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誰が維新の金を出したのか

安政七年、大老が暗殺された江戸に、日本でいちばん小さな小判が生まれました。政変と通貨の切り下げが重なったこの年、倒幕も佐幕も、それぞれの戦いには金がいりました。その金は、どこから来たのでしょうか。

2026-09-30 葉山 満 貨幣の話

血と雪と、軽くなった金

安政七年三月三日の朝、江戸は季節はずれの雪に見舞われました。この日、桜田門の外で大老井伊直弼の行列が水戸と薩摩の浪士たちに襲われます。勅許を得ない通商条約への調印と、反対者を捕らえた安政の大獄。その報いだ、と襲撃者たちは言いました。

同じ年の三月十八日、元号は万延と改まります。城の火災とこの事件、災いが続いたためだと、孝明天皇の強い意向によるものでした。そして、万延の名を負う小判が鋳られます。慶長小判のおよそ八分の一の金しか含まず、雛小判と呼ばれた日本でいちばん小さな小判です。ただし、暗殺が改鋳を命じたのではありません。目的は、海の外と開いてしまった金銀の比価を正すことでした。政変と通貨の切り下げ。二つが同じ年に重なったのです。

踏み倒された借金と、簿外の勘定

倒幕の軍資金は、どこから来たのでしょうか。

薩摩藩では文政十一年に、調所広郷が財政の立て直しを任されます。彼は大坂と江戸の商人から借りた五百万両の借金を、二百五十年賦の無利子に書き換える、と一方的に宣告しました。返す当ては、奄美大島や徳之島の黒砂糖でした。島の人々はサトウキビ以外の作物を作ることを禁じられ、年貢を砂糖で納めさせられます。後に清との抜け荷が露見すると、調所は責めを一身に負い、毒を仰ぎました。

長州藩には撫育方という、本会計とは別の勘定がありました。下関の越荷方で他藩の船に金と蔵を貸し、年に三千両から五千両を積み上げていきます。藩の会計が赤字でも、こちらは減りません。金持ちだったから勝ったのではない。思想の前に、会計の技がありました。

薩摩の名で買った長州の銃

慶応元年、長崎の大浦にあったトーマス・グラバーの商会は、亀山社中の仲立ちで一つの仕組みを作ります。幕府に睨まれ、自分の名では銃を買えない長州藩のため、薩摩藩の名義で武器を買い、長州へ回すという道筋です。

この仕組みで、旧式のゲベール銃四千三百挺と新式のミニエー銃三千挺、あわせて七千三百挺が動いたとされます。数は資料によって振れます。同じ年、薩摩が船の代金として支払った三十八万ドルのうち、二十万ドルがグラバー宛だったとも伝わります。支払いは洋銀でした。グラバーは幕府にも武器を売っています。彼は維新の恩人でも陰謀の主でもなく、日本の内戦の在庫を外国の商館が立て替えていたのです。

どちらが勝っても取り立てられる金

戦には金がいります。幕府は三井に、わずか三年で二百六十六万両もの御用金を求めました。一方、慶応四年の正月、新政府の由利公正は、近畿の富豪から三百万両を集め、三千万両の紙幣を出すことを建議します。由利が募った会計基立金では、京と大坂の豪商に五万両ずつが割り当てられました。

三井、小野組、島田組は、新政府の金穀出納所で出納を担い、為替方三家と呼ばれます。三井が官軍を作ったのではありません。幕府からも絞られていた彼らは、どちらが勝っても取り立てられる立場でした。そのかわり三家は、新しい国の金の出入りを握る特権を得ます。徴発と特権は、同じ小判の裏と表でした。

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