
重さで払っていた世界が、印を信じて数える世界になりました。取引のたびに秤にかけ、品位を確かめていた時間を、王の印が肩代わりした。その一手で変わったのは金属ではなく、取引の速さと、市場の大きさです。この一冊は、その変化が起きる前と、起きた直後を歩きます。
印は、打った者が信じられている間だけ働きます。王が滅び、都市が戦争で銀を失い、皮を被せた青銅が市場を巡ったとき、人々は秤に戻るのではなく、検める役人と法を置きました。印を信じる世界は、信じ続けるための仕組みを、この時代のうちに一通り試しています。
お金の前にあったもの — 粘土板から、ライオンの印まで
教科書は、こう教えます。人々は物々交換をしていて、不便だから貨幣が生まれた、と。けれど古い粘土板が語るのは、物々交換ではありません。配分と、貸し付けと、記録です。
紀元前三一〇〇〜二九〇〇年ごろのメソポタミアの粘土板には、大麦とエンマー小麦の配分が刻まれています。紀元前一七八〇年ごろの粘土板には、大麦の貸し付けが、円筒印章を二つ押して記されています(どちらもメトロポリタン美術館所蔵)。誰が誰にどれだけ負っているか。それが記録されていれば、支払いは後でよい。顔を知っている相手なら、記録だけで足ります。貨幣が要るのは、顔を知らない相手と取引するときでした。
物々交換から貨幣が生まれた、という説明でよく引かれるスミス『国富論』(一七七六年)の場面は、「仮にこう考えよう」と書き出された仮定です。物々交換で暮らす社会の記録は示されていません。だからといって「物々交換は無かった」と言い切ることもしません。言えるのは、残っている古い記録が配分や貸し付けの帳簿だった、というところまでです。
重さで払う
バビロニアには、シェケルという言葉がありました。いまでは貨幣の名ですが、もとは重さの単位です。パリのルーヴル美術館に、高さ二メートルを超える玄武岩の柱があります。紀元前一七九二年から一七五〇年に王位にあった、ハンムラビの法典です。逃げた奴隷を見つけて主人に返した者には、主人が銀二シェケルを払う。医者がメスで大きく切開して治したなら、十シェケルを受け取る。値段は、重さで書かれていました。硬貨は、まだありません。人々は銀のかたまりを切り取り、秤にかけて払いました。ハックシルバーと呼ばれます。
重さで払う世界では、秤があればよい。その代わり、取引のたびに量り、品位を確かめなければならない。確かめる時間そのものが、取引の費用になります。この手間を消す発明が来るのは、千年以上あとのことでした。
貝、刀、牛
世界の各地で、人々はさまざまなものをお金として使いました。タカラガイは、モルディブの島々を囲む海で採れ、アジアやアフリカの各地へ運ばれて、長いあいだお金になりました。歴史家ヤン・ビンは、これを最初の世界のお金と呼んでいます。中国では、青銅で作った小さな刀や鋤の形の貨幣。ホメロスの叙事詩では、品物の値打ちが牛の頭数で語られます。グラウコスが差し出した黄金の武具は牛百頭分、受け取った青銅の武具は九頭分。競技の賞品の大きな三脚の釜は十二頭分でした。
貝も、刀も、牛も、共通しているのは、誰もが値打ちを知っていたことです。貨幣の条件は素材の高さではなく、隣の人が受け取ってくれると皆が信じていることです。
- 確認されていること
- 残っている古い粘土板には、大麦の配分(紀元前三一〇〇〜二九〇〇年ごろ)と、大麦の貸し付け(紀元前一七八〇年ごろ)が記されている。ハンムラビの法典は、値段を銀のシェケル、つまり重さで書いている。
- 分かっていないこと
- 「物々交換から貨幣が生まれた」を支える、物々交換で暮らす社会の記録。スミス(1776)の場面は仮定として書かれ、1913年にミッチェル=イネスがその裏づけを問うた。
川底の金
小アジアのリディア。トモロス山を下るパクトロス川が、砂の中に金を運んできました。伝説では、触れるものを金に変える王ミダスが、この川で呪いを洗い流したといいます。川底に眠るのは、銀を含んだ自然の金、エレクトロンです。まだコインではありません。ただ、価値ある金属のかたまりが、そこにありました。
やっかいなのは、川から採れる塊ごとに、金と銀の割合が違うことでした。見た目が同じでも、値打ちが違う。受け取る側は、毎回それを疑わねばなりません。この不確かさが、印を打つという発明を呼び込みます。
印を打つ
金属のかたまりは、重さも純度も、受け取るたびに確かめねばならない。小さな粒の詰まった袋なら、一粒ずつ試金石にこすりつけても、袋全体の値打ちは分かりません。紀元前七世紀の小アジアで、答えが見つかります。同じ重さにそろえた小さな塊に、印を打つ。値打ちを決めるのは、もう金属ではなく、印を打った者です。秤も試金石も要らず、数えるだけで払えます。
エフェソスの神殿から出た初期の硬貨は、半数が一・二グラムに満たない重さでした。二十四分の一の重さの一枚で、羊一頭か、穀物一ブッシェルが買えたといいます。印は、日々の小さな売り買いにまで入り込んでいきました。
一九〇四年から翌年にかけて、大英博物館の調査隊が、エフェソスのアルテミス神殿の下を掘りました。出てきたのは、九十三枚のエレクトロン貨です。紀元前七世紀の後半に、供え物として納められたものでした。そのうち九枚には、絵柄がありません。四角い窪みを打っただけのものもあります。図像すらない、ただの塊。けれどそこには確かに、印が打たれていた。刻印以前の刻印です。残りの硬貨には十数種類の印があり、リディアのライオンの頭、ポカイアのアザラシの頭、どこのものとも分からない雄鶏や甲虫が並びます。貨幣を打ったのは、王だけではありませんでした。
見るところ: 表の印は何か。裏には何が残っているか。縁は丸いか。
CNG coins / CC BY-SA 3.0(Wikimedia Commons) → 実物データベース
ライオンの印
紀元前六百年ごろ、リディアの都サルディス。王は、エレクトロンに吼えるライオンの頭を打ちました。いくつかの硬貨には、リディアの文字でワルウェトと刻まれています。多くの学者は、これをアリュアッテス王の名と読みます。ライオンの印は、この一枚にこれだけの値打ちがある、という王の宣言でした。ところが分析すると、中身の金は五十四パーセント、銀は四十四パーセントでした。研究者クロールは、かなり確かな証拠から、王家がこの硬貨を、川で採れるままのリディアのエレクトロンと同じ値と定めていた、と見ています。採れるままのエレクトロンは、平均で金がおよそ七十三パーセント。硬貨を打つ前の合金に、銀が足されていたことになります。クロールによれば、この硬貨で支払うと、一割五分から二割の得が王に残りました。印は、値打ちを請け合う道具であり、値打ちを定める王の懐を潤す道具でもありました。
サルディスは黄金の都でした。歴史家ヘロドトスは、こう書いています。わたしたちの知るかぎり、金と銀の貨幣を打って使ったのは、リディア人が最初だった。小売りの商いをはじめたのも、リディア人だった、と。数えるだけで使えるということは、秤を持ち歩かなくてよいということです。一日に何十回も売り買いする者にとって、量る時間は重い負担でした。ヘロドトスは、貨幣と小売りを、同じ民のはじめたこととして一つの文に並べています。
金と銀を分ける
リディア王クロイソス。その名は豊かさの代名詞になりました。それまでのライオンの硬貨は、金を薄めた合金でした。値打ちを高く定めすぎた硬貨は、いずれ受け取られなくなる、と研究者クロールは考えます。紀元前六世紀の半ば、クロイソスは国じゅうのエレクトロンの硬貨を回収し、純金の硬貨と純銀の硬貨に替えます。それを支えたのが、パクトロス川のほとり、城壁の外の精錬所でした。金属を薄い板に叩き延ばし、塩と重ねて壺に入れ、およそ八百度で何時間も熱する。銀は塩に奪われ、金だけが残ります。
こうして生まれた、純金だけで造った最初の硬貨は、ギリシャの世界でクロエセイドと呼ばれました。ライオンと牡牛が向き合う図柄です。金貨と銀貨を並べて使う、二本立ての仕組みが、ここに生まれました。
見るところ: KEY OBJECT 1と並べて、素材の色と印の違いを見る。二つの動物が向き合う配置は、どこまでが観察で、どこからが解釈か。
ArchaiOptix / CC BY-SA 4.0(Wikimedia Commons) → 実物データベース
国は消え、印は残る
紀元前五四七年、サルディスは陥落しました。十四日の包囲ののち、ペルシアの兵ヒュロイアデスが、前の日にリディアの兵が兜を拾いに降りてきた崖をよじ登り、ほかの兵が続いた、とヘロドトスは書きます。二千五百年あまりのちの発掘で、この日の瓦礫の中から、若い男の骨が見つかりました。頭の骨のすぐ前に、クロイソスの小さな銀貨が一枚、落ちていました。リディアは地図から消えました。
けれど滅びたのは国であって、発明ではありません。ペルシアはサルディスを総督の都とし、ライオンと牡牛の貨幣を、およそ三十年打ち続けました。名はクロイソスの貨幣のまま、中身はペルシアのお金です。紀元前五一五年ごろ、ダレイオス一世は図柄を、弓を手にした大王の姿に替えます。ダレイコスです。重さはそれまでの硬貨と同じで、塊のような形も受け継がれました。国は地図から消えても、手のひらの一枚は残る。この本で何度も出会う形が、ここで最初に現れます。
- その時代に起きたこと
- 重さで払う世界に、王が印を打った。取引のたびに量り、品位を確かめる時間が、印を打った者の値付けに置き換わった。王は金を薄めた合金で硬貨を造った(分析値)。王家がそれを川の金と同じ値と定めたというのは、研究者クロールの解釈である。
- 背後にあった仕組み
- 疑う時間を、印を打った者が肩代わりする。印の値打ちは金属の中身と、印を打った者への信用の、二つで支えられていた。中身が値付けに届かない分は、信用が埋めていた。
- 現代にも残る問い
- 相手が疑わずに受け取れるものは何か。今の一万円札を受け取るとき、あなたは何を確かめずに済ませているか。→ P12 信用には、何を差し出すのか
- 同じではない点
- リディアの印は、金属の塊に値打ちを付けた。中身の金は薄められていても、硬貨は金と銀を含んでいた。今の紙幣は金属を含まず、発行者の帳簿の上の負債として値打ちを持つ。印が請け合うものの種類が違う。→ 第10号『現金・預金・中央銀行をつなぐ』
無料で試し読みできる範囲はここまでです
この先の「最も豊かな王 — クロイソスの問いと、受け継がれる貨幣」「東からの火 — イオニアから、百の炉へ」「三つの秤 — 重さが外交だった」「名乗る銀貨 — 紋章貨から、フクロウへ」「地下の銀、海の船 — ラウレイオンから、サラミスへ」「帝国の通貨と、壊れる貨幣」「検める人と、ノモス — 信用を立て直す」「美と署名 — シラクサの大銀貨」「三つの大地 — インドの打刻銀貨、中国の刀と貝、ローマ前夜」「山の金、王の名 — マケドニア」は、購入された方向けです(本の終わりの資料も同じです)。
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