日本に届かなかった賠償金
日清戦争の賠償金は、日本の歳入の四倍を超える巨額でした。しかしその金は一度も日本へ運ばれることなく、帳簿の数字としてロンドンで受け取られます。

帳簿の上を動いた富
明治二十八年の下関条約で、清は日本へ軍費賠償金を払うことになりました。庫平銀二億両に、遼東半島を返す代償などが加わり、合わせて二億三千百五十万両。日本円でおよそ三億六千万円になります。当時の日本の国の歳入およそ八千万円を、四倍以上も上回る金額でした。
しかし、この賠償金は日本へ運ばれてはいません。イギリスの貨幣に換えられ、ロンドンで受け取られました。千両箱ではなく、帳簿の数字として国の富が動いた、最初の出来事です。
金本位という資格
賠償金は、ロンドンで英貨のまま日本の正貨の備えになりました。金は一度も日本へ運ばれず、そのまま金本位制の準備金になったのです。
明治三十年三月に貨幣法が公布され、十月に施行されます。一円は純金の四分の三グラムと定められました。明治四年の一円は純金一グラム半でしたから、平価はちょうど半分です。これは切り下げというより、建前を実勢に合わせたのだ、という見方が通っています。
では、なぜ金本位制が必要だったのか。威信のためではありません。外から借りるための資格でした。日本は、世界の金本位の輪に入りました。
借りるための信用
日清戦争の戦費、総計二億三千三百四十万円は、日銀からの借入と国内で募った軍事公債で賄われました。外債は一枚も出していません。明治のはじめから、政府は外国の資本が主権を侵すことへの警戒から、外国から借りることを嫌い続けてきました。
しかし、金本位制を整えた後、明治三十二年六月にロンドンで四分利付の英貨公債を出します。募集は一千万ポンドでしたが応募は伸びず、実収は八百六十万ポンドに留まりました。ロンドンの銀行家は、日本が金本位を保てるのかを疑い続けたのです。
ちなみに、清も賠償金を払う金を持っていませんでした。露仏の銀行や英独の銀行から借りて払っています。その担保は清の海関税と塩税。日本の金の土台は、清の関税と塩の税でできていました。
海を越えた円
金本位制を得た円は、海を越えていきます。明治三十二年には台湾銀行が設けられ、台湾の通貨を出す特別な銀行として営業を始めました。設立の目的には、南清の地方と南洋の島々へ営業を広げることが書かれています。
明治三十五年からは、第一銀行が大韓帝国で第一銀行券を出しました。韓国の公の紙幣を出す権利を得て、事実上の中央銀行になります。その紙幣に刷られていた肖像は、渋沢栄一でした。令和の一万円札は、渋沢の顔が紙幣になった二度目です。一度目は、日本が併合しようとしている国の紙幣の上でした。
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